LIGHTNING CAT(後編)
6:
風呂がせまい。理由はいつも同じ。
さらに言うならば、自分がゆっくりできるスペースがあの割り当てられた小部屋しかないと言うのが、たびたび癪に障る。癪に障る感覚が強まってきたのは、おそらく同郷だったシャオテンがやってきた所為だろう。
「ちび助」
濡れた頭へバスタオルを乗せたまま、部屋に戻ろうとしたシュウジを、凉平が呼び止めた。
凉平はシュウジを呼ぶと、すぐに廊下の視界から消える。あたかもついて来いと言っているよう。
シュウジが凉平の消えた先、厨房へと向かい、入ると、凉平は冷蔵庫から二本の牛乳瓶を取り出して、寄ってきたシュウジへその一本を渡した。
「かりかりしすぎだぜ」
凉平の、気軽なようでいて、気を使った仕草と言葉。だがシュウジは、一向にむすっとした表情がまったく崩れない。
シュウジと凉平は同じように、手に持った牛乳瓶の蓋の縁を爪で軽くはがし、ぽんと小気味良い音を立てて蓋を取ると、さらに並んで、片手を腰に当てて顔を上げつつ、瓶の中に入った牛乳を一気に飲み干す。
ぷはぁ、同時に飲み終わり、それから二人はステンレスの調理台に腰を預けて寄りかかった。
「ふう……まぁ俺は詳しい事は知らね。さっきの見た事を大雑把にしか分からねぇけどな」
特に気まずい沈黙を作ることも無く、すぐさま本題に凉平は踏み入ってきた。聞きにくい事であろうと関係無くすっぱりと切り出して、しかも決して不快に思えないのは、凉平のようなタイプの人間が成せる気質でもあった。
「あのままってのは、ちょいと可哀想なんじゃないのか?」
何で本当の事を言ってあげないのか? という提案は愚問の域だった。言えるものなら最初から言えている……言えない理由があるからこそ言えないのだと、凉平はそう察した上での第一発言だった。
無論、凉平は凉平で、シュウジの事情は現在進行形の範囲のものしか把握しておらず、詳細なものは知らない。
「俺の憶測、なんだがよ」
空になった牛乳瓶を両手で回したり、成分表を眺めたりして視線を合わせないシュウジへ、凉平がある種、慎重さが伺える言い回しで言う。
「お前は、知らなかったんだろ? 当時、何もかもな」
シュウジが、牛乳瓶の持った手を止めた。
「何も知らず、下々の苦労も見ても知ってもいない箱入り状態で……おそらく自分の拳法が、女性のみしか伝わってはいけないってことすら、知らなかったんだろう? どうしてそんな、長くばれなかったのかは分からねぇが……それでお袋さんに連れられて、外の世界へ出て、今までべたべたに甘かった世界から、本当の厳しさを知って……それからお袋さんが死んで、自分のこの状況が、仲間達への裏切りだったと知って……その事を当時のお前は何も分かっていなかった」
凉平は、あまり言いたくないのか、少しばかり言うのもはばかられる様子でさらに言う。
「……今、お前が戦っているのはおそらく、お袋さんを殺した仇連中……だろう?」
シュウジはそこで、何か諦めがついたとばかりに、ため息を漏らした。
「ンなの、理由にならねぇよ」
何もわからずにやってしまっていた、などと、理由が理由になっていない。たとえ誰かに手を引かれてやっていたとしても、だ。
それを話したところで、何もならないというのは、誰が聞いても自明の理だった。
知らなかったという事で、自分の中に溜まっている罪が見逃されたり消えたりするわけでも、まして洗われて良いという事でもない。
「ま、そうなんだけどな……」
凉平の相槌。凉平の推測は、ほとんど的を得ていた。凉平にとっては、少しぐらいは的が外れたものであって欲しかったのかもしれない。的を得すぎた推測と言うのも、これ以上はどこまで追求すればいいのか分からなくなり、黙り込むしかなかった。
特に長年の親友と言うわけでも、極端に言えば友達と言う間柄ですらない。ただの仕事仲間――というより、同じ穴の狢。このようなをしているからこそ、お互いに踏み入ってはならない領域が、当然あった。
「だがよ、少し違うところがある」
――概ね的は得ていた、最初の辺りから大部分が。
「お袋は生きている」
「え?」
凉平の、意外とばかりに間の抜けた返事。
「俺が相手にしているのは、お袋からの刺客、ってやつだ」
凉平はそれを耳に入れたとたん、目を見開いて「は?」と、またも反射的に聞き返してしまう。
「お袋は、一度俺を捨てたにもかかわらず、また欲しくなったんだとよ」
軽く俯くシュウジ、だがその様子からは、憎しみめいたものは見えず、むしろ――
「じゃあ、今お前がやっている事ってのは」
「終わり」
シュウジが手に持っていた空の牛乳瓶を、調理台の上へ、ことりと音を立てて置いた。
終了の合図だった。
「こればっかりは、誰にも頼る気になんてなれねぇんだよ」
そう告げて、シュウジは凉平から背を向けて厨房から出て行く。
出る直前に、シュウジの「ありがとな」という声が小さく凉平の耳に入った。
シュウジが去った後、凉平は深いため息を吐いて、頭をがりがりと悔しそうに掻いた。
(どいつもこいつも、危なっかしい奴が集まったもんだな……)
自分も人のことは言えない、というのは分かってはいるものの、それでも、自分をほったらかしにして他を心配するのは、凉平の長所に見えて短所だった。
(あの馬鹿もそうだったし……あいつ今何してるんだ……ちび助も最近ずっとああだし、余計な事だったのかも知れねぇし……)
ふと、考え事を止めて、気付く。
「……もう一本飲んどくか」
溜まった疲れを吐き出すように息をつくと、凉平は再度、牛乳を取り出すため、冷蔵庫へ手をかけた。
7:
(今日こそは……)
決意は固まった。夜襲をかけてでも、彼に制裁をかける。
あの泣きじゃくってしまった夜から丸一日後の今日、昼間は確実に無理。シャオテンは冷静になってから、決めたのはまずそれだった。
そして幸運な事に、夜遅くになって、シュウジはひなた時計から珍しく外出した。
真夜中の深夜に、だ。
口紐を固く縛ったバッグを肩に担いで、駅前を通り過ぎ、この先の向かっていく方角はビジネス街になっていた。
人の気配がどんどん無くなっていき、たまに車が通るのと、明るすぎる街灯の行列の中を、シュウジは一人、ぽつぽつと歩いていた。
(何処へ行く気なの……)
誰かと会うのか、それとも荷物を持っている所からして深夜の修練か?
行き先は決まっているようだ。迷いも無く辺りを見回すことも無く、まっすぐに目的地へ向かっていく。
街灯が明るいおかげで、十分に距離を置いて隠れながら後ろへついて行くことが出来ていた。迷い無く進んでいる分、気付かれていないというのが彼女の胸の中で確信めいて現れている。
静かな追跡劇も終わりが来たようで、ビル群のひときわ大きく高いビルの中へ、シュウジは入っていった。
シャオテンは、おそらく大理石の種類であろう、今自分が隠れている、ぴかぴかに輝いた石材に、ビルの名前が掘られている事に気付く。
闇夜の中で目を凝らして名前を知ろうと試みた……が、暗くてよく見えない。
「彼は屋上です」
「――ッ!」
心臓が跳ねた。
突然背後から聞こえた声に驚き、反射的に振り向く。
……誰も居なかった。
驚きの余韻が強く、未だに高鳴りが止まない心臓を押さえて、シャオテンは空耳かと思う。しかし、即座に否定する。
(空耳じゃない……はっきりと男の声が聞こえた。気配も、一瞬だけあった……)
もう気配は無い。しんと静まり返った街灯達が、誰も居ないアスファルト一面を俯くように、うなだれるように……照らしているだけだった。
敵意ある者だったのならば、即座にやられていたか捕らえられていただろう。
(でも、何もされないどころか)
もう一度、シャオテンはシュウジが入って行った、暗闇の中に……暗い海の底に、沈んだように立っているビルを見上げる。
(何か、あることだけは確実なのですね……)
恐ろしいものと対峙するような気持ちで、シャオテンはビルの中へ入っていった。
非常灯がかすかにぼんやりしている程度で、中は真っ暗にもかかわらず、入り口の自動ドアは音も無く、すっと開いた。
そして、いかにも手招きをして呼んでいるかのように、エレベーターの明かりが、電源だけが残っている事に気付く。
露骨過ぎて、何かしらの罠ではないか? しかし、これを罠にするとしても分かりやす過ぎる。などと考えをめぐらせるも、背後を取ってきた声の主の言葉を、そのまま鵜呑みにするならば、屋上にシュウジがいるはずだった。
(これ以外に手がかりは無い……ようですね)
ここまで高いビルの屋上だと、階段で向かうのは不可能。体力と時間がかかりすぎる。
屋上にシュウジが居るのだとすれば、追いつくにはこれを使うしかないのだろう。
戸惑いながらも、腹をくくる気分で意を決し、エレベータのボタンを押す。すぐに三つあるうちの一つが開いた。中へ入り、最上階へのボタンを押すが、今度は反応が無い。
がうん。と、エレベーターのドアが閉まり、階を指定できたわけでもないのにエレベーターが上昇を始める。
まるで、シャオテン以外の者の命令に従って運んでいるような、不気味極まりないエレベーターだった。
勢いのある上昇感覚から見て、屋上へ向かっている様子。
(何があるというの……)
エレベーターの現在位置を示す電子掲示板が、みるみる上の階へ上の階へと昇っていき、その頂上で――止まった。
エレベーターの扉が開く。
開いた扉の先が、当然野外ではなく、まだ室内の中だった。
ただし目の前が、距離を置いても圧迫感を感じるほどに分厚そうな、胸が詰まるようなガラス張りの壁がある。。
そのさらに奥の……外に一人。
ここからではうまく見えない。
だがその小柄な人影が、誰なのかは直感も含めて分かった。
音を立てて相手に気付かれる事もいとわず、ガラスの壁の隅にある重たい出入り口へ駆け寄り、体重をかけて扉を開き、外へ出る。
ビルの頭、屋上とはいってもその周囲は、上部が内側に折れた白い鉄板を思わせる塀……フェンスに取り囲まれていた。
(闘技場……?)
そう思ったのは、屋上に吹く風から中を守る……いや、内側に何があっても外へ漏らさないようにするためのような、そんな監禁的な雰囲気が、肌で感じ取れたからだ。
そして、その闘技場めいた空間の中心に、闇夜に負けぬほどに黒い……ダークカラーのマント。
顔の上半分をフードで隠し、肘から手の甲にかけて覆われた……金属製の武骨な手甲を身に着けた小柄な人物――シュウジが一人佇んでいた。
「何をしているの……?」
シャオテンが黒ずくめの姿をしたシュウジへ問いかける。
「っ!」
突然の声に、肩をびくつかせて、背を向けていたシュウジが驚く。
「ついてきたのか!」
振り向いたシュウジが、シャオテンへ早足で近寄り、叫ぶように怒鳴った。
「早く帰れ!」
「残念だがもう遅い!」
二人の上空から声がして、シュウジとシャオテンの間に、一人の人物が降り立ち告げる。
長身細身で短髪の、袖が広く、深い紺色の道服を着込んだ男。
「状況は察した。……だが、その所為で今回の決闘を先延ばしにするわけにはいかないな」
左のこめかみから頬まで、一直線に長い古傷を歪め、男はシュウジへ、にやりとした笑みを浮かべる。
「そうだろう?」
その男はシュウジへ返答を求めた。
つまりは、シャオテンを見逃す、帰らせる気は毛頭無いと言う意思の表れだった。
そして、シュウジが負けるとなれば、シャオテンの命も無い。と言う意味も含まれている。
「……そうだな」
シュウジのあっさりとした諦め、頷く。
両者が構えを取った。
シュウジはやや深めに腰を落とし、右肩を男へ向ける構え。
男は、腰に刺してあった二本の剣を抜刀して構えた。
「このグウレン! 今日こそお前の命を頂く!」
それが開始の合図であるかのように、決闘が始まった。
真っ直ぐに伸びた細身の剣が、シュウジのいる場所を横凪に裂く。
だがそこには既にシュウジはなく、男――グウレンの懐の下方へ潜り込むように移動していた。
グウレンの真下で、シュウジが突き上げるような掌底をグウレンの顎へ打ち込む。
グウレンは軽くのけぞって顎への一撃を交わすと、バックステップで距離を取りつつ、二刀の剣で目の前に居るシュウジへそれを振るう。
シュウジは剣の軌道を素早く読み取り、かわすと同時に、またグウレンへ密着するように移動した。
獣計十三掌虎の拳……虎派闘獣拳は超接近の拳。相手との密着状態で真価が発揮される拳法だった。
低位置からの打撃、関節技、日本で言う柔や合気道の技術に近い体さばき……勢いを体のばねで作り操り、威力を練る戦い方。
それ故、この拳法は、男性の体格には向かない拳だった。小柄で俊敏、しなやかな動作を行い、腕力で物を言わせる戦いではなく、ひたすら技術に特化した拳法。
その相手との超接近状態での戦い方は、常に相手の周囲にまとわり着くように、追うかのように……。
戦うシュウジの姿は、獲物へ喰らいつく虎のようだった。
グウレンの用意した二刀の剣では、近すぎて思うようにシュウジを狙うことが出来ない。
射程距離が違うのだ。シュウジの拳を相手にするには、グウレンの剣では近すぎる。
振るう事で十分以上の威力を、剣は放つことが出来る。がしかし、剣を振るう距離よりも短い距離に居るシュウジに、十分な威力を持って振るうことは出来なかった。
おそらく、相手がこの虎の拳を使うシュウジでなかったのならば、このグウレンはかなりの使い手であっただろう……自分の領分とは違う、むしろ不利な戦い方をしなければならない状況で、両者の勝敗は明らかだった。
「はぁっ!」
シュウジの両手から打ち出された掌底が、グウレンの胸――両の肺へ叩き込まれる。
無論、ただの掌底ではなく、発剄――分類するなら纏絲剄。四肢、体幹など全身を使って叩き込む発剄で、螺旋剄とも呼ばれ、熟練されればトン単位の衝撃を与えられる技術。
それを両手で、グウレンの肺へその衝撃を叩き込んだ。
グウレンが発剄を打ち込まれ、後方に飛んで着地。
シュウジが舌打ちした。
グウレンはシュウジの発剄を受けて後方へ飛んだのではなく、自ら後ろへ飛んで発剄の最大威力から逃れたのだった。
だが、グウレンもノーダメージはなく、咳き込んでその場に倒れそうになるのを踏ん張って耐えていた。
「前回のナイフの方がまだ良かったんじゃねぇか?」
シュウジの、軽口にも思えそうだが、きっぱりと言い切った言葉に、グウレンが歯噛みする。
「まだだ……」
呼吸が困難な状態で、グウレンが声を絞り出した。
「そうかい」
シュウジがまた、相手との密着状態の間合いを取ろうと、低い姿勢でグウレンへ襲い掛かる。
が――
グウレンは自分の持っていた獲物、二刀の剣を――投げ捨てた。
そして両手を突き出すと、両の手には小ぶりの機関銃――
けたたましい発砲と同時に、シュウジが駆けた勢いを殺せぬまま身をひねって射線から逃れ、そのまま地面を転がる。
8:
(何、これ……)
唖然とするしかなかった。
シュウジが、けけたたましい銃弾に追われている。
勝敗の見えた闘技から一転して、一方的な殺し合いに変わっていた。
シュウジが素早い歩法で、不規則に方向転換しながら銃弾の雨を避けている。
殺し合い。
アナタを殺す。と言っておきながら……制裁を加えなければと思っていたその相手が、今銃弾の雨に追い込まれている。
(違う、こんなのじゃない……)
では、何が違うのか……。
動揺していた。
実際に制裁を下す相手……シュウジが別の相手と決闘をしていて、一方的な殺しと言う暴力に抗っている。だが、それをやるのは自分だったはずで……でもこういうことではなくて……。
しかし、制裁を下すという事は、シュウジを殺す。と言うことで――
(違う! 絶対違う!)
動揺で頭が沸騰し、叫ぶ。
「やめて! もうやめて!」
シャオテンが弾丸をばら撒くグウレンを睨みつけると、好物の獲物を追い込んだ事で狂乱したような、禍々しい眼をしたグウレンに睨み返される。
「っ!」
両手に持っていた小型の機関銃のうち、片方を向けられた――
グウレンが、歯をむき出しにして、不気味な笑みを浮かべる。銃口と共に向けられ、脚が力を失った。
ぐらりとよろめいて、尻餅をつく瞬間――
シュウジがその間に入ってきた。
羽織っていたダークカラーのマントを脱ぎ、シュウジは自分の前面、グウレンへ向かって広げる。
発砲。
マントへ銃弾の雨が突き刺さり、マントは――銃弾を防いだ。
尻餅――そこでようやく腰が地面へ落ちる。
「防弾……っ!」
防弾繊維で編みこまれたマントが未だ宙を舞い、マント越しの奥でグウレンが驚きの声を上げる。
シュウジは元々、防弾繊維のマントを着込んでいて、グウレンの機関銃から逃げ回る必要性はまったく無かったのだ。
銃声が止んだ。と同時に、こちら側から見えていたシュウジが、視界から旋風のように消える――
ばさ、とマントが地面へ降りて、グウレンが見れるようになった。
「ご――」
グウレンの途切れた苦悶の声。
再びシャオテンの視界に入ったグウレンは、シュウジに拳打を腹に打ち込まれていた。
いや、シュウジの右腕の手甲から爪が生えていて、それをグレンの腹に突き刺していた。
「はあああああああああああっ!」
シュウジの気合を混ぜた一声。同時に、グウレンが激しく輝きだした。
バチバチと空気と閃光を弾けさせ、グウレンの体が暴れるように振動する。
電撃――
手甲にスタンガンでも仕込んであったのか、シュウジの腕から、突き刺した爪から、目がくらむほどの電撃が放たれていた。
がたがたと、グウレンが全身を暴れさせて数秒――
シュウジの電撃攻撃が止んで、爪を引き抜く。グウレンは焦げた臭いと、顔中から湯気をたち昇らせて、ぐらりと崩れて倒れた。
シュウジが軽くスナップを引かせて腕を振るうと、金属の擦れる音がして爪が引っ込む。
そして、ふっ、と安堵のため息にも、気合を入れ直す呼気ともつかない息を吐いて、
「おい」
シュウジが呼びかけた。
尻餅をついたままの状態ではっとなる。返事を返そうとして。
「銃火器類、毒物ガス類は禁止のはずだったろ」
それはこちらへの呼びかけではなかった。
「え?」
思わず間抜けな声で返してしまう。
と――
「ええ、その通りですよ」
あっけらかんとした声が、男の声が背後の、上から聞こえてきた。
(この声!)
シュウジが屋上へ行ったと教えた、あの声だった。
未だ、尻餅をついたまま、振り向いて上を見上げる。
「相手を倒す事に、己の実力を含まない武器は禁止です。変更などしておりません」
エレベーターがある、屋内へ通じる四角い建物の上。その屋根の上で、新しい男が一人、座り込んで眺めていた。
その男が立ち上がると、こちらへ飛来してきたかのように降り立つ。
シャオテンのすぐそばで着地。グウレンと言う男の、着ている物と似通った印象がある、紺よりも深い、青黒い外套を着た、短髪逆毛の男……。
その、釣り上がりながらも細い目筋が、口元が、優しげに笑う。
「ただ……彼には、『ばれてしまわれると』ルール違反ですよ。と念を押したのですが、ね」
ちっ、とシュウジが舌打ちした。
「やっぱてめえの仕業か」
この男が、遠まわしにグウレンへ、禁止されていた銃器の使用を促した――
そして、シュウジが睨んでいるのをそ知らぬ顔で、足元にいるシャオテンへ向く。と、シャオテンへ手を差し出した。
「御手をどうぞ、お嬢さん」
「あ……はい」
紳士的な、笑みと動作でつい手をとって立ち上がらせてもらう。
シュウジがそれを見て、叫ぶ。
「クジン! そいつは関係ない!」
「存じておりますよ」
少しとぼけたような男の、クジンの声。
「シャオテン」
シュウジが切羽詰った声で呼んだ。
「そいつから離れろ」
「え?」
クジンの手を離して、シャオテンが疑問を浮かべ――
「!」
ぞくり、一瞬で背骨が凍りついた。
殺気。
クジン……隣に居る男から殺気を浴びて、体が凍りつく。クジンの手を取った事で気付いてしまったからだ。
さりげない動作、伸ばしてきた手に触れて……それだけの初見だけで、クジンと言う男が、とんでもない達人である。と言うことが分かった。
そういった人種、自分よりもはるか上の存在に、敵意を向けられ、動けなくなった。
身動き一つでもしたら瞬時に殺される――本能レベルでの警告が、体を縛り上げていた。
クジンは、その殺気をこちらへ放ったまま、シュウジの方へ向いて、
「御子息。いけませんねぇ、気付かせては死の恐怖に苛まれてしまわれるでしょう」
めまいを起こしそうなほどの殺意を放ちながらも、少しすっとぼけたような口調。
そのベクトルのまったく違うこの男の調子が、あまりにも不気味極まりないという事に、冷えた頭で、ようやく気付いた。
この男はとんでもなく危険だ、と――
「殺すな」
反抗する声をしながらも、どこか硬く、余裕が見えないシュウジの声。
「ふむ」
クジンが顎に手を当てて思案し、「命令だ」とシュウジがさらに念を押す。
すると、クジンがくすり、と優しい笑みをこぼした。
「分かりました。御子息」
ふっと殺気から開放され、その場でよろめく。
と、さらに。
「ですが、御母上様から、御子息の教育係を任されておりますゆえ、分かっておられますね?」
「ああ、お袋に告げ口してもかまわん」
「違います」
クジンが短く言うと同時に、一瞬の動作でシュウジの前まで移動すると、バックハンドでシュウジの横っ面を弾くように殴り飛ばした。
驚く。
シュウジが凄まじい勢いで吹っ飛ばされたのもそうだが、それよりなによりも。
(御母上……シュウジの母親が、こんな事をさせているの……)
クジンが腕を戻し、シュウジが地面に手をついて起き上がるのを待つ。
「今日の御子息の罰は二つ」
下方にいるシュウジを見下ろし、クジンが言った。
「一つは、このようなドラ猫に後を付けられ、ここまで来させた事です」
嘘だ。
このクジンは、こちらの背後を取って、屋上へ行く事を促した。自分ひとりで、もしかしたら来たかもしれないが、確かにシュウジが屋上に居るという事を、この男の声で聞いた。
「二つ目は――」
クジンがシュウジから視線を移し
「このドラ猫の前だった故でしょうか? グウレンをまた殺し損ねています」
「…………」
シュウジの無言の返答。クジンから撃たれた裏拳で、口の端から血が伝う。
「この雑魚が、ルール違反を犯して、銃器を使い。アナタがせっかくソーサリーメテオより頂いた、雷の能力を発揮するチャンスでもあったのにも関わらずです……これはもう、使い物になりませんね」
クジンが外套の袖からナイフを出し、未だ倒れているグウレンへ向けて――
「やめろ」
シュウジが低く唸った。
クジンが再びシュウジへ向くと、その表情を見て――突然吹き出して笑った。
「ははっ、ははははははははっ! その目は……一体なんですかっ! くくく……今日のアナタはどこかおかしいですよ……御子息。くくく……」
シュウジの顔を見たクジンが、押さえ切れない笑いに耐えながら、そう言った。
そのシュウジの顔は、怒りを抑える猛獣にも似た、威嚇の睨み。
その視線を浴びて……それにも関わらず。クジンは意表を突かれたエンターテイメントショーを見たかのように、愉快に笑いを堪えていた。
見方を変えれば、それは足掻く弱者を、滑稽だと笑い見下す強者のよう――
未だこみ上げてくる声を殺しきれていない口で、クジンが言う。
「仕方ありませんね、このドラ猫に……そこまでお熱の御子息の頼みとあらば。聞かないわけにはありません。このゴミは私が帰って、御母上への報告の前に処理しておきましょう」
クジンがグウレンへ近づき、まるで本当にゴミ袋でも持ち上げるかのような動作で、グウレンの胸倉を片手で掴み持ち上げる。
「それでは、次の決闘は御報告をした後で……対戦相手が決まり次第お伝えいたします」
ずるずると、自分よりも体格の大きいグウレンを引きずりながら、クジンは帰ろうとし。
「まって!」
クジンが振り向く。
「どういうことなの……。何でこんなことしているの? これを仕向けているのが、シュウジのお母さん、青虎様って、どうして……」
だんだん声が弱くなっていく。クジンがふむ、と軽く首をかしげ。
「お嬢さん、ひょっとして、どうして? が口癖ではありませんか?」
シャオテンが、まったく違う返答にはっとする。
「それはそれとして……いいでしょう。私は御子息、シュウジ様の教育係兼、この決闘闘技の一切を仕切らせていただいております。名は臥(ウォ)クジン……私めは、このシュウジ様の御母上、であると同時に、我等が銃器兵器会社『大崑崙』の長であらせられる、青虎様より、この任を仰せられております。以後、お見知りおきを……」
裏社会(アンダーグラウンド)
この男は、裏社会の住人であり、自分の上にいるシュウジの母親の所在も明かし、またシュウジもそれに関わっている。それを事も無げに言った。
これはきっと、聞いたところでどうにもならない。という意味合いも含まれているかのようだった。
「なんで、シンファ様……シュウジさんにこんな事をさせているのですか?」
その返答を、またもさらさらと何のつまりも見せずにクジンが言う。
「御子息は、我々『大崑崙』の次期跡取りなのでございます。しかし、肉体的にも裏社会的にも、まだ何のお力も持ち合わせていない御子息に、ただ一子だからと言う理由で継がせるわけには参りません。下々はそれを認めないでしょう……それ故、シュウジ様には、決闘へ自ら赴き、腕を常に上げていただかなければなりません……継承の是非を問わず。ですがね」
つまりは、シュウジは現在、裏社会の大会社の跡取りであり、シュウジの都合を問わず、無理矢理に跡を継がせるために、母親が殺し合いと言う決闘を強制している。ということか……そこまで何とか飲み込んだ。
「どうして?」
シュウジにそれを拒否する権利はないのか? 無理矢理にでもさせなければならない事なのか? このシュウジは……私の、自分の中に今もいるシンファなのだ。
あまりの事に、これ以上はうまくまとめ言い切れない、歯切れの悪い言葉。
「お嬢さん……」
クジンがぽつりと、しかし顔の作りが変わったかのような、狂ったような笑みを浮かべ。
「これ以上の詮索は、拝聴料としてお命を頂く事になりますよ」
狂乱を抑えるかのようなクジンの表情と、捩れ狂うような気迫に圧倒され、クジンが背を向けて別れを告げて去るまで……視界からいなくなるまで、シャオテンは怖気に震わされて、身動き一つ立てられなかった。
9:
クジンが去って、屋上が落ち着きを取り戻した。
シャオテンは、戦闘服をバッグへしまい込んで着替えているシュウジの後姿に問いかけた。
「これでいいの……?」
何を問いて良いものか、漠然と広すぎて、シュウジへそれだけ問いかける。
「ん?」
シュウジも、どう答えて良いものか分からず、生返事で聞き返した。
「裏社会での地位が、アナタの今欲しいものなの?」
「いらんよ、ンなもん」
やはり、あっさりと返すシュウジ。
「じゃあなんで……」
こんな事をしているのか?
「ここにこないと、昼夜かまわずやってくるからだ、あのクジンがな」
シュウジは言いながら、マントをバッグの中へ大雑把に押し込んで、口紐を固く縛る。
そして、言葉が出ないシャオテンを察してか、シュウジは続けた。
「大崑崙なんていらないし、一度見捨てられた母親に、また欲しくなったから戻れとか、あまつさえこんなスパルタされるとか、だりーに決まってるだろ」
シュウジがバッグの紐を持って立ち上がり
「かといって、逃げられるわけでもないし、逃げる気もない」
どうしようもない。と言うことなのだろうか? 本人の意思に反してやってくる暴力行為に、屈しているという事か?
そんなシャオテンの思いを、シュウジは否定した。
「まぁ、今の俺はまだ弱くて、これからも強くならなければならないってのも分かってるし、まだまだ強くなれたら……死んだら終わりだけれどな……続けていれば、ひょっとしたら死ぬか跡を継ぐか、それ以外の選択肢も見つかるかもしれねぇ」
シャオテンからは、背中を向けているシュウジの表情は読み取れない。どんな、顔をしているのだろうか。
「可能性は、やっぱ低いだろうな……でも、それがあったら……見つかったとしたら、どんなに分が悪くても、やるだろうな……可能性のパーセンテージなんて関係無くな」
シャオテンは言葉も出ない。だが自分が聞こうとしたことを、先読みしてくれているのか、全て答えてくれていた。
「ま、そういった、最初から用意された選択肢や、他を探して選べる事には、その分自由にやれている」
「…………」
あの幼い頃、純粋無垢だったあの子は今、過酷な中で、厳しい中で今も強くなろうとしていた。
どんなに姿が変わろうと、いつでも自分の上で、届かなくて――
「それと、シャオテン」
シュウジが呼んだ。
「さっきから丁寧口調忘れてるぞ」
「あ」
はっとなって、シャオテンはつい口を両手で覆ってしまう。
「初めから思ってたけど、庶民上がりが無理してお嬢様口調で気取るんじゃねぇよ」
「お、大きなお世話ですわっ!」
慌てるシャオテンの声で、シュウジが小さく吹き出した。
「ま、元貴族で、もらい泣きばかりしてた俺が――」
シュウジは振り向いて
「今の俺が言えた義理じゃねぇ、か……」
シュウジの苦笑の笑み。
シャオテンがはっとする。ひょっとしたら、あの時の事を覚えていてくれていたのだろうか……
そういえば、自分からシュウジへ一度も自分の名前を名乗っていないという事、周りは彼女を『シャオ』としか呼んでいないのに、しっかりと『シャオテン』と呼んでいる事に、ようやく気付いた。
「わたくしの事、覚えてて、くれてたのですか………」
シュウジが自嘲の入った笑みと一緒に肩をすくめた。
そこには今でも、あの無垢だったシンファだった頃の、かすかな面影があったような気がした。
再び会ったその人の、ようやく見ることの出来た笑み。皮肉にも苦笑の表情だが、たったそれだけのものが、今のシャオテンにとっては、とても安堵する笑みだった。
「帰るぞー」
一瞬だけ昔の名残を余韻にしつつ、シュウジはまたいつもの、悪ガキの調子へ戻っていた。
10:
「あ、ねーちゃん。ひさしぶり~」
ぶっはぁっ!
「ん、ああ、今の爆発音? シャオテンの奴がフルーツジュースを盛大に噴き出したんだ」
「ちょっとまってええええええええええ」
携帯電話で会話しているシュウジへ、シャオテンが悲鳴に近い叫びを上げた。
「おいおい、虎柱様にまる聞こえだぜ?」
シュウジがにやにやとした笑みを、シャオテンへ向ける。
「ど! ……どうして虎柱様と普通に電話つなげているんですか……」
携帯電話の奥で、シュウジは姉である虎柱の声を聞いているのか、シャオテンと交互に見交わし。
「だって、ねーちゃんだし。……ああ、今シャオテンが目の前でテンパってるんだ」
「理由になってませんわっ!」
ある意味ではもっともらしい理由にも聞こえるが、今のシュウジの身の上で、虎柱である自分の姉と直通で電話を交せるとは、シャオテンは夢にも思っていなかった。
「んで、シャオテンが俺を殺しに来たって言ってんだけど。ん、そっか。……シャオテン、ンな事命令してないってさ」
「え?」
シャオテンの肩がすとんと落ちて、呆ける。
シュウジが電話越しで二、三相槌を打つと、また後でかけるから。と言ってあっさり携帯電話を切った。
「でっでも、虎柱様は、あの時とても悲しい顔で『あの子をお願い』って……」
「こっちに来る前に、ねーちゃんから何か渡されなかった?」
「……はっ」
シャオテンがはっとして、腰に付けていたヒップバックをあさり、手帳よりもやや大きいノート、日記帳にも見える一冊を取り出した。
「これ……」
留め金を外して、最初の一ページを開くと。
「…………」
シャオテンは、どうすれば良いのか分からない、微妙な顔をして固まった。
「どーした?」
シュウジが身を乗り出して覗き込む。開いた一ページ目に書かれていたタイトルは
シンファ(シュウジ)観察日記♡
「あんのアホ姉えええええええええ」
シュウジが叫びながら日記帳(自分の観察日記)を地面へ叩きつけた。
「…………」
シャオテンの中で、今まで自分が勘違いをしていたという事実と、納得したくない事実が同時に沸いてくる。
世の中には、認めたくない事実と言うものがあり、それを認めなければならない時、それはきっと大きくて苦いものを飲み下す事と似ているんだと、シャオテンは再び悟った。
あの子をお願い=観察してきて。
あの時の悲しい顔=自分が行けない事への残念顔。
「うそだあああああああああああああ」
シャオテンが頭を抱えて絶叫した。
「どうしてですの! この変わり果て過ぎたどころか! 一度粉々に飛び散って、破片で歪に組みあがったような、元シンファ様の悪らつな生まれ変わり様を! なんで観察して日記みたいにまとめなければならないんですの!」
「うっせえ……んでもその事なら、ねーちゃんもう知ってるぜ?」
「え……?」
まさかの一言に、シャオテンが眼を丸くする。
「今の格好を、写メでねーちゃんに見せたらさ、やっぱ寝込んだ」
「あたりまえです!」
「でもよ」
「?」
「体がこれくらい引き締まった。って後日に上半身を撮って見せたら、電話が即座にかかってきてさ、鼻を詰まらせた声で『これならおっけぃ!』って立ち直ってくれたよ」
「虎柱様がっ!」
寄ってきた凉平と、カウンターの中にいたマスターがぽつりと呟く。
「……お前らさっきからうるせーよ」
「うるさいぞ」
カウンターでぎゃぎゃあと騒いでいるシュウジとシャオテンが、上がった勢いを落として、静かにスツールの上で座り直す。
シャオテンは、いつのまにか置かれていたお絞りで、噴き出したフルーツジュースでびしゃびしゃになった辺りを拭き取りながら、ふと気付いた。
「ひょっとして……コレをやるまで、わたくしは国に帰れませんの?」
コレ=シュウジ観察日記。
「だろうな……」
「コレを、やならいといけないのでございましょうか?」
コレ=シュウジの観察。
「虎柱様が悲しむどころか、怒り狂うんじゃない? 嫌だから帰ってきた、って言ったらさ」
「…………」
シャオテンはもう全ての表情も失い、床で雑に落ちている白紙の観察日記をじっくり眺め。
「………………」
無表情の顔から今にも泣きそうな顔へと、ゆっくりと時間をかけて表情を変えた後で、静かに落ちている日記帳をまず拾うという作業から始めた。
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