第七話 凉平編2

Chaser・D (前編)

 1:

 頻繁に見るこの夢は、必ず暗闇の中にいることから始まる。

 もう何度も見た夢の中――

 目が覚めてしまえば、泡が消えるように忘れてしまう。そんな程度の事。

 そしてまたこの夢が始まって、「ああまたか」と思い出す。

 始まってようやく思い出し、何度見てもいつの間にか忘れてしまい、また始まったときに思い出す繰り返し。

 ――悪夢と言うよりも、呪いみたいだ。

 久しぶりに見たためか(そんな気がする)今回は他人事のように見えていた。

 ――兄貴。サヤカ。

 向かい合っているのは男女の二人。

 何度見ても……いいやおそらく、自分がどれだけ年を過ごしても、この男は常に自分よりも年上なのだろう。

 女のほうは、最初の頃は年が同じだったはずなのに、もうはるかに年下な気さえしている。

 男女の顔は、見えない。

 忘れてしまったのだろうか? それとも、自分がまともに見れないからだろうか?

 ただ分かるのは、あの頃の顔はもう見ることができない。ということだけ。

 温かみのある気配も無い、かといって冷たい様子でもない、受け入れてくれる様子でもなく――

 ただ、ひたすらに薄かった。

 暗闇の中で、虚空のように立ち、棘のような視線を受けている気がする――軽蔑の気配。

 兄貴と親った人と、親友だった少女。

 去ることも、歩み寄ることも、逃げることも――

 ざくん

 背後から突き刺された――胸から出てきた闇よりも深い黒い刃。

 来るのは分かっていた、毎度の事だ。

 正面の男女から目を離して、頭を動かして背後を見る。

 はやり、コイツしかいなかった。

 黒い刀。黒いコートの……元相棒。

 突き刺さった黒い刃が一気に引き抜かれ、そのまま倒れる。

 うつ伏せに倒れたのにも関わらず、兄貴とサヤカ、元相棒がこちらを見下ろしていた。

  

 MELL・K(メル・ケー)はまだ、倒せていない。

 トップの馬車文厚の抹殺……先日の任務は失敗。その場にいた相手共は、元相棒のセイバー1の救援で全滅させたが、目標は居なかった。

 ――まだ自分自身の問題は解決していない。

 だからまたこんな夢を見ることになったのだろう。

 うんざりするほどに、よく分かっている。

 ――理性に理屈は通じても、心に理屈は通じない。

 目が覚める。

 顔の横にある目覚まし時計を見れば、鳴り響く一分と約十秒前。

(習慣ってのは恐ろしいな、本当に)

 妙に沸いた悔しさから、凉平はセットした目覚まし時計が鳴るまでの一分間を、じっくりまどろんだ後で、鳴り出した瞬間に時計を叩き止めてやった。


 むくり。

 毛布の中から手を伸ばして、目覚まし時計二号のアラームを引っつかんで停止させる。

 ついでに毛布から出して伸ばした手も停止。

 …………。

 また目覚まし時計二号がスヌーズ機能で鳴り出す。

 もう一度停止。目覚まし時計を止めた手も停止。

「う……むぅ」

 今度は伸ばしていた手が再び動き出し、もぞもぞと毛布の中へ――

 そんな矢先に、三度目の覚まし時計二号が始動。

「ふんっ!」

 今度はきわめて俊敏な動作で毛布から手が伸び、目覚まし時計二号と停止させる。

「む……ううぃ」

 そんな時、下の階に住んでいるどこかの家族の「早く起きなさーい」という声が、わずかに聞こえてきた。

「――っは」

 目覚まし時計よりも、そんな遠くから聞こえてきた一声で目が覚めた。

 ――田名木柚紀の朝。

 毛布の中で体の向きを変えたのか、もぞもぞと動きがあった後で、ちょうど尻の位置に当たる部分が山の字に上がっていく。

 尻が上がって毛布が山の形に出来上がったところで、柚紀の「くぅ~」という背中を伸ばす声が聞こえてきて、数秒。

「ふぅー」

 凝り固まった背中がすっきりした様子で、ようやく柚紀が毛布をどかして起き上がった。

 起き上がり際に、今度は両腕を伸ばす。

 やはり、ベットを買ったほうが良かったかもしれないとそう思いつつ、最終的にケチった事を後悔していないと、自分に言い聞かせている。

 何せ、初代の目覚まし時計は電子音ではなくベル音が鳴るのを買ったが、あまりにも音が大きくて、毎回驚いて目が覚めてしまう。

 その初代目覚まし時計は、早々に隅っこで電池を抜かれてお役御免となっていた。

 ――もうすでに無駄遣いをしてしまっているのだ、もう布団を一組買ってしまっているのだ。敷布団とベットを両方持っているなんて贅沢はできない。

 そんな自分への言い聞かせ。

 ……ぐぅ

 お腹が鳴った。

 しかし、まだ我慢の子でなければならない。

 朝の支度をして、外に出て、行きつけの喫茶店である『ひなた時計』へ向かい、到着するまで朝ごはんはまだだ……食べる前に歩いておかなければ。

 ――体型維持は、日ごろの地道な努力と、手軽なダイエット方法で!

 そして、今日は何を作るのだろうか? と、ひなた時計の従業員凉平が作る洋菓子を思い浮かべ、どうかすめ取るかおごらせるか、最低おこぼれをどうやって頂戴するかを思いつつ。またお腹が小さく鳴った。


「いただきまーす」

「……お前、近いうちに太るぞ?」

「うるせーぼけだまってろぶちころすぞ」

「…………」

 朝から食後のロールケーキをほおばる柚紀へ、とりあえず凉平は咳払いをしてそっぽを向いた。

「おまえが朝からこんなものを作ってたから悪いんじゃー」

「いや店に並べるために作ったんだけど――」

「口答えしたからお前のおごりじゃー」

「…………」

「返事が無いから罰として明日も出すんじゃぞ」

「じゃあ俺はどうすればいいんだっ!」

 昴が横からぽつりと、

「……ふつーに断ればいいんじゃねぇか?」


 そんな凉平と柚紀の他愛も無い会話に横槍を入れてきたのは、同じカウンターテーブルに座って、少し離れた場所に居た星川昴だった。

 さらにその昴の隣には、食後のコーヒーをすまし顔ですすっている誠一郎が居る。

 カウンターテーブルにはスツール……席が七つあった。

 その両端には壁と、レジがおいてある会計場所。

 レジ側に一番近い席は、アルバイトの庭崎加奈子が座る以外はいつも一つだけ空いており、そこから右へ順番に柚紀と凉平。さらに二つ分のスツールを開けて、壁際の席に誠一郎と昴が座っている。

 この座り方が彼らのいつもの配置であり、たまに間の二つに、シュウジシャオテンの二人か、もしくは常連の村雲鈴音(たまに息子の灯夜)が座り、カウンターの奥側には、ひなた時計のマスター防人が居る。

 常に陣取っているわけではなく、空いていればいつもその座り位置にそれぞれが座るといった具合だった。

 ひなた時計の仕事分担も、規則といった固め方ではないものの、ある程度決まっていた。

 カウンター周りの『島』は、基本マスターである防人が受け持っている。

 喫茶店ひなた時計の入り口から、向かって右側のレジとカウンターがある『島』とは別に、反対方向の左側にはソファーとテーブルが配置されたボックス席が複数並んでいる。

 そちら側は、凉平、加奈子、シャオテン、昴が主に動いている。

 ――シュウジは未だに一貫して掃除と食器を下げることしかしないため、ほぼ戦力外だ。

 最もここでマスターを除いての、ちゃんとした従業員は凉平のみであり、メニューはマスターと凉平が受け持っているため、店内での立ち回りのほとんどは加奈子の指揮で回っている。

 特に加奈子はチーフアルバイトとして昇進し、堂々と周囲を動かせるようになり心強くなっていた。

「その新しい服はどうだ?」

 凉平が、昴に聞く。

「どーだ? っていわれてもなぁ……」

 なぜか昴だけはここで働くに辺り、特別なウェイトレス姿で働いている。

 今回の新しい制服は、爽やかなグリーン地に白いフリルだらけのミニスカートだった。

「前のとは色違いでちょっと違うってだけだろう? 代わり映えしてないし」

「不満のようだな」

 昴の隣に居た誠一郎がぽつりと。

「え?」

 びくりとする昴。

「もっと『映え』のあるデザインのほうが良かったのだろう?」

「ち! ちげぇよっ! そんなんじゃ――」

「加奈子ちゃんーやっぱり昴がイマイチだってさ」

 ボックス席側に居た加奈子を凉平が呼び、加奈子がそれを聞いた後で考え込み始めた。

「ま、まて! ちがう! そういう意味じゃなくってだな!」

 元々髪が短くボーイッシュな昴――顔を赤らめて抗議をするも、加奈子はぶつぶつと考え込みながら、こちらに背を向けて立ち去ってしまう。

「普通の……普通の服で……普通のが」

 そんな悲痛な声も、新しい昴の制服案を考えつつ去って行った加奈子にはもう届かなくなっていた。

 ――そんな間に、ロールケーキを平らげてご満悦の柚紀が、

「ふー食った食った」

「……そりゃよかったですね」

 凉平がぼそりと呟いた。


 2:

 お茶で一服した柚紀と凉平が、そろって立ち上がる。

「それではマスター、ちょっと凉平さんをお借りします」

「うむ、こき使ってくるといい」

「はい」

 加奈子に会計をしてもらい、すでにひなた時計の出入り口で柚紀を待っていた凉平。

「んじゃとっとと行きますか」

「きりきり働けー」

「ほいほい」

 と、柚紀と凉平が出ようとした時。

「あ」

 ちょうど、同じようにひなた時計を出ようとした――ユーリと柚紀が鉢合わせた。

「ユーリ君たちも、どこか行くの?」

「えっと、はい……」

 ユーリ=東条。凉平の古い友人がこちらに来たのだが、その友人夫婦がそろって仕事の疲れから入院をしてしまい、ひなた時計で一時的に過ごしている子。と柚紀は聞いていた。

 ユーリの大きな緑目が、柚紀と合ってやや戸惑いがちになっている。

「気をつけてね」

 柚紀がユーリの頭を撫でつつ、出入り口のドアを開けてやる。

「はい、どうぞ」

「どうも……」

 素直に、柚紀の開けたドアをくぐって外へ出て行くユーリ。

 その後ろを、シュウジとシャオテンが続けて出て行き――

「お前らまたサボりか」

 一昨日のサボタージュがあってから、今度は堂々とひなた時計を後にしようとするシュウジ。

「うっせー」

 適当に言葉を投げたシュウジがそそくさと外へ出て、最後にシャオテンが「申し訳ございません」と深々と頭を下げて出て行った。

「いいの? 凉平さん」

 一応、凉平に聞く柚紀。

「あー、まぁ何してるかは知らないが、ここに来てからずっと休みなしで働いてたからな、まとまった休みを入れたと、思っておくさ」

 柚紀が一度店内の様子を見て回ると、マスターがそうしておこうと言わんばかりに何度か頷き、昴はやれやれといった感じで誠一郎から離れて仕事に入ろうとし、加奈子は不機嫌に眉根を寄せていた。

 それぞれが不承不承、といった雰囲気である。

「そっかー」

 柚紀はここの人間達と顔見知りの友人関係であっても、ここで働いているわけではない。

 店の意向には干渉できないのだ。

 ただし――

「年長なんだからもっとしっかりしなさい!」

 柚紀が凉平の背中をべちんと叩く。

「俺なのかよ!」

 半ばとばっちりを受けた凉平の言葉も虚しく、その場の全員が一斉に深々と頷いた。

 

「この幼稚園の用務員さん、園長のお父さんでもうお爺ちゃんなんだけど、夏休みに入る前にぎっくり腰になっちゃって」

 柚紀がこれから向かう幼稚園へ向かう途中、凉平に再度助っ人の説明をしていた。

「本当だったら夏休み前に花壇の手入れをして、子供達と新しいお花を植える予定だったんだけど、なかなか治らなくって、結局夏休み中になってもできなかったらしいの」

 この先にある幼稚園へ向かう途中、車道の反対車線のなんでもない場所に、乗用車が一台留まっていた。

「おっと」

 凉平がそんな気軽な声と足取りで、車道側に移動する。

 車道側から柚紀を守るように――

「車が来たら危ないだろう?」

 柚紀へそう付け足す凉平。

「あ、うん……それでね、私の方に夏休み中に一度呼び集めるから、用務員のおじいちゃんの代わりに子供達と花壇にお花を植える手伝いをお願いされたの」

「ライフラインが広いなぁ」

「まーねー。長年花屋をやっていたから、こういったちょっとしたコネもあるのよー」

 ふっふっふと自慢げな柚紀。

「粗相の無いようにしてね」

「ほいほーい」

 ちょうど反対車線で留まっている乗用車の横を通り過ぎ、凉平が一度だけちらりと車の中を見て――

 留まっていた乗用車が急に発進していなくなった。

「お」

 視線を前に戻した瞬間、凉平h急に立ち止まって足元に合ったものをつまみ上げた。

「五百円めっけ。ラッキー」

 これは得したとばかりに、拾った五百円を一度指ではじいてキャッチする凉平。

「凉平さん聞いてましたか?」

「あ、うん。聞いてた聞いてた」

 拾った五百円をポケットに入れつつ、凉平が柚紀に答える。

「…………」

 半眼になってじとーっと凉平を睨む柚紀。

「なんだよ? やらんしおごらんぞ」

「別にいーです~」

 ふいっと視線を正面に戻して歩きなおす柚紀。不機嫌な顔のまま。

 そのまま幼稚園の正門に到着すると、園児服を着た子供と、その母親と保母が話をしていた。

 近くまでやってくると、やり取りが聞こえてきた。

「先生、警察行くー」

「あらあらどうして?」

「じゅうえん拾ったの。落ちてたお金は警察に届けなきゃいけないんだよ」

「この子が十円玉拾って、警察に持って行くって聞かないんです」

「そっかー、じゃあ幼稚園終わったら持って行いかないと。それまで大事に持っておこうねー」

「はーい」

 そんなやり取りをして、園児が園の中へ入っていくと、母親も「じゃあよろしくお願いします」と言ってきびすを返し、母親が柚紀とすれ違い際に会釈をして行った。

 柚紀も会釈を返してから、柚紀も保母へ挨拶をする。

「こんにちわー、ご紹介に預かりました田名木柚紀です」

 保母へ軽く頭を下げる柚紀。

「ああどうもこんにちわ」

「今日はよろしくお願いします」

「はい、こちらこそ」

 保母が柚紀の背後へ視線を向け……少し不審な顔をした。

「こっちはアシスタントです、何でも男手が足りないとお聞きしたもので、他にもありましたら別のこともやらせてあげてください」

「え、ええ。その方は……その、お顔が優れないようですが、大丈夫ですか?」

「大丈夫です、汚れきった自分に気づいただけですから」

「はぁ……」

 柚紀がにこやかな顔で振り向くと、背後には、やたらとへこんでいる凉平がいた。

 柚紀は凉平へ、強く区切ったはきはきとした声音で、

「後で、拾った、五百円、を、警察へ、届けに、行、き、ま、す、か?」

 『か?』の部分で小首を傾げつつ、澄み切った晴れやかな笑顔を付け足し、柚紀は曇りに曇りきった表情の凉平に向けて、そう問いかける。

「……そうする」

 重々しくも、何とか答えた凉平。

 そのやり取りで保母は凉平がへこんでいる理由を察し、小さく吹き出した。

「いやー笑われちゃったね!」

 綺麗な笑顔どころか、笑顔でごまかしきれないほどに笑いをこらえる柚紀。

 あたかも観念したかのように、凉平は頭ごと肩を落とした。


 わいぎゃあわいぎゃあきーんと、園児達が一室に集まっている。

 今しがた、目の前を横切った紙飛行機が、視界の端にいた女の子の長い髪に引っかかり、女の子が振り向いた矢先に髪飛行機を追いかけてきた男の子とぶつかりそうになってびっくり。女の子の顔が半泣きになっていく。

 別のところでは窓の近くにもかかわらず、あくまで幼児程度だがボールを投げ合っている集まりが、やわらかいボールをべちんと窓にぶち当たって音が響いた。

「…………」

 凉平は、顔をこわばらせながら室内の入り口に立ちすくんでいた。

 ……なんだか入った瞬間に、鼓膜あたりが貫かれてしまうのでは? という謎の予感が渦巻いている。

 喫茶店の店員をやっていたり、過去現在においてさまざまな場所でさまざまな人間と、少なくとも接し相対してきたと言い切ってもいい。しかし、ここまで特殊な群集の中へ入ることは今までになかったわけで――

 つまりのところ、凉平は「ああ、俺って子供が苦手なのか」という自覚か実感か、あるいは戦慄か……とにかく二の足を踏むしかなかった。

「どうした? 顔が真っ青だぜボーイ」

 凉平の表情とは対照的に、隣にいる柚紀はにやにやと、どこか勝ち誇るような笑みを浮かべていた。

「人生ってやっぱ、適材適所で生きるしかないのだなと悟ったところだ」

「なにをわけのわからないことを……」

 半眼になった柚紀が、園児達のわあわあぎゃあぎゃあが飛び回っている室内へ向き直り。

 こほんと咳払い。

「まーみてろよ、ボーイ」

 軽いステップを踏むような足取りで、室内へ入る柚紀。

 まともな足の踏み場も無い床板を、スリッパを履いた足でひょいひょいと通って行く。

「おっとお」

 柚紀の胸へ飛び込んできた紙飛行機。

 驚きながらもどこかとっぽい調子で、紙飛行機を潰さずに両手に収める。

 だだだだだと走ってきた男の子へ向いて。

「紙ひこーきは空へ向けて飛ばすものですよー」

 男の子の頭の上に紙飛行機を置いて、ひらりと風を残すかのように去っていく柚紀。 

 お次は室内でドッヂボール並にボールを投げ合っている園児集団の中へ――

 柚紀が横から割って入ると、ぽーんと飛んできたやわらかいボールをキャッチ。

「こんなひょろだまじゃあ、おれはたおれないぜ、へっへーん」

 ちっちと人差し指を振って、横取りしたボールを――投げ返さずに、静かに自分の足元へ置く。

 そんな調子で、柚紀が挨拶をしながら一周してきて、また凉平の前へ戻ってきた。すると――

 柚紀が大声を上げた。

「ちゅうもーく!」

 室内がしんと静まり、柚紀の言葉通りに園児達の興味と視線が柚紀に集まっていく。

 柚紀がにんまりとした笑みを浮かべたまま一同を眺め……なぜかマジシャンが手品をするときのBGMを口ずさみ始めた。

 胸の辺りにまで持ち上げた手を、ぱっと開く――柚紀の手のひらの上には造花――赤い花が一輪。

 マジシャンのBGMを口ずさみながら、手を振ったりスナップを聞かせて回したり、時折踊るような仕草もして、ぽいぽいぽんぽんと赤青黄色の造花を手から出しては床に散りばめる。

 ひとしきり柚紀は手品を披露すると、室内の喧騒はとっくに消え失せていた。

「はーい、こんにちわ」

 柚紀の一声に、まばらな園児達の「こんにちわー」声が響き渡る。

「私はお花屋さんをやっている柚紀っていいます。今日はお姉さんと一緒に花壇でお花を植えましょーう」

 ……結果が見えているためか、あくまで苗字である田名木は名乗らない柚紀。

「そっちのひとはだーれー?」

 柚紀と保母さんの足元で集まっている園児の一人が、柚紀のやや後ろに控えていた凉平を指す。

「これはお姉さんの『げぼく』です」

 さらりと答えた柚紀へ、凉平が背後から「おいこら」と半眼になってうめく。

「大人の女性になったら、なるべく使える下僕を一人くらいは持っているものなんですよ」

「わかりましたー」

「納得させるなよ……」

 凉平の言葉は無視されたまま、柚紀が「それでは花壇のほうへ行きましょう」と、保母さんたちへ目配せをして促した。

 ばらばらわあきゃあと、先導する保母さん達に連れられて、室内にいた園児達が室内の玄関口からわらわらと出て行った。

「ほー」

 幼児無法地帯のような状態から、鮮やかに子供達を移動させた一連の事に、凉平は感嘆の声を漏らす。

 室内が、凉平と柚紀だけになって――

 柚紀が突然、がばっとその場にしゃがみこんだ。

「…………」

 その様子に、凉平は感心した直後に半眼になって柚紀を見下ろす。

「ほらはやくひろえよ、しもべ」

「確認するが、お前って新人保母でも下手な手品師でもなくて……たしか花屋なんだよな?」

「うっさいさっさとひろえ、使いまわすんじゃもったいないんじゃ」

「はいはい……」

 喧騒の余韻を耳に残したまま、とりあえず凉平は柚紀の微妙な手品で散らかった造花を拾い集めた。


「あの二人、いつ付き合うんだろうな?」

「凉平さんと柚紀さんの事?」

 ふと呟いた昴に、加奈子が聞き返した。

「ああ……」

 少しだけ首をすくめて、昴。

 含み笑いをしながら加奈子が答えた。

「どちらかっていうと……どっちが告白するんだろうね? ってところが気になるかも」

「あー、確かに気になるなソレ」

 ……それ以前に、お互いに恋愛感情が生じているのか? と言う疑問がよぎりつつ、マスター防人は静かにカウンターの中でコーヒー豆を引いていた。

 耳に入っても聞こえていないと言う風に、ここに居てもただの景色でしかないと言い張る様子で、話し始めた昴と加奈子の話を、こちらも店内のBGMかのように聴き流す――。「でもよ、そのまま五、六年位ずーっとこの調子になってたりとか、してたりしてさ」

「それもありそう」

 昴が調子に乗ってきて、加奈子もクスクスと同意。

「たぬき女も、私もそろそろーって思ったらこんなのしかいなかった……とか言いながらまんざらでもない顔して――」

「うんうん」

「凉平の奴も、しかたねーから~……みたいに愚痴りながらおんなじ顔してたりしてさ」

「ありそうありそう」

 昴の声音と妄想じみた内容が大きくなってきたところで、加奈子がそろそろとばかりに、

「昴ちゃんにも、ありそうだよね」

「――っ!」

 半ば予想できていたことだが……やはりと言ってか、加奈子に不意打ちを受けた昴がギクリと顔をこわばらせる。

 昴の話を聞きつつ、加奈子コッチも視野に入れていた上で同意していたことに、昴はようやく気づいたようだ。

「しかも、昴ちゃんが他人の恋愛に興味を持つようになって、お姉さんうれしいわー」

 腕を組んでうんうんと頷く加奈子の横で、昴が急速に頬を赤らめていく。

 ……そろそろか。と思いつつ、マスターはカウンター内から奥の厨房へ向かって行き、中へ入っていった。

「マスターはどう思います?」

 やはり飛んできたか――加奈子の飛び火のような声が、店内から聞こえてきた。

「あれ? いない、いつのまに」

 ここまでの流れは大方読めていた。だから避難したのだ。

 あくまでただの景色と貫いた以上、

 最後まで逃げるに、越した事は無い――。


「にーちゃんにーちゃん」

「あん?」

 園の花壇の中で、園児達と一緒になって苗を植えている凉平が、スコップを片手に握った男の子に声をかけられた。

 男の子が口元に手を当てて、凉平に近寄ってくると、 

「あのねーちゃん、にーちゃんのコレか?」

「…………」

 スコップを握っている手には小指だけが立っていた。

 凉平はつくづく思う――ああ、やっぱり子供は苦手だ……。

「マセた事言ってんじゃねーよ」

 相手は小さい子供だと言うことを念頭に置き、なるべく強くない口調で――ついでに指先で触れる程度のでこぴんを当てる。

「あやしーぜ~」

 位置の間に増殖したのかと思ってしまいそうに、男の子の周りにはさらに二人の園児が集まっていた。

 言ってきた男の子に、さらにもう一人男の子と女の子。合わせて三人だ。

 ふと、凉平はその園児三人と、ひなた時計のシュウジ、シャオテン、ユーリの三人を思い浮かべた。

 ――あの三人だったら、一発づつゲンコツできるんだがなぁ……。

 彼らも彼らで、凉平にとっては年下――未成年と言う意味では子供だ。だが苦手ではない。タチの悪さでは向こうが上なのだが。

 苦手だと言う理由は、少し考えるだけで分かった。うまい接し方、流し方が分からないのだ――まあ、小さな子供と接するにわざわざ深い悟りか割り切りかが必要というのは……真面目に考えること自体が本末転倒な気がする。

 他者と接するに辺り、その中でいかに相手の言葉を適度に『流して』接するかで、余計な衝突や摩擦を生まないでいられるかが決まる。

 衝突や摩擦がないようにうまく流すなんて上手い言い回しを、誰が考えたのか……。

 さらにこの子供達は、まだそんなモノなど知りもしないわけで――

「……お願いですから髪を引っ張らないで下さい」

 凉平の髪――後頭部でくくったひょろりと長い髪が、先ほどから演じ三人たちの遊び道具になっていた。

 ――俺、本当に何やってんだろ……。

 つまりのところ、いろいろと見失いつつある凉平だった。

 柚紀の方をちらり見る。

 柚紀は――

「…………」

 そんな凉平からやや離れた場所で大勢の子供達に囲まれ、

 花壇の中で軍手で土をいじりながら、植え方を教えながら――優しい姿をしていた。

 温かく微笑み、柔らかな空気の中で、楽しげに。

 そう、幸せそうな姿が……映っていた。

「…………」

 不意に、目線が柚紀から真夏日和の空へ強制移動される。

 九割がた諦めたふうに、凉平。

「だーかーらー髪を引っ張るなー」

 

「お疲れ様でした」

 ひなた時計に戻ってくるなり、カウンターに突っ伏してぐったりする凉平。

「……おう」

 うめき声でしかない返事からして、まるで半日のうちに三日分ほどの生気を吸い取られたような様子。

「あれくらいで情けないわねー」

 ぐったりした凉平の横で、パスタをフォークでからめ取っている柚紀。

 心なしか、どこか充実した後のような気配が見て取れた。

「髪でターザンごっこされた……」

「あ~このパスタのソースおいしー」

「…………」

 凉平の愚痴は、一言たりともどこへも届かなかった。

「午後からは昴が上がる。さっさと仕事にもどれ」

 さらに、マスターからの追い討ち。

「返事はどうした?」

「…………ういっす」


 3:

「田名木さん、このあとは?」

 加奈子が柚紀へ、

「この後は、駅前のショップでバイトよー」

 柚紀は元々、花屋田名木という花屋を一人で切り盛りしていたのだが、三ヶ月ほど前の火事の一件で店と自宅が全焼してしまい、現在は同業者や無くなった両親伝いの人脈とツテなどでフリーな仕事回りだった。

 花教室の講師、駅前のフラワーショップでのアルバイト等々、さらには今回のようなピンチヒッターも請け負っている。

 柚紀の目標……もう一度自分の店を手に入れることだ。

「どこかへ就いたりとかはしないのか?」

 これは昴。

「親戚が一人……親戚のおばさんが式場の仕事とかやってみたら華やかだと思うわよって、『お見合い写真』を用意してそんなお誘いを、この前断ったかなー」

「……なるほど」

 それでは目標を達成させる以前に、別の方向へ進んでしまう気配だった。

「落ち込んでるときに慰められたり、同情して、あわよくば付き合って~とか、これを機に身を固めたらーって、なんだか癪に障るのよね」

「それなんか分かるかも」

 昴が同意。

「そーかな?」

 加奈子が疑問符を浮かべ気味に、

「私は辛いときに励まされたり……慰めてもらうとやっぱりうれしいかなぁ?」

「だってさー、そういうときだけ優しくしてきたりって、落ち着いた後で考えると、なんだかね~って」

 柚紀が何気に凉平をちらり見ると、聞こえていたのか微妙に顔がこわばったような面持ちで通り過ぎていった。

 と――

「そういう台詞は、婚期を逃すわよ」

 柚紀、昴、加奈子の輪の中に、ひょいっと村雲鈴音が入ってきた。

「結婚なんて、まだまだ先の話ですから」

「それも以下同文ね」

 灯夜という、一児の母である鈴音がくすりと笑みをこぼしつつ、

「通りかかったから来て見たの。タヌキちゃん確か今日は駅前でしょ? そろそろいいの?」

「あ、はい……もうこんな時間」

「だろうと思ったわ。私も駅まで用事があるから、一緒に行きましょう」

「はい」

 昴と加奈子との話もそこそこに、柚紀は鈴音と共にひなた時計を後にした。


 そんな形で、今日も田名木柚紀の一日が終わる。

 駅前でショップのアルバイトをこなした後、またひなた時計で皆と夕食を共にして、いつもどおりの他愛も無い調子で過ごし、帰宅するところだった。

 三ヶ月も経った新しい住処のアパートへも、だいぶ道のりに慣れてきた。

 自分の店があった場所は目の前が車道だったため車の通りが多いところだった。だからといってかこの静けさに、始めは違和感があった。だがそれも時間の助けによって、静かなものだと楽観できるくらいにはなった。

 ただ、夜になるとあっという間に人気が無くなるのが……少しばかり心もとない。

 たとえば、歩いているすぐ先でアイドリングしながら停車している乗用車など、なんでもない場所に止めているだけなのだが……静けさと街路灯の少なさから、不気味に感じられる――少しだけ、距離を置いてなるべく何食わぬ顔をして通り過ぎた。

 まぁ、元々車の通りが少ない方なだけに、こういった行儀の悪さもあるのだろう。

 この人の少ない帰り道は、よく大騒ぎした後のような感覚にとらわれることが多かった。

 たぶん、今の日常が不本意にも充実していて、それが今日も終わったのだという気持ちからだろうか。

 本当に、皮肉な状態なのかもしれない。

 両親との死別で高校を中退した後で、その両親から引き継いだ、あの店があった頃はまったく友人がいなくなっていた。

 当然、店の外で遊ぶ事も、『店』から外へ出ることも、まったく無かった。

 友達だった皆が高校で生活を送っている頃は、両親との突然の死別の事、自分の事、店の事……ただの親の仕事の手伝いから、たった一人でそのライフラインをつなげてつなげて保って、右も左も分からないほどではなかったものの、たった一人で花屋を立ち上げなければならなかった。

 自分の将来……先の事も考えて、独学で資格を取る勉強もした。なにを取るかなどを考えたら、結局『花』に関する内容しかなかったのだが……。

 それらを一通り落ち着かせた頃には、もう高校の友人達は大学の入学試験やら、就職などに脚を急がせていた。

 数回ほど、外の世界で会った事がある。しかし、時間が経ちすぎていたためかもう友人と呼べるほどのとっつきやすさも無く、むしろよそよそしい態度をされ、それ以降は町ですれ違っても、顔を合わせなくなった。

 両親を失ってから、自分一人で立ち上がって、一人でやっていこうと頑張り、一人で頑張りすぎて……本当に一人になってしまっていた。

 そして、三ヶ月前に、唯一の居場所であった店が無くなった。

 無くなってしまってから……また失ってから――また友人が、たくさんできた。

 学校にいた頃には考えられない人達。

 厳つい面持ちで迫力感があるが、どこか安心感を感じさせる喫茶店のマスター。

 喫茶店のアルバイト店員で、さらには年下の友人達。年の離れた友人。

 物静かだが、どこかよく分からないながらも気軽に話をする、常連同士の友人。

 そして、ものすごくアホな奴。

 失って、取り戻して、また失って、また取り戻して――

 そうして今が……あった。

「たぬきちゃーん」


 呼ばれて、振り返る。

 ――あれ?

 少し前に通り過ぎたはずの乗用車が、まだ近くにあった。

 さほど歩いたわけでも……なかったのだろうか?

 その乗用車停止している乗用車を通り越して、昼間にひなた時計で会った子持ちの友人――鈴音が小走りでやってきた。

「こんばんわー」

「奇遇かしら? こんなところで、帰り?」

「ええ」

「そういえば、たぬきちゃんのお家って知らなかったのよね」

「そうでしたね」

 鈴音が向いていた方向を指して、「こっち?」と尋ねてくるのを肯定すると、偶然にも行く方向が同じだった様子。

「ひょっとして、住んでるところが近かったんですか?」

 そういえば、いつもビジネススーツで現れる黒髪の友人は、灯夜君という子供がいる以外、何も知らなかった。

「ううん、これから知り合いのところに顔を出さなきゃならなくてね。そう急いでないんだけど……そうね、ついでだからたぬきちゃんのお家も知っとこうかな」

「じゃあ近くまで行きましょう、ここら辺暗くて、ちょっと不安だったんですよー」

「オーケイ、女二人で暴漢対策といきましょう。ついでに凉平にも、後でどこらへんか教えといてあげる」

「アレに教える必要はありませんよー」

 いらないいらないとばかりに、顔の前で手を振って、柚紀は鈴音とけらけら笑いながら、また歩き出す。

 

「ふーさっぱりさっぱり」

 Tシャツにハーフパンツという部屋着で、髪の水分をバスタオルで取りながら柚紀柚紀が風呂から上がってきた。

「あ、忘れてた」

 はたと気づいて、バッグの中から財布を取り出す。

 一日の終わりに必ずする事。

 財布を開けながら、小さな本棚の上に乗っている『百万円たまる貯金箱』へ向かう柚紀。

「今日はーっと」

 特に小銭の種類を限定して入れているわけではないが、一日の終わりに余分な小銭をこの貯金箱の中へ入れるのが柚紀にとっての一日の締めだった。

 通帳には、少しづつだが花屋を再開する資金が溜まっているものの、

 ――ダイエットも貯金も、小さなことからこつこつと!

 先ほど、また少し増えていた。

 財布の中から、大小の小銭をぽつぽつと入れていく柚紀。

 そういえばと、今日の昼間にあのアホが五百円玉を拾って喜んでいた事を思い出す。

「む……」

 今さらながら、なんだか悔しい気持ちがわいてきた。

 やつのせいで体重も増えてしまって、さらには五百円玉を拾うなんて――

「よおーし、今日は奮発じゃ」

 ごそごそと、財布の中に入っていた千円札を、四つ折にして『百万円たまる貯金箱』へねじ込んだ。

「これでよし」

 こうする事で、何も凉平にかったわけでも一泡吹かせる事ができたわけでもなかったが、とりあえず柚紀は満足した。

 これで、田名木柚紀の平穏な一日が、今日も終わった。

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