WOLFS RAIN(後編)
「う……」
昴が、目が覚めると、くぐもった声しか出せなかった。
口を布で縛られている。身をよじると、重たい金属が擦れる音。
自分が背中にぴったりとくっついているドラム缶に、鎖で縛られている事が分かった。
霞がかかったような頭で、ここまでの経緯を思い出す――さほど時間はかからなかった。
単純に、男二人がかりで建物の間の路地に引っ張られた後、気絶させられたのだ。
昴が視線を足元から移すと、離れたところに、誠一郎と会った夜にからまれた男のうちの二人が、暇そうにしている。片方は携帯をいじっていて、もう片方は、そこらへんにでも転がっていたのだろう、鉄製のパイプを肩に担いでいた。
周囲は薄暗く、見るからにどこかの倉庫の中。外ではざあざあと雨が降っていた、この雨音で目が覚めたのだろう。
(捕まったのか)
まだ頭がはっきりしていないのか、突拍子も無くて自覚が足りないのか、危機感が沸いてこなかった。ぼうっとしている間に、話し声が聞こえたかもしれないが、何を話していたのか思い出せない。
と、紙袋が破裂するような音がした。それは寂れた扉の開閉音だと気付く。
「ノッちゃんおせーよ」
「わりーわりー」
イラついてた声に対する返事は、明らかに申し訳なさの欠片もない返事だったが、新しく現れたあの夜の三人目を、二人は咎める気はないようだった。
「んで、面白いもの手に入れたって、何よ?」
「俺達にこの女捜せってぐらいなら、それなりのものだよな?」
「ああ、これだ」
三人が寄り集まって、持ってきたアタッシュケースを中心にそれを覗き込む。
鍵は壊されていた。バールか何かで引っぺがされて壊された、銀色のケースだった。
中を開けると、透明のビニール袋に小分けされた、白いものが大量に詰まっている。
「これってひょっとして、あれか?」
「おうよ」
「まじで! やべーじゃん!」
「昨日よお、金に困って、深夜に一人で歩いてるおっさんを後ろから殴りつけて奪った、中開けたらこれだぜ!」
初めてこれを見た時の興奮がよみがえったのか、高揚とした声で。
「これってマジでアレだと思うんだよ。売りさばいたら大もうけだぜ」
「本物なん?」
「わかんね」
「わかんねえって……」
「本物だったら、これだけの量だとマジでハンパじゃねえよな」
「確かにそうだな……」
「しかし、本物だったら分かりやすいような……」
「まぁまぁ、でもよ」
数拍の沈黙。
会話が止まったのは――話していた三人が、こちらを見ていたからだ。
三人共々、確認を取るかのようにお互いの顔を見合わせ、
「コイツで試せばいいんじゃね?」
「――ッ!」
空気が変わり、昴にゾッとした寒気に襲われた。
昴の体が危機感で縛り上げられる。
「とりあえず、コイツで試して本物だったら大もうけ、別物でも、俺らに害はないだろ?」
「なるほどね」
「俺らでこの女を『お楽しみ』するってわけじゃなかったのか」
一人が嫌らしい笑みを浮かべる。それに連なって他の二人も似たような笑みを浮かべ。
「それもありに決まってんジャンよ」
「ごちになりまーす」
と、品の無いげらげら笑いが三者三様。要するに、自分達もよく知らない薬を昴に打って、その後で『遊び』し尽くす
三人から気味悪い笑みを向けられ、昴は体が壊れてしまうのではないかと言うほどに震えた。
誰か、誰か、と頭の中で警鐘のようにけたたましく、頭の中で鳴り響く。叫び声は出ない、出る余地もない。
ここには誰もいない。ひなた時計の人たちも、誠一郎も……。
声を出しても、誰にも届かない。
三人が昴へ寄ろうとしたとき。
乾いた破裂音がした。
ケースを持っていた男の、頭の横……側頭部から赤い液体が弾け飛び、それに連なって男が前のめりに倒れた。
ごとん、どさ……と、ケースと男が地面に落ちて、ケースの中の、ビニール袋に小分けされた白いそれが広がる。
「え?」
「お?」
状況が飲み込めない残りの二人が、倒れた仲間を見下ろしてきょとんとした。
昴が、乾いた音がした方へ向くと。黒い長身の男が……。
見た目は、黒いサラリーマンのようにも見える。筋張った細面の顔に、梅雨時期にもかかわらず黒いコート、黒い帽子、手には……拳銃。
拳銃を突き出し、その銃口から硝煙が出ていた。
「ガキが、調子に乗りやがって……」
重たい気配を従えたその低い声は、獣の唸る威嚇の吼えに思えた。
すぐに気付く。この男は、あの不良が持ってきたケースの本当の持ち主、だと。
「なんだてめ――}
連続の乾いた破裂音。
鉄パイプを持ったピアス男が三回、体を震わせるような痙攣をして、倒れる。
「ひ……」
残りの一人が、黒コートの男に睨まれ、上ずった悲鳴を上げて後退る。
「す、すんません……すんませんでした。ブツはお返ししますんで、みっ見逃してくださいい!」
黒コートの男の背後、唯一の出入り口へ、残った男が黒コートの男を大きく迂回して脱兎の如く走り出すが。
銃声。
残りの男が、側頭部を打ち抜かれ、さらに走った勢いのまま地面を滑りながら転がった。
黒コートの男は、それだけでは気が収まらなかったのか、さらにその背中へ残りの弾丸を叩き込む。
陰鬱な無表情の顔を乗せた黒コートの男。その様子で明らかに激怒している気配がうかがえた。
黒コートの男が、拳銃の弾倉を手早く取り替える。無駄の無い、それでいて極めて慣れた手つき。
それだけで素人目にも分かる――この黒コートの男は『そういう』人間なんだと。
そしてその拳銃を、ドラム缶に鎖で縛られて、動きの取れない昴へと向ける。
銃口の中を見せられた時、昴はまだ撃たれてもいないのにもかかわらず、死んだと錯覚した。
先ほどの黒コートの躊躇の無さから、銃をこちらに向けてから指を引くまでの時間的な差は、一瞬にも満たない時間であったはず。そのわずかに満たない間が、昴にとっては死ぬという事を錯覚するほどの間に引き伸ばされていた。
走馬灯、と呼べばいいのか……今までの思い出やら記憶が、まるで箱をひっくり返したかのように一瞬で思い出す。なだれ込んできたといってもいい。ほんの一瞬、そのような感覚にとらわれ。黒コートの男が引き金を引く指の動きを、スローモーションで行われる様子を、見た。
銃声。
だがその放たれた弾丸は、昴の隣にある、縛られている自分のとは別のドラム缶へ命中。甲高い一瞬の破壊音がして、弾丸はすぐ横で火花を散らせた。
黒コートの男の、拳銃を持った腕は、自分からきっかり九十度横を向いている。
ざり、と黒コートの男が革靴を地面と滑らせた。銃を持った方の腕が、何かに引っ張られている姿に見える。
――背後の、白く曇った窓から、ぴかりと雷光が瞬く。
その光で見えた。
黒コートの引っ張られている腕の先から、細く光る糸が。
黒コートの男の拳銃を持った腕に、糸が巻き付いて、それが引っ張っているのだ。
そしてその先には。
別の黒い人影が、糸を引っ張っていた。
――ごうん、と外から雷の咆哮が、雷光に遅れて倉庫内に響き渡った。
黒いコートの男は違う、完全に全身が真っ黒の人物だった。男と予想できるが、性別を判断できる要素が何処にもない。
ただひたすらに黒い、目を凝らせば、それが艶消し黒のコンバットスーツだというのが分かり、そして顔には仮面……凹凸と光沢が無い代わりに、奇妙な紋様か模様のような、掘り込みのある無機質な仮面を着けていた。
裂けて開いたような場所が二つ、そこから刃のような眼が覗いている――
銃声。黒コートの男が黒仮面(の人物)へ、腕をひっぱらられたまま発砲した。
甲高い音がして、仮面から火花が散る。それに連なって、黒仮面は首を反らせた。それに連なって黒コートの男の腕を引っ張っていた糸も緩まり、黒コートの男が糸から逃れた。
黒コートの男は黒仮面の不気味さにも臆す事無く、むしろ仮面の人物へ向かって突進する。
仮面の男が肩透かしをくらい、黒コートの男の勢いをつけた体当たりにぶち当たる。
黒い二人が衝突し、仮面の人物の方が吹き飛んだ。
仮面の人物が地面を蹴って、体勢の悪いまま横へ転がる。
その後を、黒コートの男から放たれる銃声と火花の連続が追走。
銃声が不意に止まった。弾切れ。
黒コートの男の、無駄のない弾倉の取替え。
だがそのわずかともいえる一瞬の間に、仮面の人物が素早く立ち上がり、一気に黒コートの男へと疾走。
仮面の人物が腰に手を回して、一気に振った。手には分厚く大きい、鉈にも思えるナイフが――。
その刃を、黒コートの男は身をよじって回避。
仮面の人物が、さらに追撃で大型ナイフを連続で振る。
接近戦では黒コートの男には分が悪い様子。腕を縮めた格好で拳銃を撃ち、仮面の人物から距離を取ろうとする。
黒コートの男の狙い通りに、お互いに距離が出来るが、それも一瞬の事。仮面の人物は身を低くする、半身でかわす、黒コートの男の真横へ入り込むなど、俊敏な動きで食らいつく。
――獣。
仮面の男の動きはまさにそれだった。鋭く素早い。それでいて不規則で的確な動き。静止している瞬間など無く、黒い獣……あるいは黒い旋風ともいえる動きだ。
銃を持っている黒コートの男の方が、逆に狩り(ハント)をされているかのようにも思える。
長く思えたその短い交戦にも、終わりが来た。
低い姿勢から飛び掛るように、仮面の人物が大型ナイフを黒コートの男目掛けて突く。
それに対し、黒コートの男は反応し切れなかったのか、動かなかった。ナイフが深々と黒コートの男の左肩へ突き刺さる。
だが黒コートの男はそれを意とも介さず――肉を斬らせて骨を斬るつもりだったのだろう……密着した状態で手に持っていた銃を全弾、仮面の人物の腹へを打ち込んだ。
左肩を斬らせたためだろう、左手に持っていた銃からの発砲の反動で激痛が走っているらしく、初めてコートの男の顔が苦悶の表情に歪んだ。
さらに、無事だった右の手から、一回り大きい銃を取り出して、さらに仮面の人物の腹へ胸へ、これも撃ち出す。
仮面の人物を密着状態から引き剥がしてもなお、新たに取り出した銃を撃ち尽くすまでコートの男はその弾丸を撃ち続けた。
銃が弾丸を吐き終わり、仮面の人物が仰向けにどさりと倒れる。
「…………」
初めて見た……壮絶な殺し合い。
勝敗は黒コートの男――舌打ちがした。黒コートの男の口から鳴ったものだ。
勝ったにもかかわらず、黒コートの男から苦渋の表情が張り付いている。肩に突き刺さった大型ナイフを引き抜き、それから苦渋の顔から激怒の表情へ移り変わり、昴へ向いた。
(……殺される!)
直感で思った。一連のことが、まるで自分を殺す権利を奪い合うような、そんな風にも思えたからだ。
黒コートの男が昴を見て歩み寄ろうとしたとき――
背後の、倒れたはずの仮面の人物が跳ねるように起き上がった。
「ッ!」
これには黒コートの男も驚く。
仮面の人物は、銃弾を浴びせるだけ浴びせられたにもかかわらず、そのダメージを思わせないような、俊敏な動きと勢いで、手に持った糸を素早く黒コートの男の首へ巻きつけると、背中を合わせて黒コートの男を背負うように持ち上げた。
前屈みになった仮面の人物の背中の上で、黒コートの男が仰け反ってばたばたともがく。仮面の男は、コートの男を背負ったまま、両手に持った糸で黒コートの男の首を締め上げ続ける。
しばらくその状態が続いて――黒コートの男ががくり、と事切れた。
仮面の人物が起き上がり、黒コートの男の死体を落とす。
コートの男が勝ったかに思えたが、仮面の人物が逆転勝ちになった。
仮面の人物が、死体のコートから拳銃と新しい弾倉を取り出して、装填する、そして昴へ向かい――
(もう、誰でもいい……)
ここから逃れようとする考えは、どうあっても浮かばなかった。
不良を銃殺したコートの男、そしてコートの男を倒した仮面の殺し屋。自分は身動きすら取れない。
どうあっても逃れられない。
すっと、せめて目を閉じる。それだけでもしたかった。
思ったとおりに拳銃をこちらへ向けて――発砲。
ばきんっ! と甲高い音を立てて、突然に鎖の縛られている圧迫感から開放された、それに気付いて目を開ける。
(自由に、なった……!)
一瞬呆けて、仮面の人物方へと顔を向ける、と――仮面の人物が、胸を押さえて片膝を突いていた。
体の前面に食らった銃弾のダメージが、やはりあったのだろう。狙いが定まらず。幸か不幸か、昴を縛っていた鎖に命中。昴を開放するきっかけになった。
胸を押さえたまま、それでも、こちらに銃口を向けている仮面の人物。
さらに発砲。
昴の回りそこら中に、跳弾の火花が飛び散る。
思うよりも先に、足が動いていた。
自由になった方だが、逃げて逃げて――
その仮面の人物の姿に脇目も振らず、昴は出口へと弾けるように走り出し、口を塞いでいた猿轡を放り投げ、その場から脱出した。
7:
「なかなかのお芝居だったな、治癒の能力者様よ」
と、セイバー2こと凉平がさらに「この大根役者め」と付け足す。
凉平はドラム缶の上に胡坐をかいて、膝に白い粉がみっちり詰まったアタッシュケースを膝に置いて座っていた。
「俺の出番がなかったな」
これはアックス2の名を持ったシュウジだった。
そしてアックス1たる誠一郎がふむ、とため息にも似た声を漏らす。
「こぉの馬鹿が!」
誠一郎の背後から大声を上げた人物が、そのまま誠一郎の尻を蹴り飛ばし、誠一郎は思いっきり吹っ飛んだ。
突然の事で、誠一郎の隣にいたシュウジがびくり、と驚いている。
「待機してろと言ったはずだろう! この馬鹿め!」
現れた最後の一人は、部隊名(チーム)〈アックス〉のリーダー。エア=M(マスター)=ダークサイズ
――村雲鈴音だった。
無造作に蹴り飛ばされた誠一郎の姿を見て、凉平が肩をすくめる。
〈アックス〉ではなく、〈セイバー〉に属している凉平の、自分には関係ないから八つ当たりしないでくれと言うジェスチャー。
むくり、と黒いコンバットスーツに身を包み、仮面を着けたままの誠一郎が起き上がる。
「やはり、痛いものは痛い」
「黙れ!」
追撃とばかりに、鈴音がげしげしと誠一郎を踏みつける。
その間に、シュウジが凉平の隣へ移動して、こっそりと凉平へ耳打ち。
「これでもさ、鈴姉ぇも飛び出す瞬間だったんだぜ」
「先を起こされたのか」
「何か言ったかおまえらっ!」
鈴音の剣幕に、凉平とシュウジがびくりとして、同時に首をぶんぶんと横に振る。
鈴音がふんと荒い鼻息をたてて。
「……そろそろお前も起きたらどうだ?」
鈴音の、誠一郎によって殺された黒コート男に向けての一言だった。
しんと静まり返り、しばし待つが、黒コートの男の体は動かない。
凉平が付け足した。
「寺崎荒道。年齢不詳、ドラッグバイヤー。主に麻薬を捌いているが、今回のこれは麻薬じゃない……これは改造人間専用の安定剤だ。精神安定、依存性もある、麻薬としても使えるが……一番の使用目的は、体を多生物と混ぜ合わせた、その不安定な肉体を心身共に安定させるために使用される……特に、これは生物兵器研究においてはトップに立つ裏会社ラストクロス製の上物。先日改造手術を施したばかりのお前の体には、そろそろ欲しくて仕方がなくなっているんじゃないか?」
そして凉平は最後に。
「この程度で死ぬほど、やわな体にしてもらったわけじゃ……ねえよな?」
ず……
地面のすれる音がして、黒コートの男……寺崎の腕が動いた。
さらに、背中が膨らむように盛り上がっていく。
背中の服が裂け、そこから二つ、ムカデが現れた。
「何系統の手術か分からなかったが、エクステンション系の合成改造手術だったか」
凉平がはあ、とため息を漏らす。
立ち上がる寺崎の背中から現れたのは、昆虫の巨大なムカデだった。
「エクステンションでも、結構値の張ったものみたいだな……あん?」
凉平の横にいたシュウジが、あからさまに気持ちの悪い顔をしている。それに気付いた凉平はあっけらかんと
「お前、改造人間(キメラマン)を見るの初めてか?」
「あ、ああ……これはちょっと」
「昆虫タイプをあそこまで大きくしてから合成するのは、結構の値が要るんだぜ。他にも、体全体を変化させるクラスチェンジタイプもある」
「…………」
あまりのショッキングなものを見て「ありえねえ……」とシュウジが小さく呟いた。
「ま、やるかね」
凉平が膝に置いていたアタッシュケースを脇にどけ、ドラム缶から降りる。
それを合図に、鈴音が後方へ下がり、凉平シュウジ、誠一郎が寺崎の前へ出た。
寺崎が、首に巻きついている鋼線を引きちぎり、裂けた大口で満面の、毒々しい笑みを作った。
8:
外では途中から雨がやんで、むっとするほどの湿気立っていた。
時間は分からない。ひなた時計に逃げ帰ろうかと思って、しばらく走り続けたが、あの仮面の殺し屋が追ってきているかもしれないと考えると、行くに行けなかった。
行き着いた先は、公園。
あの日に、誠一郎と出会った、あの公園だ。
あの時、ナイフを突きつけて脅したにもかかわらず、そんな自分の相手をしてくれた、この場所。
屋根のついたベンチにうずくまり、じっとする。
ひょっとしたら、どこからかひょっこりと誠一郎が現れてくれるかもしれない。
そういった、自分でも自覚できる甘い希望に、すがりつきたい気持ちで仕方が無かった。
結局、自分は何なんだ……。
一人でやって行こうと家を出たのにもかかわらずに、優しくされた人間に甘えて、頼って、今もすがり付こうとして、現れるはずが無いと思いながら、現れてくれる事を望んで、ここで何もせずにじっとしている。
――自分は、すごく都合の良い考えをした最低な人間だ。
こうしていて、何時間立っただろうか……空腹で、疲れきって、立ち上がる気力も無くて……来てほしいと思いながらも、本当に誠一郎がやってきたらどうすればいいのかも、
――分からない。
本当は来て欲しくないのかもしれない……、自分がどうしようもなくて、ひょっとしたらと言う甘く淡い希望を思いついて、その腐れ甘い希望も、来てくれない事で逆に裏切って欲しいのかも知れない。
草むらの虫鳴きが、疲れきった頭をくしゃくしゃにさせつつも、どこか心地よい音色だった。
――来てほしい、でも来て欲しくない。
自分でも、どうすればいいのか分からない……本当にそうなっても、ならなくても、どうすればいいのか分からない。
居場所なんて、何処にもない。……自分で捨てた。
これからどうしようか。
だんだんと落ち着いてきて……眠気がやってきて……
強いマグライトの光と声にまた呼び戻された。
「君、ここで何をしているのかね?」
「やっと来たようだな」
「ああ……」
昴の座っているベンチからは死角になる、やや離れた場所で、凉平の声に誠一郎が呟いた。
「心配して見張るくらいなら、行ってやればいいのにな」
「俺はお前ほど甘くない」
「はいはい……」
凉平が肩をすくめ、さらに凉平の隣でしゃがんでいたシュウジがぽつりとこぼす。
「どっちもどっちだろ、警察に連絡入れて補導させたんだからな」
シュウジの悪態を、凉平が苦笑してなだめる。
「居場所があるのなら、その帰るべき場所へ帰るものだ」
ベンチでうずくまっていた昴を、今二人の警官が連れて行った。
「要は、逃げる意思より、そこに立ち続けようという意思だ」
誠一郎は、あの場面で昴は自分に立ち向かっては来ないだろうと、確信があったのか
凉平が小声で、誠一郎に尋ねた。
「もし、あそこで昴が立ち向かってきたら、お前どうしてた?」
誠一郎の返答は、すぐに返ってきた。
「もしそうなっていれば、そもそもあそこまで甘えたがりでもなければ、家出すらしていないだろう?」
「……ごもっとも」
凉平が、降参とばかりに肩をすくめた。
9:
「…………」
「…………」
誠一郎が向き直って、手元にあったコーヒーカップへ指をかけた。
「何か言えよ!」
昴が沈黙に耐えられずに叫ぶ。
昴の顔はひどいものだった。青く腫れた箇所はもちろんの事、顔中ガーゼと絆創膏だらけだ。
「どうかしたのか?」
「見れば分かるだろ、あああっ!」
叫びつつ、顔の痛みに苦悶してうずくまる昴。しばらく痛みがおさまるのを待って、また昴が起き上がる。
「俺の親父とお袋って、両方とも暴走族だったって、言ったっけ?」
「いいや」
誠一郎が簡素に答える。
昴がひなた時計のスツール、誠一郎の隣に座って、続ける。
「あの後、警察に補導されちまってな、んでもって帰ったら鬼神みたいな顔してぼっこぼこにされた」
「災難だったな」
「ああ、お袋なんて『アンタが悪いんだからね、もっとシメられときな』って茶をすすりながら、マウントポジションで殴られ続ける娘を見てるんだぜ? 二人そろってドSもいいとこだよ、ほんと……」
その殴られている間の事でも思い出したのか、青い顔のままため息を突く昴。
「やられっぱなしになってるのがだんだんムカついてきてさ、殴り返してやったよ。拳に無精ひげが刺さって地味に痛かったぜ、ったく……」
「ほう、やり返したのか」
「おうよ、やり返してやったら、お袋が目を丸くして『アンタもやるときはやるようになったのね』だってさ」
誠一郎の感心した声に気を良くしたのか、昴はうって変わってけらけらと笑った(その後で、すぐに顔の痛みで表情を歪める)
マスターがやってきて、昴の横にオレンジジュースをそっと置いた。
「口の中切れてるのに柑橘系かよ!」
「子供にはそれで十分だ」
マスターが去り際にぽつりと告げて去っていった。
不満の顔をしつつも、ストローで慎重にオレンジジュースを吸い上げる。
昴は今度はばつが悪そうな顔をして。
「んで……さ、この間のことで……助けてもらった奴らがいる、って話したら……その、えと……礼の一つくらいして来い! って、朝っぱらから追い出された……」
「ふむ」
「学校の方も、お袋が話を通しておいてくれてて、放課後に補習と再テストすれば単位も大丈夫だって、事にもなって、明後日から行くようにする……」
「それは良かった、地獄に仏だな」
「地獄はまだまだ続きそうだけど……まぁそんなところだ」
そこで話が途切れるが、まだ何か言いたそうにもごもごと、しばらく昴は聞こえないほどに「鈍感」「気付け」など聞こえないような呟きをしてから、誠一郎を横目に見て。
「あり、がと……な」
これもまた、聞こえているのかどうかと不安になるような小声だったが。
「ああ」
誠一郎は、分かるか分からないかぐらいの、ほんの少しだけ口の端を上げて返事をした。
梅雨が終わるにはまだ時間がかかりそうだったが、外は夏を思わせる日差しが、少しづつ強くなるように輝き始めていた。
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