BLUEblue (前編)
1:
「信弛てめぇぶんなぐるぞ」
いつものからかいをしてくる信弛へ腕を振り上げるも、相手はそそくさと距離をとってしまう。言うだけ言ったらすぐに逃げるという信弛の癖だ。
「逃げんな!」
「星川の拳ってマジ女じゃねーぇし」
逃げて距離を取りながらも、信弛はニヤつき笑いをやめていない。
「昴やめときなよ。あいつへタレだし」
「なんだと弓原」
「そーそー、大撫はへタレだしな」
「卯ノ高!」
大撫信弛、弓原愛観、兎ノ高忠弘。そして自分。まだ数人ほど付き合いを持っている学校の友達がいたが、今はこの四人で下校途中だった。
「星川ってマジで女とは思えねーパンチ出すもんなぁ。ありえねぇ」
マジでとかありえねーなどは、信弛の口癖。しかも不定期に何の脈絡も無くその口癖が変わるのだが、本人もなぜなのかはよく分かってない。ただの馬鹿だ。
愛観と忠弘は、最近付き合いだしたばかりで正直どうでもいい。恋愛事などよくわからないし、さして興味も無いどうでもいい。この二人の付き合いがどんなのでどーなって行くかなんてのも、まったくまーったく興味は無い……話なら聞くけど。
「うん?」
ぴくりと鼻がむずがゆくなってきた。理由は分からない。
「――いる」
周りには聞こえないぐらいの声で声に出してしまった。
ついでに立ち止まって辺りを見回す。三人が目の前で立ち止まって振り向いてきたが、そんな事はどうでもいい。近くにいるような気がしてならない、あいつが気にかかってしかたがない。
時計を見る。時間を確認したのは、あいつがそろそろ喫茶店に顔を出す可能性が高い時間かどうかを見たかったからだ。
あいつが喫茶店に顔を出す時間よりもやや早い時間。なら、おそらくこれから向かおうとしているところだろう。だとすると――
「こっちかな」
人だかりのさらに奥の道を見る。
「星川どうした?」
「昴?」
忠弘と愛観が言ってくるが、そちらへ視線は向けず、
「悪い、また明日な。じゃあ」
簡単に手を振って、目標を求めて走る。
「あ、しまった」
と、すぐに立ち止まって振り返り信弛の所へ。
がつん!
大振りで信弛の頭を殴りつけた。
「忘れるところだったわー」
頭をおさえてうずくまる信弛。
「てっめ……」
「やっぱり俺の拳、痛いよな?」
「いってぇよ! すごくいてぇよマジで! マジありえねー」
「だよなぁやっぱり」
自分の拳をまじまじと見て、軽く手首を振った。
「んじゃ」
今度こそ手のひらを見せて三人と別れた。
――目標発見狙い通り!
予想通りにあいつがいたことに舌なめずりをし、走る勢いを抑えないまま、その相手の背中へ持っていた革鞄を振る。
が――空ぶった。
相手は鞄が当たる直前でひらりと避けて見せた。まるで後ろにも目があって始めから気づいていたかのように。
「昴か」
「誠一郎発見!」
ボクシングスタイルのマネをしてジャブを目の前で当てないよう打ってやる。しかし誠一郎は無表情で突っ立っているだけだった。
こいつは何で後ろからの攻撃を簡単に避けやがるのか。いつか不意打ちを成功させてびっくりさせたい。
「なんで避けるんだよ」
「避けたら駄目か?」
「避けるな、てりゃ!」
革鞄を持っているので、開いている片手で誠一郎の腹に片手ジャブを目いっぱい打ち込んでやる。ぼすぼすぼすぼすと連続するも。以外に腹筋が硬い。
「お前痛くないのか?」
まったく効いていない、さっぱりとした顔でいる誠一郎。
「少しは痛いが、うずくまったり転げまわるほどではないな。顔が歪むほどでもない」
「なんだとてめ」
さらにべしべしべしと腕が疲れるくらいジャブを入れてやるが、誠一郎はまったくけろりとしていた。
やっぱり信弛がへタレだったんだな。うん。
まったく効いていない。
ひとしきり打ち込んで疲れた手を揉みながら、当たり前のことを聞いてみる。
「これから『ひなた』?」
「ああ、そのつもりだ。昴もだろう?」
特に今日は行く理由は無かった。バイトに入っているわけでもないし。
しかし誠一郎にそう先に言われたのなら仕方が無い。
「しかたない、今日も付き合ってやるかねえ」
やれやれと肩をすくめて。誠一郎が行くなら自分も行くしかない。
「なら行こうか」
「おうよ」
なんとなく、そうなんとなく誠一郎がどこかへ寄り道したり急に足を止めて見失ったりしないように腕を掴んでおこう。肘の裏の辺りがいい、位置的に。そういうことだ。
「じゃあいくぞ誠一郎」
「ああ」
誠一郎の腕を引っ張りながら歩き出した。
ああ、俺は誠一郎が好きだ。
認める。
好きなんだ。
誠一郎はダチみたいな猿とはまったく違う空気を持っている。
いつも静かで穏やかで、優しい。
これが大人の空気というやつなのだろうか?
だらしない格好もしていないし、下品な言葉も出さない。
しょっちゅうボケた事言うけど、でも時々誠一郎の声は私の心を打つ。
傍にいるだけで心地良い。
この一言に尽きる。
「昴」
誠一郎の声にはっとなる。
「これでは歩きづらい」
「……あ」
気がつけば、俺は誠一郎の腕にしがみついていた。
あわてて誠一郎から離れる。顔が熱い。
「悪い! ほんとに悪い!」
「いや、別に気分を害したわけじゃない」
「そっか……」
どう言い返せばいいのか分からない。そして誠一郎がすっと私を追い越して先を行ってしまった。
「あ……」
もしかして本当に、なんとも思ってない? あんなにしがみつくほど腕を抱いていたのに何とも思って無いのかよ。
なんだかむっとしてきた。
あ! そうだ!
駆け足で誠一郎に追いつき、軽くジャンプ。
両手を伸ばして誠一郎の眼鏡を奪い取ってやった。
「へっへーん、これじゃあ周りも見えないだろ?」
誠一郎って、眼鏡を取るとさらにさっぱりした顔というか、綺麗な顔なんだな。
「いや、無くても見える」
「へ?」
「それは伊達眼鏡というやつだ。度は入っていない」
「マジで?」
眼鏡を覗き込む。
本当だ、裸眼の俺でもレンズが透けてちゃんと見える。
「あっ」
隙を取られ、眼鏡を奪い返された。
「何で伊達眼鏡なんてしてるんだよ?」
「それは……」
誠一郎は言葉を少し考えて。
「昔に、眼鏡をかけたほうが似合うと言われた」
「なんだそれ? 誰にだよ?」
誠一郎が珍しく言葉を詰まらせている。
「さあ? 誰だったかな?」
誠一郎が眼鏡をかけなおして、眼鏡のブリッジを人差し指で位置を調整した。
そんな事を言ったやつは誰なんだ? まあ確かに似合ってるけど。
「誰なんだよ」
「忘れた」
「思い出せ!」
「もう忘れた。昔の事だ」
「おーもーいーだーせー!」
再び眼鏡を奪ってやろうと手を伸ばすが、今度はそうはいかず、するすると逃げられる。
静かで無駄の無い動き。そんでもってちょっとカッコつけてやがるな。小回りなんてしやがって。
「早く行くぞ」
「おーしーえーろー!」
2:
ひなた時計のドアを開けると、カランカランとカウベルが鳴った。
「お?」
客が多いな。
「あ、昴ちゃん!」
忙しなく働いていた加奈子がこちらに気づく。
「ごめん! 手伝って!」
「シュウジとシャオは?」
「今日もいないのよ」
「仕方ねえなあ」
あの二人を思い出して頭を掻く。
そういえばユーリとか言う白人の外国人と連日遊びまわってるんだっけか。
「じゃあ誠一郎、ちょっと手伝ってくるわ」
「ああ、がんばれ」
くそう、せっかく誠一郎と一緒だったのに……。
ちなみに俺の制服はいつもこれ。
オレンジのフリルスカートの制服。
なんで俺だけこんなのなんだよ……。
ちらりとシャオテンのロッカーを見る。今はシャオテンは居ないからシャオテンの制服を着ても……。
いやでも勝手に着て汚してしまったら。
「はぁ……」
駄目だよな、勝手に使ったら。
なんで俺だけこんな格好してバイトしなきゃならないのか。
「…………」
誰かがいたらぶつくさ文句を愚痴りたい所だったが、あいにく着替え室には誰もいない。
とりあえず着替える。
「…………」
ふつーこういうのってさ、もっと女の子っぽいやつが着る物だよな?
なんで俺なんだ?
ああ、リボンもつけないと怒られる。
ロッカーの扉の裏についている鏡で、今の自分の姿を確かめる。
仏頂面の私の顔に、オレンジふりふりの衣装。
これが俺か。
「…………」
やっぱ似合わないよな? こういうのはもっとこう、両腕を胸に合わせて、手を顎の下に置いて……ちょっと上目遣いに、にこりと笑うんだっけか?
それとも頭に右手を、左手は脇の辺りに置いて、さらに腰を少しひねって、足はこう上げて……かな?
もしくは、両手を後ろに回してちょっと前屈みになって見上げるような仕草? か?
そういえばシャオテンがよくやってる、両手を前でしっかり伸ばして、顔を傾けながら、にっこりと笑顔――
「昴ちゃん?」
ドキリッ!
いきなりの声に心臓が飛び跳ねて体が固まった。
視線だけ移すと、出入り口に加奈子がいた。
「なにやってるの、かな……?」
「あ、いや、これは、その……なんだろうな?」
「練習もほどほどにね」
「……あ、はい」
加奈子がすっと去っていった。
自分は今何をしていたのだろうか?
しかも見られてた。いつからだ?
やばい、頭がショートしそうだ……。
「うわあああぁぁぁ……」
やってしまった。すっげえ恥ずかしい。
ああまだ顔が熱い。でも見られたのが加奈子だったからいいか。
もし凉平のヤツだったら散々にからかわれていただろう。それだけが救いだった。
「お待たせいたしました」
商談をしているのだろう、資料の神束を持って話し合っているサラリーマン。邪魔にならない位置にホットコーヒーを置く。
ほんとここは喫茶店なだけにコーヒーが売れるよな。
俺は香りは良しとしても、飲むと苦いとしか思えないんだが。
そういえば誠一郎もコーヒーばかり飲むよな?
誠一郎はコーヒーにミルクをひとさじ、そして角砂糖を必ず二つ入れる。何かこだわりでもあるのだろうか?
「昴、5番テーブル頼むわ」
「おう」
厨房から凉平がホットサンドとオレンジジュースを、それとマスターがすっとコーヒーを出した。
5番テーブルは妊婦さんと向かい合っている母親と子供か。
どうやら子育て相談をしているようだ。
「おまたせいたしました」
そういえば、俺も女なんだよな……じゃあいつか子供も?
…………想像できねー。
「ごゆっくりどうぞ」
子供って言うと、俺も結婚をいつかするのか?
反射的に誠一郎を見てしまった。
「…………」
もっと想像できねーえ。
誠一郎がパパで俺がママか? ふざけんな。
んでもって子供? もっとありえねー。
きっと今みたいにすまし顔でコーヒー飲みながらの誠一郎のままで、俺のほうはというと赤ん坊を抱っこして一家団欒か?
っていうか子供作るって、それは……
あれ? えっ?
「昴ちゃん」
「うわっ!」
突然加奈子に話しかけられてびっくりした。
「ずっと顔が赤いけど調子悪い?」
「いや、なんでもない。なんでもねえよ」
「?」
「ほんとだって!」
ああまた顔が熱い。今日はなんだか間抜けな所ばかり周囲に見せている気がする。
「調子悪かったら早めに言ってね」
「お、おう。だいじょうぶだから」
葉山誠一郎 二十歳。
村雲探偵事務所の所員。村雲なだけに所長はあの子持ちの女、村雲鈴音が所長。
身長は高い、さっぱりした顔立ちですらりとしている。
いつも無表情面で何を考えているかわからない。さらには少し天然ボケなのか的はずれな事を言っては一人で勝手に納得する所がある。でも、相手の心象を突くような、胸を打つ言葉が出てきて時々びっくりする。一言でいうと変なやつ。
いつもしている銀縁の眼鏡は伊達眼鏡。昔誰かに眼鏡が似合うと言われたらしいが誰だったのかは忘れたと言っている。
物静かで、穏やかな空気を持っていて、それとは別で腕っ節も強い。
周りのやつらは「誠一郎はすごく影が薄い」と言っているが。私にはまったく影が薄いなどとは思えない。ただ物静かなやつだけにしか見えない。
俺の好きな人。それが葉山誠一郎。
晩飯はバイト先で食べてから帰ると母親へ連絡を入れたので、すっかり外は夜にふけっていた。
「昴の家は、遅く帰っても大丈夫なのか?」
家の近くまで送ってくれる誠一郎がぽつりと言ってきた。
「まーねー、もう子供じゃないし」
「だが女の子だろう?」
「…………」
胸が静かに高鳴った。言い返す言葉が見当たらない。
俺を女の子扱いしてくるのは誠一郎だけだ。確かに俺は女だけど……。
「この年なら夜遊びぐらいするって!」
「駄目だ」
誠一郎が歩きながらすっぱりと言ってきた。
「女の子が夜遊びなど、夏以外は駄目だ」
「なんで夏だけ?」
「花火を見るには夜しかないだろう?」
「あー……」
そりゃそうだけど、なんというか……。
はぁ、とため息をつく。
「どうした?」
「何でもねーよ」
「ふむ、また何か変だったか?」
あ、微妙に自覚しようとしてるんだ。
「別に全然変じゃねえよ」
「そうか」
面白いからしばらく無自覚でいてくれ。内心で笑ってやる。
「まーとにかく、別にやましい事してるわけじゃねえし。いいんだよ」
「そうだったな。労働をしての帰りだから健全だった、すまない」
「謝らなくていいし」
やっぱりちょっとづつだけど自覚しようとしているんだな。
面白いヤツ。
どうかずっとこのままでいてくれ。
「そういえばさ、探偵業って何をやっているんだ?」
「ふむ。大体が浮気調査、子供の素行調査、探す時間を持てない家庭の変わりにいなくなったペットを探す、離ればなれになった親族や恋人の最近の居場所探し、とかか……」
「やっぱり浮気調査ってのは本当にあるんだ?」
「ああ、意外と多い」
「世も末だよな」
「だが杞憂に終わることもある。調査をしていてただ単に仕事に根をつめていたとか、上司の接待につき合わされ続けているとか、本当に浮気をしているかどうかの比率としては五分五分といったところだ」
「せっかく依頼したのにただの自分の空回りだったってことか。探偵の依頼料って高いんだろ? 金の無駄遣いだな」
「いいや」
誠一郎が少し頭を伏せて、
「誰しも不安というものはある日突然やってくる。自分の大切な人が自分を裏切っているかもしれない、愛している自分の子供の最近の行動が怪しい、大事にしていたものがなくなってしまった……久しぶりにでもいいから懐かしい人に会いたいという、寂しさも」
「…………」
「確かに探偵業は高いが、それを払ってでも自分の不安や焦りを取り除きたい、その正体を突き止めたい……安心したい。そういうのが人というものなんだ。だからその気持ちに答える、それがこの業界の生業なんだ」
「…………」
「たとえその答えが悲痛なものであったとしても、ただの空回りだったのだとしても、探偵と言うのは見えない答えを、依頼者の代わりに見つけてあげるんだ」
「……そっか」
不安、焦り、安心したい、気持ちを晴らしたい。
「優しいんだな。誠一郎は」
今の言葉は、内心では驚くほどすっと口から出た。
「俺が、優しい?」
「ああ。そうだ」
「……そうなのか?」
「そうだって……言ってるっだろ!」
誠一郎の背中を思いっきり叩いてやった。
「今のは痛かったぞ」
背中をさすりながらずれた眼鏡をかけ直す誠一郎。
「ざまーみろ」
本当に、
誠一郎は面白いやつだ。
「じゃあ、この辺でいいよ。もう家も近いし」
「そうか、じゃあまたな」
「ああ、じゃあな」
くるりと背を向けて誠一郎は今まで歩いてきた道を引き返す。
わざわざ通りもしない道を、俺を送るためだけについてきた誠一郎。それが去っていく。それを見て、なんだか胸が急にすくような感覚になった。
3:
そして誠一郎という人間はある日突然、
いなくなる。
「星川、どした?」
「えっ」
下校途中に辺りを見回していたら、信弛が言ってきた。
「誰か探してるの?」
「あー……っと」
愛観の問いに言葉を詰まらせる。
ぐっと心に決めて口を開く。
「悪い、俺はここで、じゃな」
「おいおいまたバイトか?」
「そろそろ教えてよ、何のバイトしているの?」
「おしえねーよ」
絶対に知られてはならない。あんな格好をして喫茶店で働いているなんて知られたら、これから先ずっとからかわれ続けるだろう。そんなやつらだ。
「あっ昴!」
「じゃーなー!」
逃げ出すように二人から離れていく。
たしか、いつもならこの時間ぐらいにはひなた時計に向かって足を運んでいる頃だ。
辺りを見回す。
……誠一郎。
つい鼻を動かして探してしまう。こんな中で誠一郎の匂いをかぎ分けられるはずは無いのだが、癖になってしまっていた。
見渡す。
……誠一郎はいない。どこにも。
気配すら見当たらない。
いつも誠一郎と歩くひなた時計への道。足早に進みながら。
…………。
ひなた時計まで着いてしまった。
カウベルを鳴らしてひなた時計のドアを開ける。
「あ、昴ちゃん」
今日は大して混んでいないようだ。
「誠一……」
いつも誠一郎が座っているカウンターを見る。
「……朗」
そこには誰もいなかった。
「…………」
なんだろうか、胸の中がぽっかり空いて、そこから風が吹いているような。
そんな感覚がする。
誠一郎が居ない。
まただ。たまに誠一郎は、ある日突然、俺の前からいなくなる。
「誠一郎さんならまだ着てないよ?」
加奈子に言われて、我を思い出す。
「あ、ああ……」
カウンターに向かって歩く。
カウンターの一番右端から二つ目。そこが誠一郎の定位置。
誠一郎は居ない。
なんだろう。胸が締め付けられるように苦しい。
なんでだ? なんで急にこんな気持ちになるんだ?
なんで誠一郎がいないと私は……。
空虚な気持ちで、右端から三番目のスツールに座る。ここが私の定位置で、いつも右隣に誠一郎がいる。はずなのに……。
コトリ。
目の前にオレンジジュースが置かれた。
見ればマスターがカウンターを挟んで置いてくれたのだった。
「喉が乾いているんじゃないか?」
マスターの重く静かな声。でも誠一郎の声じゃない。
「ああ。どうもっす」
早足でここまで来たから、喉は確かに乾いていた。
ストローからオレンジジュースを飲み、ため息をついて落ち着く。
待ってれば、来るかな?
外を見る。銀色のワンボックスカーが店の前をさーっと通り過ぎていって。
誠一郎の姿は見当たらなかった。
「…………」
なんだか、胸の中に風が吹いていて、むずむずざわざわしていて、きゅうと縮こまるように苦しくて。どうしたらいいのか何をしたらいいのか分からない。
「…………」
なんだろう、この気持ち。
ただ誠一郎を見なかっただけってだけで、何でこんな気持ちになるんだろうか?
キィ……キィ……
暇で仕方がなく、足をぶらつかせて座っているスツールの音を鳴らす。
ちらりと時計を見る。六時三十五分を過ぎた所。
もう何度も何度も、後ろを振り向いてガラス越しに行きかう人の姿を観る。
誠一郎は一向に姿を見せる気配が無い。
「…………」
なんかムカムカしてきた。
待ってるのに、誠一郎がやってくるのを待っているのに。まったく姿を現さない。
俺が待ってるんだぞ、早く来いよ……
「昴」
ガラス越しの外を睨みつけていると、銀の盆で凉平に軽く叩かれた。
「あのさ、誠一郎も日がな一日中暇ってわけじゃねーんだ。仕事しているのが普通なんだよ。わかるだろ?」
理屈では分かる。だけどそんな事で俺の腹の中はさらにムカッときていた。
「うるさい」
視線をカウンターに戻して頬杖を付く。
それを見た凉平がため息をついて去っていた。
別に、分かってるよそんなこと。
でも今ひなた時計を出て行ったら、入れ違いに誠一郎が来るかもしれない。まだ弊店にも一時間半もある。もしかしたら夜にやってきて皆で晩飯を食うかもしれない。
まだ誠一郎が現れるチャンスがあるはずだ。
「…………」
早く、来てくれよ。
カウンターに突っ伏して顔を埋める。
また凉平がやってきて、盆で殴られた。
「ったくよ、寝るなら帰りなさい」
「うるさい」
凉平が煩わしい。すっごい邪魔だ。俺が誠一郎と会うのを邪魔したいのか? そうなのか? もしかしたらあと五分後、十分後に誠一郎が現れるかもしれないじゃないか。
「えっとよ。誠一郎は――」
反射的に顔を上げる。
「誠一郎!」
「いや違う、今日は来ないってさ。メールでやっと返事が返ってきたんだが、仕事中だってさ。だから今日は無理なんだとよ」
「…………」
「そういえば昴、お前は誠一郎の携帯番号知らないのか?」
「ああ、知らない。交換するの、ずっと忘れてた」
「なるほどね。確かにしょっちゅう一緒に来るしな」
「凉平、誠一郎の番号教えろ」
「それは駄目だな」
「なんでだよ」
「簡単に他人の携帯番号を教えるのはマナー違反だ。せめて本人に教えてもいいか聞いてからだ」
「じゃあ今すぐ聞け!」
「あいつはいま仕事中だって言ってるだろ」
「…………」
「…………」
凉平をこれでもかと睨みつける。だが凉平は数秒で視線を離し、軽く首を振って「駄目なものは駄目だ」と言って去っていった。
「くーーーー」
悔しい、なんだかすっごく悔しい。
誠一郎が一人来てくれるだけで、それだけいいのに。
たったそれだけでいいのに……。
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