MIGRANT (前編)

 1:

「あら? たぬき様」

「たぬきじゃないいいいいいいいい!」

 土曜日のひなた時計の昼に、珍しく田名木柚紀がやってきた。

 真っ白いレースの入ったワイシャツに、黒いタイトスカートのシャオテン。はっとして口を押さえ。

「申し訳ございません、噛みました」

「すっごくさらっと言ったよね! 噛んだ気配すらなかったよね!」

 シャオテンは反省した表情をしながらも、正面にいる柚紀からボックス席の方向へ視線を移動させ。

「ですが、凉平様が……」

 シャオテンが横目で見た視線の先――柚紀とシャオテンの姿に気付いた凉平が、ボックス席の方から寄って来る。

「よぉたぬき、こんな時間に珍しいな」

「お前のせいかあ!」

 いつものへらへら顔でやってきた凉平の脛を、柚紀はブーツで思いっきり蹴飛ばした。


 カランカラン

「ちーっす」

「星川様、こんにちわでございます。誠一郎様もご一緒でございますか」

 やってきた星川昴の後ろで腕を引かれ、無表情ながらもどこか疲れた雰囲気をした誠一郎がいた。

「補習の帰りだ、捕まえたから持ってきた」

「図書館へ行くつもりだったんだが……」

 あっはっはーと機嫌よく笑う昴と、疲れ気味の誠一郎を見て、シャオテンは苦笑するしかなかった。

「カウンター席でよろしいでしょうか?」

「おう」

 昴が即答で答え、さらにもう一言。

「俺は昴でいいぜ、シャオ」

「かしこまりました」

 シャオテンがぺこりと会釈をし、昴と誠一郎が自分達でカウンター席へ向かっていく。

 すれ違いざまに、誠一郎が「まさかあの鞄がブーメランになるとは……」と言う呟きがシャオテンの耳に入った。

 

 いつもカウンターの中にいる大柄のマスターが、昴と誠一郎の前へお絞りと水の入ったコップを置く。

「お、さんきゅ」

 口が悪く、女の子には似つかわしくない口調の昴だが、その屈託の無い人柄のためか、少しも悪い気分が沸いてこない。

 ひなた時計の店主、マスター防人は、誠一郎よりも無口無表情だが、隙も無く、素早い配慮が行き届いていて、そのようなしっかりとした人物でも、昴の口調の悪さを一度も咎めた事は無かった。

 昴は隣に座った誠一郎とは反対方向のスツールへ、母親手作りのレトロな革鞄(鉄板入り)を置いて、ふと気付く。

「たぬき女。こんな時間に珍しいな」

 むすっとした表情の柚紀が、頬杖のバランスを崩す。

 頬杖の姿勢を直して、昴を不機嫌な目でちらりとみると、また頬を膨らませて黙る柚紀。

「どうしたんだ?」

 昴の視界の端っこで、マスターの防人が小さく咳払いをした。それを昴はちらり見て、もう一度黙ったままの柚紀へ視線を戻す。

 声をかけたのに返答しない柚紀。昴はどうしたものかと困っていると、

 柚紀がぽつりと小声で

「たぬきじゃないもん」

「……あ」

 ようやく、昴は不機嫌の理由を悟った。

「んと、でもよ……」

 あの『彼』が言っていた「頬を膨らませた顔がタヌキのマスコットキャラクターみたいだぞ」と言う言葉を、昴はなんとか飲み込み、言葉を選んで言ってみる。

「いつも凉平の奴がさ……」

 それを耳に入れた瞬間、柚紀はがばっとスツールから降りて、早足で凉平の脚を蹴り飛ばしに向かった。


「凉平さん、あんまし陰口はだめですよ~」

 いきなり現れた柚紀に脛(弁慶の泣き所とも言う)を蹴り飛ばされて、うずくまっていいる涼平の隣で加奈子が呟いた。

 ちなみに、柚紀は無言で凉平の足を蹴り飛ばし、そのまま何も言わずに元のカウンター席へ戻って行った。

 加奈子が柚紀の方向へ向くと、不機嫌な顔(頬を膨らませたまま)をした柚紀が横目で凉平を見ていた――一瞬だけこちらと視線が合って、すぐにカウンターへ視線を落とす。

「後で謝っておきましょうね」

 未だうずくまって震えている凉平の背中をぽんぽんと叩き、「おう……」という小さい返事を聞いて、加奈子はその場を離れた。


「別に悪口言ってたわけじゃないからっ」

「ふーん」

「ごめんな、本当にごめん」

「ふーん」

 凉平が柚紀の後ろで手を合わせて謝っている。

 それに対し、柚紀は凉平に向かないまま、背を向けてわざとらしい生返事をしていた。

「何でも好きなもの頼んでいいから、それでもう終わりにしようぜ」

 ぴくり、とそこでようやく柚紀が反応した。凉平は洋菓子を作るのが上手く、頼めば大体のものがおいしく食べられる事を、柚紀を含む全員が知っている事だった。

「じゃあ、それで」

 あくまで、後ろにいる涼平へ向かないまま、柚紀がようやくまともな返事をした。

 それで凉平も、良かったとばかりに安堵の顔をする。

「ああ、何がいい?」

「日本刀」

「俺の命が終わるのか!」

 凉平が驚き叫んだ。

「了解した」

 凉平ではなくマスターが静かに返して、素早く奥へ向かっていく。

 止める暇も無く、奥へ消えて行った主のいないカウンター内。昴と誠一郎が揃って凉平に注目すると、凉平は青ざめていた。


「先輩。どうかなさったのですか?」

「ん?」

 今、カウンター席はとても賑やかだった。

 マスターが本当に持ってきた日本刀(模造刀だが)を柚紀が手に取り、柚紀はめいっぱい頬を膨らませて、尻餅をついて逃げ回っている凉平へじりじりと迫っていた。

 その脇では野次馬となっている昴と誠一郎。昴の方が、「男の言い訳は見苦しいぞー」とけらけら笑っている。

「なんかね、賑やかになったなぁって」

 ここにやってきてまだ日が浅いシャオテン。

 加奈子が賑やかなカウンターから目を離さずにシャオテンへ返す。

 加奈子の――どこか遠くを見ているような目。

「ここでは、いつものことではございませんでしょうか?」

 加奈子はきょとんとした顔のシャオテンをちらり、と見て。

「私が来たばっかりの時はね、もっと静かだったんだよ」

「そうだったのですか」

「うん……」

 シャオテンの目に写る加奈子の表情は、どこか遠い、楽しかった日々を思い出すような、そんな顔だった。

 シャオテンが再びカウンターの方へ目を向けると、模造刀を振り上げた柚紀(あくまで頬を膨らませて怒ったまま、さらに瞳が潤んでいる)が凉平を隅へ追い込んでいた。

「あの人が今もいたら……今のひなた時計の何処にいたのかなって……」

 おそらく、それは加奈子の、自分自身に対する呟きだったのだろう。

 だが、再びシャオテンが加奈子へ視線を戻し、聞き返してみる。

「あの方とは?」

 シャオテンの声に気づき、はっとした加奈子。

 気恥ずかしそうに、もしくはどこか誤魔化すように頬を掻いて――

「ここには、ほんの二ヶ月もたってない前にね、もう一人いたの」

「もう一人? でございますか?」

「うん、ここは最初はね……っていっても私が来たばかりの頃なんだけど、今のマスターは海外を回っていて、本当は凉平さんと、その人が、ここを二人で切り盛りしていたの」

「そうだったのですか」

 その当時の、といっても二ヶ月もたっていない前の事を語る加奈子は、どこか気恥ずかしそうな苦笑をしていた。その頃を思い出しているのだろう。

「今は、その方はどうなさっておられるのですか?」

「んとね、事故で離れ離れになっていた恋人さんが突然見つかって、でも事故のせいで記憶が無くて……私が知らない間に、それが解決したらしくて、その恋人さんと暮らすために辞めちゃったの」

「…………」

 加奈子の中では、たったそれだけではなかったような……シャオテンはそんな気がした。

 おそらく――

「その方は、どのような方だったのでございますか?」

「ん?」

 加奈子は少しばかり視線をさまよわせて思い返し、そして優しく微笑んだ。

「とっても優しい人よ。麻人さんは」

 シャオテンと加奈子の会話をよそに、カウンターの方では柚紀の振り下ろした模造刀を、白羽取りで耐える凉平の姿があった。


 2:

「あら、麻人君、お帰りなさい」

「ただいま戻りました」

 割烹着と三角巾をつけた高齢の女性、鬼怒川愛美が、帰宅した青年、麻人を迎える。

 のどかなお昼前、土の匂いが温かい日差しと共に流れている。

 樹木が防風林のように敷地内を囲んでいても、それが大きな影にならなく、むしろ森林から受ける恩恵を最大に感受できる敷地だった。

 ここは都会とは真逆の、それどころか距離すらも程遠い、田舎の真っ只中。

 何処を見渡しても緑が栄え、はるか遠く、南東の方角にうっすらと見えるのが、一番近い……『都』とは遠く及ばないが、ここら辺ではまともな『町』が、小さく見えていた。

「吉村さんの畑は、どうだったのかしら?」

 やや腰が曲がって入るものの、昔はとても朗らかな美人であったのだろう……温かみのある笑顔をして、目の前で軽く一礼する麻人に、どこか落ち着く声で問いかけた。

「はい、さすがに長くほったらかしてあっただけあって、大きな雑草がそこら中に」

「うんうん」

 麻人のはきはきとした、それでいてどこか柔らかみのある言葉を、しきりに頷きながら眼を細めて聞く愛美。

 ――丁度良い長さの黒髪。平均的な身長と、すらりとしながらもしっかりとした背筋を持った、いかにも好青年らしい姿の麻人。

「あそこをまた畑として使うのは、雑草取りでも骨が折れそうです」

「あれ、まぁ。やっぱりダメだったのかねぇ……」

「ですが、取ってしまえばまた畑に出来ると思うので、しばらくは吉村さんのところへ言って手伝おうと思います」

「それなら、吉村さんも、戻ってきた息子さんも大助かりね」

 少し離れたところに住んでいる吉村老夫婦に、最近孫を連れた息子夫婦が戻ってきたとの事。これからは農家をやって暮らすらしく、長年ほったらかしになっていた土地の様子を、麻人は近所の付き合いで一緒に見て回っていたのだった。 

「ただいま」

 麻人が戻ってきた方向から、鬼怒川隆士、愛美の長年連れ添った夫が戻ってきた。

 片手には、年季が入りすぎた古い鎌、もう片方の手にはタオルを持って、首にまとわり付いた汗を拭っている。

「あなた、お帰りなさい」

「ほったらかしてただけあって、雑草がすごかった。こりゃあしばらく雑草取りの手伝いだな」

「はいはい」

 麻人から聞いたばかりの話も、愛美は初めて聞いたかのように、麻人と話したと同じ様子で聞いている。

「麻人」

 母屋から出てきた女性が、洗濯籠を持ったまま、こちらに気付いてやって来た。

 ふんわりとしたショートカットの髪型、麻人よりもやや年下に見えるが、温かみがあるようで、どこかしっかりした雰囲気を持った女性。

「おかえりなさい」

 洗濯籠を両手で持ったままだが、それでも足はまったくよろめく事も無く、サンダルを履いた脚が向かってくる。

「実咲、ただいま」

「吉村さんの所は、どうだったの?」

「しばらく通って、雑草取りするよ」

「それなら、私も手伝いに行かないと」

「いや、大丈夫だ。俺たちで何とかなるよ」

 と、愛美が静かながらも、やはり温かい声音で、

「じゃあ私達は明日、お昼ご飯用意して行きましょうかね」

「ああ、それがいいな」

 隆士老人が、それは良い考えだと言わんばかりに大きく頷いて賛成する。

「あ」

 実咲が麻人の額を見て声を漏らした。

 麻人の額、前髪で見えなくなってしまっている額へ、顔を近づけて指先を伸ばすと、ぱらぱらと土が落ちてきた。とっさに麻人は方目を瞑る。

「土の付いた軍手で汗を拭いたんでしょ」

「ありがとう」

「これでよし、っと」

 不意に、額に伸ばしていた実咲の手を、麻人が優しく掴む。

「あらあら」

 ほんの数秒、麻人と実咲が見つめ合っていた。愛美の声で二人がはっとなって気付く。

「お邪魔だった見たいですね」

「そうじゃったのう」

 鬼怒川老夫婦の微笑ましい笑顔と対比するかのように、麻人と実咲の顔が紅潮していった。


 村民役場の隣には、大き目の道場があった。

 半面には柔道陽の畳が敷かれ、また半面では剣道用の床板が広がっている。

 道着と袴を着た子供から年配までの村民が集まっては、週に三回、会費を募って自主参加で集まっているのだ。

 特に分け隔ても、規律があるわけでもなく、集まった村民達が思い思いに柔道合気道剣道空手と、雑談を交しながら鍛えている。一種の、夕方の社交場となっていた。

「洸真先生……」

 肩を伸ばして柔軟体操をしていた麻人が、寄ってきた小学低学年の男の子に気付く。

 その男の子は、半べそをかいて麻人の袴を掴んだ。

「駿男くん、どうしたの?」

 麻人がその場に屈み、駿男少年の視線の高さまで目線を合わせる。

 駿男少年の背後に、数人の竹刀を持った同級生達が居た。

「竹刀で叩いでぇ、叩かれたぁ……」

 ぐすぐすと鼻をすすりながら、涙声で麻人に助けを求める。

麻人は一旦、駿男少年から視線を移し、背後に居る駿男少年の同級生たちを見る。同級生達の、真ん中にいた一番大柄な少年が、不満そうな顔で言ってきた。

「だって、駿男のやつ、最近生意気なんだよ。俺よりも一つ上の級が取れたからって、何回も自慢してくるんだぜ、言い返したらすぐ先生の所へ行くくせに」

「そうなの?」

 もう一度、駿男少年へ視線を戻し、麻人は優しく問いかける。だが、駿男少年は何も答えず、俯いて黙ったままだった。

 少しばかり待ってみても、唇を強く結んで黙っている。

「駿男また黙ったままかよー」

 大柄な少年の取り巻きが、野次を飛ばしてきた。

「都合が悪くなったら何も言わなくなるんだよなー」

 大柄な少年も、野次に乗って「お前がしつこく自慢してくるから悪いんだぞ! 俺達が悪いなら何か言ってみろよ!」と、大声で怒鳴ってきた辺りで、駿男少年が唇と噛み始め、肩が震えだした。

 麻人がそれを見て、口を開く。

「駿男君、昇級試験の練習頑張っていたからね、毎日夜遅くまで。だから嬉しかったんじゃないかな?」

「だからって、コイツ自慢しすぎなんだよ!」

 反論が、大柄な少年から返ってきた。

「うん、たしかに。武道に慢心……気が大きくなってしまう事は大敵だね」

「ほれみろー」

 大柄な少年が、さらに大声で駿男少年へ野次を飛ばす。

「でもね」

 麻人がそれを切り返すように、ほんのわずかに口調を強めた。

「たくさん頑張ったんだから、少しくらいは喜んでもいいと思うよ。たくさん頑張って良い結果が出たのなら、それをたくさん喜んでもいいと思うし。みんなだって、頑張った事で結果が良かったら、嬉しいだろう?」

「う……」

 大柄な少年も、その取り巻きたちも、反論できずにばつの悪そうな顔をする。

「それに、さっきから気になっていたけど、竹刀で駿男君を突っついたり、防具をつけていないのに目の前で竹刀を振って見せたりとか、それはやりすぎだと思う」

 実は麻人は、少し離れた所での少年達のそのやり取りを横目で見ていた。すぐに止めに入らなかったのは、大人である自分が過保護に止めに入るのではなく、彼等達で自己解決出来るのなら、それを見守る事も必要だと麻人を含む周囲の大人達は、それを暗黙の了解としていたからだった。

「相手が嫌な顔をするくらいに自慢して回るのはダメ。良い結果が出た事が、台無しになってしまうよ……それと、それを逆手にいじめまわすのもダメだ。そういうことは卑怯だし、自分たちが悪く見えてしまう。竹刀だって、そもそもそう使うものじゃないよ」

 駿男少年と大柄な少年、交互に目を合わせるように諭すと、両者は不承不承ながらも一応は反省の色を見せ、はい、と一言返ってきた。

 麻人もそれを見て、これでお説教は終わりとばかりに大きく頷いた。

 大柄な少年が、駿男少年の元へ寄ると、「もう自慢してくるなよ」と小声でささやくが、麻人はあえて黙認し、立ち上がる。

 流石に、たったこれだけでは溝が完全に埋められるわけでもなく。埋まるのならば、それらについてはまだまだ、彼等のこれからだろう……

 と、先ほどから畳側では、ばったんばったんと威勢の良い音が絶え間なく続いていた。

 見れば

「いい、女性の私でも! ちゃんと練習していれば、いかに相手が男だろうと倒せるのよ!」

 乱取りあたりをしていたのだろう、白い道着と袴を着た実咲の周囲では、くたびれた柔道着を着た村民の方々が、四人ほど張り倒されて転がっていた。

 実咲の喝の入った言葉に、まっさらな柔道着を着込んだ小学から中学辺りまでの女の子達が(一列に並んでいる)「はいっ!」と気合の入った返事をする。

「男なんかに負けたくなかったら、しっかり練習を積み重ねなさい! 基礎固めは重要だからね!」

 女の子集団が、もういちど、一糸乱れぬ気合の入った短い返事をする。まるで軍人予備軍にでも錯覚してしまいそうな光景だった。

 それを見ていた麻人&剣道少年ズ

「洸真先生、将来ぜったい尻に敷かれるよね?」

「きょーさいかって言うんだよね?」

 大柄な少年と駿男少年の言葉に、麻人はこればっかりは苦笑が堪え切れなかった。


 3:

「誠一郎様、麻人様という方をご存知でございますか?」

「ふむ、彼か……」

 誠一郎は、読んでいた詩集から目を離し、隣に座ったシャオテンへ向く。

「少し前まで、ここで働いていた方らしいですね」

「なぜ凉平に聞かない?」

「あの様子ですし……」

 と、シャオテンは言いつつも、周囲の見える範囲には凉平はいなかった。先ほど、頭に大きなたんこぶをのせて(柚紀に模造刀で殴られた)その後で、奥の厨房で柚紀からのリクエストのフルーツタルトを作っていた。

「ふむ」

 誠一郎が顎に手を当てて考え込む。

 ちなみに誠一郎を挟んでシャオテンの反対側では、昴が補修の勉強疲れか、カウンターに突っ伏して眠っていた。

 時折、寝言で微妙に間違えた数学公式を呟いている。

「彼のことは、実はあまり知らないんだ。ほとんど俺は入れ替わるようなタイミングでここに来るようになっていたからな」

「そうですか……」

 おそらく、その短い間の事を思い返していたのだろう。シャオテンが残念そうに相槌を打つ。

「だが……」

 誠一郎が、思い出したように続けた。

「凉平は彼の事をとても気に入っていたようだ」

「そうなのでございますか?」

「彼が居なくなった後、しばらく元気をなくしていた……そう、田名木さんと会った辺りまで、だな」

 誠一郎とシャオテンが、そろってやや離れたスツールに座る柚紀を見る。彼女は頬を膨らましてはいないものの、未だにぶうたれた表情で頬杖を付いていた。

 ――その横には、まだ模造刀が配備されている。

「おそらく、凉平にとっては、とても良い所で彼女と出会えたのだと思う……元気になって、良かった」

 奥の厨房からかすかに洋菓子の焼ける匂いが漂ってきた……。

「そうだ、彼は特に、コーヒーを淹れるのがとてもうまかった」

 誠一郎から、せっかく麻人についての事を聞き出したのにもかかわらず、シャオテンはうまいコーヒーよりも、出来上がったフルーツタルトのおこぼれがもらえるかどうかに、興味が向いてしまっていた。


「着いたよ」

 鬼怒川隆士の合図で、鬼怒川夫婦と実咲、麻人がファミリーワゴン車から降りる。

 老年夫婦には大きめの車だったが、息子夫婦と孫達がやってきた時に使えるよう、大き目の車を買ったのだという。

 麻人が助手席から降りると、後部に居た実咲が、鬼怒川愛美老婦人の手を引いて降りてきていた。

 ただただ広い駐車場には、満車とは行かないものの、そこかしこに車が止められていた。そして、やや離れたところには、去年建てられた大型ショッピングプラザがそびえている。

 さまざまなジャンルの店舗が、施設内の一画を契約で借りてより集まっって出来た建物。

 初めはこれを建てる事に周辺村民が反対運動をしたこともあったらしいが、いざ完成してみると、若者を中心に人気が集まり、村の活性にも繋がったという。

 さらには、ショッピング関係以外にも、娯楽施設や一時的に子供を預かる施設も設けられているため、なんだかんだがあった後でも、周辺村民の大半がここへ来るようになっていた。

 鬼怒川夫妻の個人的な意見では、広すぎて迷ってしまいそうだ。との事。

 たしかに中もそうだろうが、だだっ広い平面駐車場ですら、車を止めた位置を覚えておかないと帰る時に自分の車を探し回る羽目になりそうだった。

「行こうかね」

「はい」

 隆士の出発合図に、麻人が答え。実咲の隣に居た愛美が「迷ってしまいそうでいつも心配になります」と呟いた。

 駐車場内の歩行者用の通路を歩きながら、一番近くにある建物の入り口を一列になって目指す。

 と――

 麻人のすぐ横、車の隙間から、まだ歩き初めて間もないような、小さな男の子がひょっこりと現れた。歩くたびにぶうぶうと鳴るおもちゃ靴を履いている。

 幼児は、立ち止まった麻人に気付かずそのままおもちゃ靴を鳴らして車道の方へ――

「!」

 それに気付いた麻人が、とっさに飛び出し、幼児を抱き上げて真横へ跳ねるように飛ぶ。

 その一瞬後に、走ってきた車が急ブレーキをかけて止まった。

 一瞬麻人が遅ければ、走っていた車のバンパーで、幼児の頭が跳ね飛ばされていただろう。

「麻人!」

 実咲が声を上げる。

 鬼怒川夫妻も、とっさの出来事に目を丸くしてしまうほどだった。

 真横に飛んだ麻人は、転がる事も無く着地し、抱き上げた幼児の様子を腕の中で確かめる。

 麻人の腕の中に居る幼児は――何が起こったのかわからずにきょとんとしていた。

 それを見た麻人も、ほっと息をつく。

 急ブレーキのタイヤ音を聞きつけてやってきたのか、幼児の両親がやってきて、その後はしきりに麻人へ、何度も頭を下げ感謝をする。

 何が起こったのか、まったくわかっていないだろう当人の幼児は、麻人を指差しながらつたない声で「じぃじと同じ臭い」と突然言い放ち、その場の全員から苦笑や微笑みを呼んだ。


 環境が変われば接する人間も変わり、またその逆もあり……麻人は特に、ここでは子供や年配の人たちと接する割合が特に多かった。

 ショッピングプラザの中ではそのことが特に現れていた。

 麻人実咲と同年代の若者は、各店舗の店員をやっていたり、数人グループで固まって中を回っている者ばかりで、老夫婦と並んで歩く二人は、一見は何ともないものの、よく見ると違和感が見える組み合わせでもあった。

 この組み合わせに、先ほどのような小さな子供が居れば、きっと一家にでも見えたかもしれないだろうが――

「ええと、どこだったかな?」

「ガーデニングは、ここから少し歩いたところですね……この辺りです」

 入り口を通る時に拝借した無料パンフレットを広げ、施設内の地図を広げて麻人と駿男が回る道順を決めていく。

 どうやら、自分たちが入った所は東側だったらしく、鎌やスコップなどの、ガーデニング用品が売られているのは南側の出入り口だったらしい。

 いくつかの店舗を通って斜めに移動しても良かったが、大通りを通って一度中央を目指す……L字に進んだほうが、迷わずに済みそうと言うことで、このまま真っ直ぐに進んでいく。

 進んでいくと、特に目に留まるのは子供を連れた家族と、やはり男女混合も含めた若者グループが目立っていた。

 ――その中で、正面から妙な二人組みの男がこちらに向かって歩いてくる。

 背の高さに差のある二人組み。

 背が若干低い片方は、髪を逆立てて、ラフな格好をした若者だったが、目つきがやたらときつい。

 ぎらぎらとした……平たく言えば何かに飢えている。そんな目つき。

 もう片方は長身で引き締まった張りのある体格に、かなり浮いた格好をしていた。

 ボリュームのあるクセ毛長髪に、パンク系のTシャツ、革製品にこだわりがあるのか、カウボーイのような年季の入った皮パンツ。そしてなぜか、艶のある紅唇をしていた。

 麻人がそれに気付いたのは特出した格好からではなく、その二人組みがこちらを見ながら向かってきたことだった。

 麻人はあえて目をそらすが、その二人組みの視線は麻人を捉えていた。

 そのまますれ違う。

 すれ違いざまに、パンクファッションの筋肉男が、麻人へ一瞬だけ顔を向け、赤い唇を動かして投げキッスを鳴らした。

 そのまま背を向け合って、お互いが遠ざかっていく――

 中央の広場へ到着すると、一度地図で確認をしてから、ガーデニング用品が売られている南側へ進み、到着。

「すいません。少し、行ってきます」

 麻人は近くにあった化粧室を指で指して、鬼怒川夫婦と実咲から離れていった。


 防音の重たいドアに手をかけて、男性用化粧室へ入る。

「…………」

 用を足すフリだけをするつもりだったが、その必要は無かった。蛇口から出る水で手を洗う。

 部外者――一般人は誰も居ない。

 静まった室内だが、外ではかすかに人の声や店内の音楽が聞こえてきていた。

「…………」

 突然に、蛇口から流れ出る水が、ぐにゃりと動いた。

 まるで意思を持ったかのよう。ひとりでに動く水を冷静に眺める麻人。

 ばしゃばしゃと音を立てて、水が蛇とも蚯蚓とも取れる――長細い水塊が鎌首をもたげて、こちらと向かい合った。

 長く形作った水塊には、特に目があるわけではなかったが、頭部らしきものをじっと睨む。

 と、水塊は一度緩慢に動いた後で、蛇のような動作で麻人の首に巻きつき始めた。

 それでも、麻人は微動だにせず、なすがままにさせる。

 ――どうやら水を形作って、蛇に見せたのだろう。

 首に巻きついても、その水蛇は首を締め上げることは無かった。首に巻きついて自分に乗っかってくる。

 こういう時、麻人はフレイム=A=ブレイクの部下だった事を、素直に良かったと思う。

 (ブレイクに教わった俺だったら、こんな遊びじみた余裕は見せない)

  だがそれは、自分にとっても好機だった。この水を操っている相手は、まだ自分に明確な殺意を向けていない……まだ遊ばれている。

 水蛇が、首に巻き付いてきた後で、麻人の頭の上、また鎌首をもたげて見下ろしてきた。まるで値踏みでもするかのように。

 愛嬌を見せたいのか、落ち着きの無い動物のように頭を動かす水蛇。

(これは、第二呪文(セカンドスペル)のアザーセルフではない)

 第二呪文アザーセルフ。自分に宿っている属性を基に、擬似的な生物を作り出す能力。

 だが、この水蛇はそれとは違ったものだ。

 器用な動きを見せているが、ブレイクの火炎龍のような――擬似でありながらも生きている事を思わせるような気配が見えない。

 水を支配して、あたかも生き物かのように形作り、動かしているという――ただそれだけのようだ。

(瞬時に水を支配して、繊細に動かし、生きている蛇のような滑らかな動きをさせて余裕を楽しんでいる……遊び上手。なかなかの腕、か)

 第二呪文アザーセルフではないものの、その水蛇のわずかな動作で操っている相手のの実力を探り、頭の中で整理する。

 それとは別に、相手の性格や気質なども予想し、計る。

 相手に自分が様子見をしている事を悟られないよう、気の張った、追い込まれながらも毅然とした態度をしているかのように、そう思わせるよう返す。

「ここではお互いに、都合が悪いのではないか?」

 本当に暗殺の命令を受けて忠実に動くのであれば、この初手で既に、自分達しか居ないこの部屋の中で決していたはずだった。当然、それに対する対策も立てていた。

 ここで探るものは、本当に相手はただ遊んでいるだけなのか? それとも初撃では無理だろうと踏んで、遊んでいるフリをしつつ、確実な隙を狙っているのか。

 ……もしくは、襲えない何かしらの理由があるのか。

 それを探る。

 さらにもう一押し。

「やるのならば、後日に合図を出す……どうせ監視しているのだろう? 曖昧に先延ばしにはしない。その時に……だ」

 その言葉は、蛇水に向けてではない。

 自分の背後――洗面台の鏡に映っている、水蛇を操っている相手に対して。

 この水蛇を操っている相手は、既に自分の背後に立っていた。

 壁にもたれて腕を組む、自分よりも若い……少年以上青年未満の男は、結んでいた口元を軽く緩め、薄笑いを浮かべた。

 その男が壁から背を離し、無言で化粧室の出入り口へと向い――出て行く。

 バシャッ!

 化粧室のドアが閉まった瞬間、麻人の首に巻きついていた水蛇が弾け、麻人は水浸しになった。

 この水蛇が、簡単に人を吹き飛ばすくらいの爆発を起こすものかもしれなかったが、爆発する予備動作も無く、それ以前に、そこまで複雑な構成が込められていた様子が欠片もなかった。単純に、この水道水への支配を手放し、元へ戻っただけ。

 この水蛇……能力者の属性成形という技術は、最も基本的な能力練習の一つ。

 自分も飽きるほど、むしろそれを通り越して吐き気がくるどころか、手足を動かす自然動作ほどになるまでブレイクに叩き込まれた。

 それはそれとして――

(相手は遊んでいるか、こちらをまだ狙えない理由があるのか……)

 少なくとも、今ここでやりあう事はしなかった……相手の実力、少しながらの情報が得られて、対策を練る事ができそうだが……

 それ以外で、麻人はふと気付く。

(もしくは、わざと自分達の存在をちらつかせて、あえて準備させた後で戦って倒す。という事もある、か……)

 自分の『実績』を考えれば、真っ向から倒しきってそれを己の評価に変える、という行為も、そうしておかしい所は無い。

 とりあえずは……実咲はともかくとして、鬼怒川夫婦にこの水かぶり状態をどう言い訳しようかと、考えなければならなくなった。

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