LIGHTNING CAT(中編)
3:
自分たちは国と称しているが、実際のところは世界地図に載れるほどの土地も人口もあるわけではなかった。
世間では正式に認められていない小さすぎる国。といったところだった。
歴史の発端は隣国の広大な土地を持つ大国からで、その大国が戦国時代だった頃、敗退した始祖である民族が、滅んだ自国を建て直す名目で、作り直した集落から始まった。
山、森林、川辺湖、十二方向と中央のそれぞれ異なった環境地形のため、当時の開拓時代は厳しく、毎日のように死人が出ていた……それらに適応するため、獣拳が新たな力として必要となった。獣を模倣し、学び、生き延びる術を手に入れ、それが発展。拳法として開発されていくにあたり、人の姿を持って獣の力より心身を磨き上げ、己を高め、また戦うという過程へと繋がった。それが祖国の始まりと、国力である獣計十三掌の誕生だった。
こんな変わり果てたシンファの事実を目の当たりにして……このまま帰ったとして、そして何が待っているのか、それは明白だった。
虎柱様の悲しい顔を見なくてはならない……また見なくてはならない。
尊敬している人の、憧れている人の涙をまた見なくてはならない。
自分をこんな厄介な気持ちにさせた彼女は……いや、彼はもう覚えてはいないだろう。
もう昔の事だった。
当時の私は弱かった。国内の一般的な家に生まれ、幼少から近所の武道場で稽古をつけていて、その甲斐あってか、国内の主力武術である獣計十三掌の入門試験に合格できた。
だが、そこまでだった。
小さい武道場では賞賛を浴びていたが、結局はそこまでで、自分より上は文字通り空の上に居た。
入門試験に合格できたとて、必ずしも誰よりも強いなんて事は証明にならず、また試験で集まった以上、自分と同格か、それ以上の人間が周囲に集まるのは当たり前の事実。
だが十もない子供の中では、それは酷い事実だった。
毎日の辛い修行と、確固たる縦社会を築くかのような他者との試合の日々。
技術の習得による実力の優劣は、人間関係の上下を決める決定的な要素であり、簡潔に言うならば、強いものが上に立ち弱いものは苦渋を舐める世界。
ここでは、強者を求められる場なのだから、それはしごく当然の世界だった――
そしてその中で、苦汁を舐める側だった私は、泣いていた。
自由時間が終わり、まもなく日が落ちて夕食を食べないと、朝まで空腹を我慢しなければならないのにもかかわらず。
だが、夕日がじりじりと山の中へ帰っていく時間の中。木の陰で誰にも見つからないよう、人知れず泣いた。
泣いている所を発見されたら、また馬鹿にされて、またさっきのように良い練習材料にされる。
なるべく声を殺して、嗚咽する口を手でふさぎながら、泣き止むまで泣く。
その時、
「あれ?」
心臓が跳ねた。
「泣いてる、の?」
……見られた。
また、練習相手と称して、仲が良いふりをされて、痛い思いをしなければならない。
おそるおそる振り返る、聞きなれない声だった。
「……っ」
それを見て、息を呑んだ。泣いていた事すら忘れた。
「どうしたの?」
聞き返してくる。こくりと首をかしげ、頭に乗っかっていた装飾品が夕焼けできらりと光った。
宝石。人の形をした宝石がちょこんと、自分の横に座る。
あっけにとられた。
これだけの服装と貴金属を平気で持てる者は、ここにおいては貴族、さらにこの実力世界で上位の者しか持てない。
「あ」
鈴のような声。
「これ?」
透き通った鈴がまた鳴った。自分の頭の上を見上げて、
「お姉様たちが、修行終わるといつも色んな物付けてくれるの」
えへへ、柔らかく微笑む。
はっとなって気付く。今の自分は、どろどろに汚れて砂まみれの修行服――
「修行頑張ってるんだ」
違う、これは――
「どこかお怪我したの? だから泣いてるの?」
苦しいのは、こんな怪我じゃない――
「大丈夫だよ。強くなれば、痛いお怪我しなくなるから。今だけ今だけ」
強くなんか――
「なれない」
否定。
「え?」
鈴の声が、疑問符を浮かべた。それで、もかまわず――
「なれないなれない、強くなんかなれない。だって……いくら頑張っても……どれだけ頑張れば良いのか分からないんだもん! 強くなろうと……頑張ろうとすると、みんなにいじめられる……痛いことばっかり、してくる……」
もう嫌だ……。と言いかけた時、その言葉は出せなかった。
なぜなら、視線をその子へ戻した時、その子がはらはらと泣いていたのが見えたからだ。
あっけに取られた顔をして、目元からぽろぽろと雫涙を落としていた。
小さい頃から……自分も未だ直らない、もらい泣きと言うやつだった。
知った。
こんな綺麗な子でも、自分と同じようにもらい泣きしてしまうんだと言う事を――。
「え?」
あまりにも綺麗な涙で、気づくのが遅くなった。
自分は、自分よりもはるか上にいる存在の貴族を泣かせた。
「あ」
この子も、ようやく自分が泣いている事に気づいたのだろう、慌ててドレスの袖で涙を拭う。
「痛いの、嫌だよね……」
慌てたせいか、ごしごしと目元を擦っていたその子が、軽く声を裏返らせて言ってきた。
「私も、痛いの嫌なんだよ」
返事を返さない。でも、その子は続ける。
「私もいっぱい、いっぱい投げられたり、叩かれたりするんだよ。でも、頑張ってると、いっぱい、いっぱい頑張ったら、お姉様たちがその分、たくさん、たくさん遊んでくれるんだよ。それで、よく頑張ったねって褒めてくれるんだよ」
なにがどれだけでたくさんでいっぱいなのかは不明だが、その子は両手を広げてにこにこと笑った。
「だから、がんばろー」
単純な言葉、理由も根拠も無い言葉。何の励ましの要素も無い言葉。
正直な話、この子は世間と言うものを知らない。
自分より下の人間が、どれだけ身を削って生きているかを知らない。この子の全身がそれを物語っていた。
だけど――
「がんばれば、強く……なれる?」
自分と同じようにもらい泣きが直らないこの子を――
「なれる、きっとなれるよ」
こんなきれいな子を守れるのなら……
「うん、じゃあ、もっとがんばる」
とりあえず、またもらい泣きで泣かれないように、悲しい顔をされないように、少しだけ頑張って笑って見せる。
思った通りに、この子も同じように微笑んだ。
この子は、人の痛みや優しさを受けて、それを純粋に自分へ移してしまう子なのだ。シャオテンはそんな純粋な子が共にいるのなら、この子が自分より上にいてくれるのなら、どんなに辛かろうと頑張ろうと、決意した。
そしてその子が、シンファという名前の……自分よりももっと幼い頃から、ここで修行している子だったと知るのは、同期世代で上位三十番以内に入れるようになった頃だった。
そして、シンファの名前が、常に一番の枠の中に納まっていることに、ようやく気づいた時期でもあった。
もっと、もっと頑張れば、シンファに近づける。自分と同じようにもらい泣きが直らなかった子の近くに……自分よりも無垢な、自分よりも強いあの子に。
だがそれは――叶わなかった。
4:
息を呑む。
これで、終わりにする。
先日の、シンファ……シュウジが寝泊りしている喫茶ひなた時計のドアを、意を決して手をかける。
先日は個人的な心境により興がそれてしまったが、今度は――
カランカラン
「いらっさーい」
亜麻色の長髪をした男性が声をかけてきた。
「一人かい?」
「いえ」
「ああ、後からここに来るのか、それとも他にも外に?」
「違います」
この男性には恨みなどは無いが、決した意を叩きつけるように見る。
それを察してか、その男性は黙ってくれた。自分の意気に、待ち構えたとも見える。
「羅シュウジさんを呼んでください。用があります」
張り詰めた面持ちを隠さずに言う。
そしてあの日のあの子の――今の姿が現れて――宣言どおりに――
「あいつ今学校だぞ?」
「…………」
表情は変えないまま。しかし、自分はいろんな意味で、今何処に立っているのかさえ忘れてしまった。
そんな、昼を過ぎたばかりの平日で……無性に泣きたくなった。
誠一郎の持つ治癒の能力は、その延長として体内のメンテナンスも行うことが出来た。
疲労の回復、弱った内臓器官への短期間的な活力増強、微細な体内破損、さらには瞬間的な筋力増加。
だが誠一郎はこの自分の能力による体内調整(キュア)を、あまり勧められるちからだとは思っていない。
筋肉は筋繊維という糸の束で出来ている、その筋繊維と言う糸が負荷で切れると、再生の過程でさらに強い筋繊維へと生まれ変わり、より強い筋肉へと育っていく。だが彼の行っている行為は破損に対する修復のみであり、治った箇所は育たずに、破損前との同質の姿へと戻っていく。
つまりはこのキュアは、体調が改善されても体の成長が行われない。と言うことだ。
破損した筋肉は強靭なものへと成長せず、また慢性的に行えば体は育たずにさまざまなものからの耐性がつかない、それは生物にとっては危険を呼びかねない回復行為であり、突き詰めれば、人体がただの耐久消費物へと見方を変えてしまいかねないと判断したからだ。
それに、誠一郎の治癒の能力は、傷ついた有機物の修復と言う力であり、病気は治すことは理屈的に不可能。体内へ入った、害を及ぼすウィルスを殺すことはできない。
街中、駅の近くをシュウジと誠一郎は並んで歩いていた。
シュウジは学校帰りに誠一郎との打ち合わせで、誠一郎からキュアを施してもらい、その帰りである。
「そういえば、故郷の仲間がやってきているそうだな?」
「耳が早いな」
「凉平から聞いた」
シュウジが目を逸らして軽く舌打ち。
「当然、鈴音にも届いているぞ。どうする気だ?」
「適当にかわしておく」
シュウジはさらに一拍を置いて。
「今回のが、もう近いからな。無駄なことはしたくねぇし……最低でもそれが終わるまでは……だ」
シュウジの、歯切れが悪い言い回し。
誠一郎はふむ、と視線を一度そらして軽く考え込み、
「勝てそうか?」
誠一郎の、淡白な口調だが心配する言葉に、シュウジはさぁ? と軽く両手を広げた。
「負けるときは負ける……でも、負けるわけには行かねぇ」
「……そうだな」
と――
「とぉりゃ!」
背後からそんな声が聞こえたと思えば、誠一郎はその声が肉薄する手前から既に半身になって回避していた。
一瞬前まで誠一郎の立っていた場所には、入れ替わるように昴が、腕を×の字に組んで、つんのめった姿で硬直している。
「…………」
「…………」
「…………」
何処から現れた? という言葉は愚問の中なのか、シュウジと誠一郎は、腕を×の字に組み、前屈みになった姿勢で動きを止めた昴へ、無言の視線を送る。
この帽子をかぶったベリーショートの少女は、少し前に、誠一郎がひなた時計に連れてきて知り合った、元家出少女である。
昴は静かに、前屈みになった体を起こして、こほんと咳払い。
「背後からのクロスチョップをかわすとは、相変わらず隙が無いな……」
なにやら勝ち誇る。どうやら誤魔化したつもりでいるらしい。
昴の姿は、学校のセーラー調の夏服に、缶バッチがべたべた張り付いたつば付き帽子、短いスカートからは体操服だろうか……スポーツ系のハーフパンツがはみ出ていた。
「だがしかし!」
昴がやたらと気合の入った声と共に、誠一郎へびしっと指を突き出す。
「ここは普通、分かっていてもわざと受けてびっくりする所だろう! かわされてばかりじゃ張り合いが無いだろ!」
シュウジがぽつりと。
「じゃれ合いたいってことかー?」
「やかましい!」
昴が手に持っていた、やたらとレトロな革鞄をシュウジへ投げるように振るう。
それをシュウジは、片腕を上げるだけの動作で革鞄を受け止めるが、受け止めた直後に顔をしかめた。
腕が金槌で殴られたかのように、じんと痛みが響いてくる。
「昴、少しスカートが短すぎないか?」
誠一郎が、気が付いたように視線を昴の足元へ向ける。表情が簡素な分、まったくの嫌らしさの見えない視線。
「ああ? これ?」
昴は下を向いて、自分のスカートをつまんでめくり上げた。
「中は履いてるから平気だ」
「見せるなよ……」
これはシュウジだった。やたらと痛みが響く腕を押さえてうめく。
「それじゃあただの腰ミノか何かだな」
「うっせえ、短くすると中が見えるから、中に履いてカバーしてるんだよ」
「本末転倒じゃねぇか?」
「ちび助が女子の服装に厳しいなんて以外だな」
これ以上は水掛け論にしかならないと判断してか、シュウジは答えなかった。まだ響いたような痛みのする腕をさする。
シュウジが気づいたように、話題を変えた。
「お前、その鞄に何が入ってるんだ?」
「ん?」
「やたら硬くて重かったぞ、今の」
「あー、お袋が高校の入学祝いに」
昴はそのレトロな革鞄を両手に持ち替え、
「夜なべして鉄板を仕込んでくれたオーダーメイドだ」
「…………」
昴の両親は二人とも元暴走族である。
「自分の娘に凶器持たせるなよ……」
何処にツッコんでいいのかわからず、『これがどうかしたのか?』と言う顔をする昴へ、シュウジはとりあえずそれだけを返した。
「ふむ、鉄板ならば、ある程度の盾にもなり、鞄と言う……持ち手がある物へ仕込んでおけば、周囲への意表を付くカモフラージュにもなり、使いやすく簡単に振り回せる……か」
そもそも、それを持って何と戦うのか不明なのだが、シュウジとは違って誠一郎は納得顔をする。
「結構重量あるんだけど、使いやすいんだぜ。昔お袋が入れてた鉄板と同じものが入ってるんだ」
昴の気の良い説明に、とりあえず親子二世代で鉄板鞄持ちなのかとか、使いやすいって事は鉄板入りの鞄を既にどこかで発揮させたのか、と言う疑問をシュウジは飲み込んだ。
昴が、突然にあっと思い出したように声をあげ、誠一郎の肩を掴む。
「ちび助、ちょっと誠一郎借りてくわ、いいか?」
「なんでセーイチを持っていく事に俺の許可が要るんだ……」
それを承諾の意ととらえたのか、昴は誠一郎の腕を引っ張りながら。
「今バーガー屋のマックスブラザーズで、兄貴マックス! ビックバンバーガーっていう超巨大なバーガー出してるんだよ」
「ふむ」
「みたくね? みたくね? 注文取らないとなかなかお目にかかれないんだよ! 食いきれなかったら分けようぜ!」
やたらと興奮してはしゃぐ昴。
おそらく、自分一人で入って注文するのも抵抗があり、注文したとしても食べきれるかどうかは明白であり、そこで都合良く誠一郎を見つけ、連れて行こうという流れだったのだろう。
昴の身につけた『人ごみだらけの中でも影の薄い誠一郎を見つけセンサー』はすさまじいものがあるな、とシュウジは内心で感じていた。
「興味があるな、行って見よう」
「おっけ」
「あー、じゃあ俺は店の仕事があるから」
シュウジが背を向けて、じゃあとばかりに手を上げる。
「んじゃーな、しっかりやれよー」
昴がシュウジへ手のひらをひらひらさせて別れを告げると、誠一郎の腕を引きながら小走りで、マックスブラザースというバーガー屋があるであろう方向へかけて行った。
誠一郎と昴が人ごみの中へ消えていくのを見送ってから、シュウジは歩を進める。
「…………」
なんてことは無い、ぶらぶらと歩くように前だけを向いて、だが一切の隙を見せない、そんな自然な動作。
「……まさか、ソーサリーメテオのアックス1に、じゃれついてくる子犬が居るとは以外ですな」
声は、シュウジのすぐ背後からだった。
「あの小娘は何者ですか?」
声の主は、シュウジに聞く。
「お前に話す義理はねぇな。興味ねぇし」
「それはおかしいでしょう?」
歩いているシュウジの背後に、ぴたりと付いてくる声が、鼻で笑い否定した。
「興味が無い? 無関心なわけがない。あなたが、尊敬できる者、愛して、愛してくれる、自分を慈しみ、甘えられて……絶対に自分を裏切らない者達の中で暮らしていたあなたが、
無関心でいられるわけがない。見ていて、内心は苦しく恋しかったのではありませんか?」
「知るか」
「愛と優しさの反対は無関心と申しますが、あなたが――」
「黙れ」
シュウジが立ち止まり、これ以上無いほどに鋭い視線を、振り向きざま背後へ向ける。
だがそこにはもう誰も居なく……少し離れたところに、たった今しがたすれ違ったばかりの、サラリーマンの背があっただけだった。
「………」
気配は既に無い。
少しだけ俯いて、シュウジはまた歩き出した。
5:
「コーヒーにホットサンドのお客様。お待たせしました」
軽食の乗った盆を片手に、ボックス席の前でくるりと回るシャオテン。明るいオレンジと白を主としたフリル付きふんわりスカートが優雅にふわりと広がる。
軽いステップで小回りしたのにもかかわらず、盆の上のコーヒーはまったく揺れていなかった。
「ごゆっくりどうぞ♪」
語尾に音符を付けつつ、にっこりと笑って会釈。続いてスマートに離脱。
シャオテンがすっすっとカウンターへ戻ってきたところを、凉平が呼び止めた。
「これ、五番テーブルな」
「はい、お任せ下さい」
シャオテンがにっこにっこと笑顔で、手に持っていたスチール製の盆を、凉平の前へ出す。と、チョコレートケーキと苺タルトの紅茶セットを、凉平が盆の上に乗っけた。
「あ、シャオちゃん。それ私が持ってくよ」
そのシャオテンのサービス心の溢れ出る姿を見ていた加奈子が、シャオテンの盆を受け取ろうと手を差し出す。
「いえいえ。先輩のお手を煩わせるわけには参りませんわ」
「でもシャオちゃん、私たちが出勤するまでずっと頑張ってくれてたんでしょ?」
やや心配気味に言う加奈子に対し、シャオテンは余裕の笑顔で、
「問題ありませんわ。これくらいの忙しさでへこたれる鍛え方はしておりませんので」
軽く頭を下げ、軽い足取りと笑顔を絶やさぬまま、シャオテンは五番テーブルへと向かう。
「適度に休憩とってねー」
加奈子がシャオテンの背中を見ながら。
「勤勉で真面目な後輩を持つと、気苦労が耐えませんね、凉平さん」
「そのうち追い越されるかもよ、先輩ちゃん」
「えっ!」
シャオテンの非の打ち所のまったく見えない接客姿に、加奈子が軽い戦慄を覚えた。
にやにやと笑う凉平。
「ライバル現る……ってねぇ。昴のやつも入れて、今度接客チーフでも決めてみようかな」
凉平のからかい言葉に、加奈子が顔を強張らせた。
「強敵が……ついに……」
そんな加奈子と凉平の、本気かどうかも分からない雑談をよそに、シャオテンは笑顔と同じくらいに自身を輝かせていた。
日が落ちて、ひなた時計は今日も慌しくも無事に閉まり、既に眠ったかのようにその身を落ち着かせていた、が――
「アナタもいい加減に接客をなさったらどうですか!」
それはシャオテンの、シュウジに対する一喝。
仕事を終えたひなた時計の今夜は賑やかだった。
凉平、加奈子、マスター、それに閉店後の特別なはからいで夕食を共にする柚紀。そして、シュウジへ怒鳴りつけるシャオテン。
「ずうううううっと食器洗い外掃除ばかりで、アナタはここの清掃員ではありませんの! わたくし達と同じ従業員ですのよ!」
まくし立てるシャオテンの前で、スツールに座って背中を向けながら、さらに頬杖をついてそっぽを向くシュウジ。つばが飛びそうなほど怒鳴りたてるシャオテンに対し、シュウジはまったく反省の色の見えないふてくされ顔をしていた。
「なんですかその態度は! マスターや凉平さんがいつまでも甘く見ていれば……加奈子先輩にどれだけ迷惑かければ気が済むんですの! どうしてそんなに接客を嫌がるんですの!」
さすがのシャオテンの剣幕に、普段はシュウジの叱り役である加奈子も、シャオテンをどうどうとなだめる。
「この際ですわ! 何が嫌なのかはっきり申してみなさい!」
「…………」
シュウジはぶぅたれた顔のまま、そっぽを向いてシャオテンと顔を合わせない。
凉平が沈黙を破るように、口を開く。
「まぁ、お前もお前で、いい加減に接客をやるようにしような」
凉平に続くように、凉平の隣に居た柚紀も言う。
「そうですよシュウジ君、忙しい時は加奈子ちゃん一人で回すか、昴ちゃんかシャオちゃんの、どちらかしか居ないんですよ」
昴は半ば無理に出てきている臨時の従業員であるため、実質加奈子の負担が一番であったりもする。
「周りをフォローできたりしてもらったりって、それが仕事仲間だと思いますよ」
第三者でもあり、長い間一人で花屋を切り盛りしていた田名木柚紀の言葉は、鶴の一声のように全員へ響き渡った。
この今のひなた時計に、まだまだ足りない協調の力。その必要性は、外から見ていた人物の指摘は、だれも反抗できない言葉でもある。
「……私なんか、たった一人で……仕事仲間……すら……うぅ……」
自分の地雷を自分で踏んでどんよりと俯く柚紀。
自爆して暗くなった柚紀を、隣にいた凉平がぽんぽんと背中を叩いて慰めた。
「わかったよ……」
ぶぅたれたままの顔だが、全員からの視線を浴びつつ、折れるシュウジ。
「ではちゃんと、明日からわたくし達と同じように、お客様の前へ出るようになさって下さいね」
ふん、と大きく鼻息を立てて、まだ機嫌の直らないシャオテンがシュウジを睨みつける。
まだ何か言い足りないとばかりに、シャオテンの顔から、不完全燃焼の様子がありありとしていた。
「シャオちゃん、そろそろ私達も帰りましょう」
鞄を持った加奈子が、シャオテンの肩に手を置いて呼ぶ。
「……そうですわね」
そこでようやく、大きなため息をついてシャオテンがシュウジから視線を離した。
「言ったからには、ちゃんとやってくれそうですし。夜も遅いですからこの辺にしておきますわ」
言ったからには、と言う所をやたらと強調するシャオテン。
まったく反省の色が見えない相手からの言葉では、明らかに信用できるところが無いが、しかし挑発するような念の押し方も感心できないと皆が思いつつ、それでも今回ばかりはシュウジに分が悪く、誰もが気まずい思いで黙りこくった。
「それじゃあ、お疲れ様でしたー」
「皆様、おやすみなさいませ」
加奈子とシャオテンが、カウベルを鳴らせて出て行く。
その二人が十分に店から離れたであろう頃合いを計って、凉平と柚紀が口を開いた。
「今回ばかりはお前が悪いぜ……さすがに今日は忙しかったしな」
「今度はちゃんとみんなで働きましょうね」
凉平と柚紀の、シュウジをなだめる言葉。
「ああ、わかったよ……」
そこで、柚紀がふと気づいた。
「マスターさん、ずっと黙ってましたね?」
カウンターの中で、静かに座っていたこの店のマスター、防人へ柚紀が問いかける。
マスターの重い口が、静かに開いた。
「俺まであいつらの味方をしてたたみ掛けたのなら、今後の店の空気に関わるだろう……それに、あいつらもウチの従業員ならば、シュウジもまた同じだ、どういう理由があろうとな。俺の立場ではどっちに加担する事もできん」
「ああ、なるほど」
従業員間の問題はその両者で、という持論なのらしい。柚紀は納得した顔でこくこくと頷く。
「客の前で露骨にそれを出したら……さすがに言わねばならんが、な」
「そうですね」
マスターの言葉で、うまくまとまったのか、誰もそれ以上に追求するものは居なかった。
全員夕食を取った後で、一息ついてから解散と言う時に、この悶着が起こった。この後はいつも通りに、適当に時間がつぶれて、というのがいつもだったが、さすがにこの直後で明るい話題に持っていけるものは誰も居なく、静けさを余韻としたまま、適度な流れで時間が流れていく。
と――
だだだだだだだだっだ――ずしゃぁぁぁぁ!
店内に居ても聞こえる激しい足音と、靴底を盛大に滑らせる摩擦音が戻ってきた。
ばんがらん! と出入り口のドアが爆発するように開く。
「ちょおおおおおおっとまてええええええええ!」
全速力で戻ってきたシャオテン。
「なんで! なんでですの! どうしてナチュラルにわたくしが店員なんてやってますの! どーしてどなたもツッコんでくれないんですか!」
全速力で戻ってきた上に、全力で声を張り上げるシャオテンが、ぜえはあと肩を揺らして皆を睨みつける。
「新しい子じゃないんですか?」
柚紀が小首をかしげて、頭にハテナマークを浮かべた。
「俺は面白かったからそのまま流してた」
これは凉平。
「流しすぎですわあああああ!」
ひとしきり叫んだシャオテンがぐったりとする。
「どーしてこのわたくしが、態度の悪い仕事仲間を責め立てるシーンに組み込まれなければならないんですの?」
誰に聞いたわけでもないが、シュウジがぽつりと。ただし背中を向けたままで。
「さあな? てかなんで自然に居たんだよ?」
「アナタがいるからよ!」
跳ねるように叫び、また突き刺す勢いでシャオテンがシュウジを指差す。
一点に集まるように、全員がシュウジへ注目した。
しん、と静まり返る店内。
シュウジを睨みつけるシャオテン。場の空気が先ほどとは違う色で固まっていく。
ぱたぱたと足音を立てて、店の外から加奈子も戻ってくるが、様変わりした店内の空気に入れず、遠巻きにして様子を見るかのように、開けっ放しのドアから覗き込んだ。
「いい加減、逃げ回るのはよして下さい!」
「…………」
「答えて! どうして裏切ったんですか! どうしてみんなの前から姿を消したんですか!」
シュウジは答えない、さらに続く沈黙に、シャオテンが唇を噛んで、明らかに胸のうちをぐつぐつと煮やしていた。
シャオテンは、突然にその勢いを――落とした。力が抜け落ちたように。
悲痛な顔で、シュウジへ突き出した指先を力なく下ろす。
気まずい空気が流れ、誰もが静まり返った中で、シャオテンは再び口を開いた。
「どうして何も答えないの……。私たちを裏切った理由くらい、見苦しくても言ったっていいじゃない……」
ぐずっと鼻をすする音がして、シャオテンの俯いた顔からぽろぽろとしずく涙が足元へ落ちた。
その場に居る全員に、その悲痛さが伝わりかねないほど、空気が張り詰めていった。
「私だって、憧れた。強くて美しかったアナタに憧れた、そのうちの一人で……皆、みんな……アナタが好きだった……本当に、本当にわたくしたちを裏切って、何とも思わない方だったんですか……それがアナタの本性だったのですか……」
「…………」
シャオテンからは、背を向けて座っているシュウジの表情は見えない。横へ向けば見えるであろう凉平は、あえて見ずにシュウジから顔を逸らしていた。
「どうして……そういうことが、できるんですか……」
シャオテンの悲痛な声を耳にしてもなお、シュウジは黙って身動き一つ立てなかった。
「わたくしも、シンファ様を……慕っていた一人、なんですよ……」
これ以上言う言葉が見つからないのか、シャオテンは嗚咽を漏らしながら、どうして……どうして、と繰り返し呟きながら泣き崩れる。
誰も答えられず、誰も口を開かず、シャオテンは泣き崩れたまま……。加奈子が傷心して呆けるシャオテンを外へ連れて行くまで、誰一人、身動きすら取れなかった――
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