MIGRANT (中編)

 4:

 生物兵器会社ラストクロス。主に非合法非人道的な生物開発、研究を行っている。そしてその研究により開発された特殊クローン技術、生物改造技術。そして他生物合成技術……それらによって、ラストクロスは裏社会でバイオテクノロジー系の頂点に立った組織。


 武器兵器会社大崑崙。シュウジの母によって組織された兵器開発組織。歴史は浅いものの、銃器を問わず接近武器、特殊武器から暗殺用暗器、独特の戦闘機と幅広く、それ以外にも、大崑崙が開発した武器銃器……果ては過去の歴史に消え去った武器兵器の再現復活なども行っている。

 組織の構成員もまた、それに連なった武術格闘技術、戦闘集団で構成されている。組織の戦力、武力共に、他と一線を駕していた。

 そして、現在大崑崙は跡継ぎ問題で、跡取りとして上げられたシュウジ……彼が決闘で勝ち続けて跡取りの座を守るか、彼を倒し屈服させる事ができたら、その者を時期社長にするという、決闘闘技の取り決めにより内部は血気盛んとなっていた。


 そして、ソーサリーメテオについては、そのような裏社会でも異質の存在だった。

 活動目的、全体的にその正体が一切、はっきりとしていない。

 暗殺、破壊活動、ごくまれにテロに見せた活動も行うが……何故そうしているのか、それについてどのような利益を呼び込んでいるのかすら不明だった。

 ただ、裏社会の実力者達を狩りまわっている、という事だけが分かっていて、当然、構成員もそのほとんどが目的を知らされていない。また、目的があったとて、外部に広がる事もなかった。

 まるで、裏社会のこれ以上の規模拡大を防いでいるかのようでもある。


 ソーサリーメテオにも、構成員には特殊な力が与えられていた。

 これもまた異質で、実行構成員にはさまざまな物質、エネルギーを支配し、操り、また作り出す力が備わっていた。

 超能力、とも取られがちで実際はその気配もあるようだが、その扱い方にはある種、魔法や魔術のような、そういったオカルト不可思議な色のほうが強かった。


 5:

 凉平の相棒だったセイバー1……洸真麻人については、シュウジもあまり知ったほどの中ではなかった。

「凉平! テメェ俺のシャンプー使ってんじゃねぇ!」

「少し借りただけだろうが! 詰め替えパック買い忘れたんだよ!」

「いつまで忘れてんだよ! 俺の使ってねぇで、自分のをとっとと買ってこいや!」

 遠距離で両者が怒鳴り散らした後、シュウジは自分の部屋へ戻った。

 ふん、と鼻を鳴らして、くしゃくしゃの金髪頭をバスタオルでがしがしと引っ掻き回す。

 フレイム=A=ブレイクと凉平のいる〈セイバー〉部隊との付き合いは、まさに麻人が脱退するその事件の真っ只中が始まりだった。

 ブレイクの方は、エア=M=ダークサイズ……鈴音と昔からある程度の関係があったようだが、鈴音率いるアックス部隊のシュウジと誠一郎は、セイバー部隊と面識が完璧に無かった。

 麻人と言う男が、ソーサリーメテオを抜ける事件となった舞台は、葉桐企業の若社長、葉桐啓介主催の社交パーティーだった。

 その社交パーティーとは、実は名ばかりで、裏社会の実力者、有力予備軍との交流と、新しい裏取引をするために開催された社交場……いわゆる裏社会の市場だった。

 そういったイベントがあり、〈アックス〉部隊は〈セイバー〉部隊との合同任務を受けた。

 その時の、彼等セイバー部隊とのミーティングでは――

 目標達の筆頭、葉桐啓介には妹がいて、その妹の香澄美と言う人物が、洸真麻人の死んだと思っていた義理の妹……実咲かもしれない(両者は元々、親同士の再婚で出会ったらしい)ということで、セイバー部隊同士でもめていた。

 そして作戦実行中、その香澄美が本当は実咲であるということが判明する。

 そして葉桐香澄美への暗殺任務を麻人は拒否。ソーサリーメテオへの反抗と見なされ、その直後に、〈セイバー〉部隊のリーダーであるフレイム=A=ブレイクと死闘。

 その末これを破り、脱退と逃亡を実行した。

 おそらく……いや、確実に誠一郎もシュウジと、同じ程度の情報しか知らないだろう。

 ブレイクと凉平が、彼について話していなければ……だ。

 シュウジの中では、やはりその程度の事しか知らなかった。

 かしがしとバスタオルで頭を引っ掻き回す手を止め、バスタオルを頭から首へかけ直す。 

 だがその程度の出来事でも、彼とは少なからず面識があったわけで……。

 シュウジの彼に対する数少ない印象は。

 今のコイツは危ない――だった。

 

 シュウジが押入れへ向かい、引き戸を開く。

「よっと」

 それから二段に分かれた上段から、『ソレ』を引きずり出すと、掴んだまま、またずるずると引きずった。

 表向きは温和。おそらくは、元はそういった人間性……危険な人間ではなく、本当はもっと真人間ですらあったのかもしれない。

 押入れから出した『ソレ』を引きずったまま、カーテンと窓を開けてベランダへ出る。

 当時の彼は、ぎりぎりに引っ張られた糸のような、そんな気配がしていた。

 いつ、ぷつりと切れてしまってもおかしくは無い――もし、張り詰められた糸が切れてしまえば……。

 そういった印象だった。

 真面目さ故の、追い詰められた時の危うい空気。

 それが彼の中に現れていた。

 シュウジはベランダに出た後、押入れから引きずってきた『ソレ』を持ち上げ――

「どっせええええええいいいい!」

 投げ飛ばした。

 投げ飛ばされたソレは、引きずられていた状態で半ば既に目が覚めていたが、頭が完全にはっきりと冷めていれば、多少の抵抗も出来たかもしれない。

「にぎゃああああああああああ――」

 シュウジが投げベランダから飛ばしたソレ――シャオテンは放物線を描き、ゴミ捨て場の中へぼすっと音を立てて不時着。

「ふう、ちゃんと入って良かったぜ……」

 ベランダからシャオテンが投げ飛ばされ、もしゴミ捨て場から外れていたらどうなっていて、シュウジはその時はどうしただろうかと言う疑問を言ってくれる者は、何処にもいなかった。

 とりあえずは、シュウジの目線で見る麻人への印象は、そんなところだった。

 いや、それともう一つ。

 シュウジの目で見ても、彼は凉平と同等に、とてつもなく強い。という確信が、シュウジの中にあった。

「さて、と……」

 シュウジは、今度はちゃんと押入れの中にある布団を取り出そうとする。と――

 カリカリ……カリカリ……カリカリ……

 今しがた閉めたばかりの窓から、そんな小さな硬い音が聞こえてきた。

 無言で、シュウジは窓へ向き直り、カーテンを開く。

 シャオテンがしゃがみながら半べそをかいて窓を引っ掻いていた。

「あけてくださーい……あけてくださーい……暗いよう臭うよう……」

「てめえはとっとと寝床を探せよ!」

 窓越しに、シュウジがシャオテンへ怒鳴りつける。

「何処も貸してくれないんだもん……ほしょうにんって言う人が居ないと貸してくれないんだもん……お金ないもん……雨風がしのげる所に居たいもん」

「こういう時だけ、慣れない丁寧語使うのを忘れるなよ……余計に悲しく見えるだろうに」

 どいついもこいつも……と、頭を抱えたシュウジは、しくしくと泣き出したシャオテンを窓越しに見下ろしながら呟く。

 すらっ

 シュウジの部屋の出入り口、襖が開いた。

「あー、いたいた」

 現れたのは凉平だった。

 窓の外に追い出されたシャオテンを見ながら。

「シャオ、マスターが風呂使えってさ」

「またか……」

 シュウジがうんざりする。

「そんなんだから、こいつが居座るどころか住み着くんだろーに……」

 だが凉平は、いつに無く真面目顔をして返した。

「シャオは俺達のこと知っている。んで、ブレイクと姉御との取り決めで、相互不干渉、他言無用を絶対とする取り決めになったんだろうが」

 シャオテンは、ここに現れるようになった時、大崑崙の使者であるクジンからひなた時計の正体……自分たちがソーサリーメテオの人間である事を知った。

「無関係だが、口約束だけでほったらかすのも、できねーだろうに」

 シャオテンはその事に対して、何の利益も無い。

 シュウジと大崑崙あたりの関係はシュウジ本人の問題で、ソーサリーメテオには一切関係が無く……むしろそのことについての守秘をしていなければ、祖国から離れた異国の地で、孤立状態のシャオテンにとっては、生死を問題にするほどの、敵を増やす事でもあった。

 そして、ブレイクと鈴音も、誠一郎も凉平も、シャオテンへ危害を加える気は微塵も無かった。

 ――さらには、国の違うシャオテンにとっては、他国での自分とは関係の無い、他国の部分的な『いさかい』という見方もある。

 利害の一致どころか無益この上ない。

 それ故、それらの守秘と相互不干渉の取り決めの後で、目的であるシュウジの監視(観察)も含め、ここでの寝泊りが許されていた。

 シャオテンの立場上、シュウジへの身の心配もあって、それについても多少もめたが、それについても今は静まっている。

「それと、なんだか、お前の国の虎柱様と連絡がついて、夏休み明けからちび助と同じ学校に行けるってさ」

「本当でございますか!」

 シャオテンが嬉々して声を上げた。

 シュウジは、最悪といわんばかりに疲れきった顔をするが、調子乗りに拍車がかかっている凉平はそれを無視し、続ける。

「シンファちゃーんの観察するには、学校生活も見ておくのがいいだろう、ってブレイク……マスターが言ったら、虎柱のおねえちゃ~んが了承してくれたんだと……俺の使い古しのデジカメでよかったらくれてやるぜ」

「ありがとうございますー」

 シャオテンの喜ぶ顔を見た後で、凉平がうんざりとした顔のシュウジをにやりと見る。

 シャオテンが、シュウジのここでの様子を、祖国の虎柱へ日記をつけて伝えなければならない――と言う事情を、凉平は楽しんでいた。

 よって、こういったイタズラに余念が無い。

「郷に入れば郷に従えってな、ここで暮らす以上一般社会のルールに入っていないとならん。そうだろ? シンファちゃん♪」

 ――そういえば麻人と言う男が、よく凉平にこう言っていたことを思い出した。

「……おまえ、冗談がしつこいんだよ。だからこの前もタヌキに怒られたんだろうが」

 凉平は冗談がしつこい。

 それで麻人にも凉平は怒られていた。それを思い出して言ってみる。

 半泣き状態の柚紀に、模造刀で殴られた時を思い出したのか。ぎくり、と凉平の表情が硬直。

 それを見て、シュウジは多少やり返せたと、鼻を鳴らして満足した。


 5:

 夕方。

 今日は公民館道場での練習は無かった。

 片側が庭に面している母屋の廊下を、麻人が歩いていると、目の前で鬼怒川隆士老が、縁側に座ってお茶を飲んでいた。

 隆士老も麻人に気付き、少しだけ腰を浮かせて横にずれた。麻人に席を渡すかのように。

 それに習って、麻人は隆士老の隣へ座る。

 二人は赤い空を見ながら、夕焼けの気配に耳を澄ます。

 林の壁のような防風林の中にある庭は、ただ見渡すように広かった。

 元々、芝生でも植えてあったのだろう……庭の真ん中だけ草がごっそりなくなっていた。 

 庭中を歩いて分かった事だが、点々とまばらに石畳があって、それは庭の砂の中に埋もれていた。 

 年季の入った殺風景さ――目では見えないたくさんのものがそこらじゅうにあふれている。

「この間の買い物ですれ違った二人は、知り合いかい?」

 隆士老の隣で、この庭にはどんな思い出が会ったのだろうか? と考えていた麻人へ、隆士老の唐突な言葉が入ってきた。

 聞き返す必要は無い。

 とぼける必要も無い。

「かもしれません」

 先日の大型ショッピングプラザでの出来事。

 目つきの悪い男と、口紅をした男の奇妙な二人組み。

 一瞬だけ麻人とその二人組みが睨み合っていたのを、隆士老は気付いていたのだ。

「そうか……」

 麻人の偽りを述べない返事に、隆士はどこか落ち着き払った、ため息のような相槌を打つ。

 そして、隆士老が続ける。

「正直、君達二人が何者なのかは、さして興味は無いのだよ」

 隆士老は、とくに麻人へ顔を向けていなかった。

 ただ、晩年を過ごす老年男性は夕焼けを浴びて、多くのものが詰まっている、殺風景な庭を眺めていた。

「がっかりしたかい?」

 隆士老が一瞬だけ、麻人を横目に見る。

「いえ」

 麻人は短く返した……心の中で、ここまで失礼なほどに反射的な言葉しか返せない自分を恥じる。

 隆士老は、一言「ふむ……」と年配特有にも取れる呟きをもらし、

「君達が何者で、何処から来て、何が目的で、何処へ行くのかは、こう言ってもなんだが……どうだろうとかまわないんだ。本当に」

「…………」

 返事をしない麻人の様子を見計らって、隆士老はさらに続ける。

「この村でうろうろとしている君達を見つけ、呼び止めてここへ住まわせたのも、本当に気まぐれだったんだよ」

「いいえ、雨風がしのげるどころか、ここまでお世話をしていただいて、感謝しています」

 夕日がゆっくりと沈む中で、少しばかり冷えた湿り風が吹いてきた。

「……そうか、それは良かった」

 隆士老は一度ゆっくり目を瞑り、大きく頷く。もう一度、目を開け

 ゆっくりと時間をかけて、再度隆士老が口を開いた。

「晩年を過ごすとは、こういうことかもしれないね……まだ私にも、よく分からないのだよ。晩年の過ごし方と言うものが」

 麻人は、唐突に切り替わった話でも、ただ静かに聞き入った。

「毎日を過ごす中で、のんびり暮らしていても、いたるところに思い出がある……それを思い返す毎日……しかしね、それらが全て、とても良かった事とも、あえて言えば、不幸だったとも思わない」

 廊下の奥から、鍋で煮物を作る匂いが漂ってきた。

「だけれども、いつも同じ疑問がわく」

 どんな疑問なのだろうか? そう麻人は聞き返そうになるも、次の言葉を待った。

「私は、この村で生まれて、他に移り住むわけでもなく、ここで今までを過ごしてきた……裕福な生まれでもなければ、育ちが良かったわけでもない……だからいつも、良い男であったのか、良い夫であったか、良い親であったか……そういった疑問が、ね」

 隆士老は、疲れとも安堵とも取れない、大きなため息を一つついて、さらに続ける。

「やはり分からないな。こんな年になっても、思い浮かばない」

 隆士老の小さい苦笑。

 だが麻人は、それにつられる事なく、隆士老と共に夕日を一心に浴びた。

「……ただね。年甲斐もないことを言ってしまうと……少しばかり寂しくなっていたんだ」

 また苦笑混じるかと思えば、麻人の見た隆士老の顔は、遠くを見る顔をしていた。

「私達が天寿を全うしたら、もうここもなくなってしまう。そう思ったら、なんだか物悲しくなってしまってね……」

 麻人では知る事もない、見えない何かがたくさん詰まっている……寂れた庭。

 隆士老の目には何が映っているのだろうか……。

「息子も娘も、もう別の場所で暮らしていて、私達が死んだら、きっとここは、ただの『遺産』となってしまう。そんなことを考えていた時に、君達を見つけたんだよ」

 夕日が、防風林の奥では地平線に沈んでいる頃だろう。赤かった茜空が、濃い紫へと変わってきていた。

「少しばかり、欲張ってしまったのかもしれない……多くの事があって、愛美がここまで連れ添ってくれて……孫も出来たのに、まだ何かを残したい……誰かにこの場所を……私達を知っていて欲しいと、欲を持ってしまったのは、傲慢というものかもしれないね」

 座ったままで、隆士老が背中を反り、軽く猫背になっていた背筋を伸ばした。

「長い話をしてしまったね……退屈だったろう?」

 隆士老の顔を見た麻人は、正座に座り直し、無言で静かに、ゆっくりと平伏した。


「あの人はね、あれでも若い頃は、とんでもない悪い人だったのよ」

 夕飯の支度をしていた愛美が、手伝いをしていた実咲へ、唐突に口を開いた。

「そうなのですか?」

 話しながらでも、愛美の手つきはいつもと同じ、老いを感じるようでいて、てきぱきとした包丁捌きだった。

「そう、すっごく悪かったの……ここ周辺では札付きの悪党で、喧嘩なんて毎日どころか、一日五回以上なんて、頻繁にあったわ」

「想像できないですね、あんなに優しそうなのに」

「あれでも未だに、ときどき物騒な事を言うんだけれども、もうとっくに慣れてしまったわ……小さい頃に買ってもらった帽子を、会うたびに投げられたことは、忘れられないわね」

 そう言いながらも、ふふ……と笑う愛美の顔を見て、実咲はつられて温かい笑みをこぼす。

「ここではね……他所様の場所の事は分からないんだけれども、見合いの話が出たら、ほとんど結婚は決まったものなのよ……相手になる人が断らなければ……当時の私達女性には、拒否権なんてなかったわ」

 実咲は聞きながら、鍋のふたを開けて中の具合を確かめる。

 耳はあくまでも、愛美の話からは離さずに。

「でもね、見合いが終わった後で、あの人が大きな喧嘩をするって聞いてね……なんていうのかしら、この土地を離れるからかしら……あの人の事が急に、余計にほっとけなくなってね……止めに入ったの。大喧嘩している真っ最中によ」

 愛美が「本当に、何であんな大それたことができたのかしら……」と小さく呟いた。

 実咲は、菜ばしで煮崩れない程度に鍋の中を回しながら聞き入る。

「そのときにね、私右肩に大きな傷が出来ちゃって……たくさん血が出て、それで喧嘩していた男達が大騒ぎしちゃって、大喧嘩が納まっちゃったの」

 そのときの事を思い出したのか、愛美は右の二の腕を揉むようにさする。

「私のお父さんがね、それでカンカンになって、あの人を殴り飛ばしたらしいの……私は気絶して病院へ運ばれていた間のことだから、詳しくは知らないわ」

 愛美が一度、大きくため息をつく。

 リフォームをして年月がたっていない、まだ真新しい洋風のキッチンでは、コトコトと鍋がつつましく音を立てていた。

「それでね、その後で、あの人が真夜中にやってきたのよ。私の家の前で、外はざあざあの、台風みたいな大雨の中で傘も差さずに」

 愛美が、キッチンコンロを開けると、焼き魚が音を立てて出てくる。その姿は、少しばかり手馴れていない様子。

「あの人、その大雨の中で、何をしに来たかと思えば、私に告白してきたの……大声で、ざあざあ雨の中で、それに負けないくらいに、喉がおかしくなっちゃうんじゃないかってぐらいに、好きだの、愛しているだの、行かないで欲しいだのって……」

 そんな当時の大変な事件を思い返しても、愛美の表情はどこか、気恥ずかしい顔をしながらも、嬉しそうだった。

「私は呆れちゃったわ……だってそうでしょ? あの人、家の手伝いどころか、悪い事しかしてこなくって、いつもいつもわたしを振り回して心配させて、嫁入り前の私に大怪我までさせて……そんなことを言うのよ。身勝手もここまで来ると……今でも呆れちゃうわ」

 そんな話をしていても、手つきだけは変わらずに、夕食が出来上がっていた。

 毎日の変わらない姿で、いつもと違う思い出話の中で。

「この怪我が原因でね、縁談もなくなっちゃって……でも、あの人がその日から真面目になっちゃったものだから……また荒くれ者に戻ってしまうのも心配で、それからあの人と一緒になることにしたの」

 推測するに、その当時はもっと、その後で愛美の父親と隆士老との間で色々とあったかも知れない。、だが実咲は、それを聞くのは無粋だと思い、火を消した鍋の中から、お玉で煮物をすくって、陶器の器へ盛りつけた。

「ここまでこれたなんて、本当に……」

 本当に、何なのだろうか。

 その答えは聞けずに、夕食が出来上がった。

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