WOLFS RAIN(中編)
4:
「……」
「……」
誰だこいつは?
昴はぼんやりとした頭でさらにぼんやりと思う。
外では朝日の中で、雀がぱたぱたと、降り立ったり飛び上がったりを繰り返している様子……差してきた影で分かる。しかし目の前の奴はまったく分からなかった。
女。だが昨日の酒に酔って「たぬきちがああう!」と一心不乱に暴れた女とは違う。年は大体自分と同じくらい。輪ゴムで髪が子供っぽく左右にまとめられいる。
目が大きいのが印象的で、こちらを何か探るような目で上から覗きこんでいた。
その女の子は、うんと一度大きく頷くと「悪くないわね」と小さく呟いて離れていく。
寝直そう、と思って寝返りを打ちつつ、かぶっていた毛布を頭まで引き寄せようとして、
――それが無かった。
「ぅあ?」
毛布を探して辺りを探すと、こちらを覗きこんでいた女の子が、遠ざかって行きながら手元で毛布をたたんでいるのが見える。
つまりのところ、寝ぼけている間に毛布を持って行かれたのだと気付く。
舌打ちをして仕方なく起き上がると、思った通りに外は朝だった。
視線を移して時計を見ると、八時をほんの少し過ぎた辺りだ。
ここはひなた時計という喫茶店。
行くあてがなく、昴は誠一郎にここで晩御飯をもらった後、そのまま泊めてもらったのだった……。
ふいに、カウンター席のほうを見やる。
ここの店のマスターこと、防人と言う大男が、昨日とまったく同じ場所に立っていて、コーヒー豆を挽いていた。ほのかに香ばしいコーヒー豆の香りが鼻をくすぐる。
すぐ後ろの壁のように開いた窓には、まだ薄いブラインドがかかっていて、朝日の中で影絵が踊っていた。
「顔洗って歯、磨いてこいよ。朝飯もあっから早く支度してこい」
声の主は意外と近くに居た。軽い調子の声でありながら、どこか柔らかかった声は、不意の呼びかけながらも驚く事はなかった。
亜麻色の長髪を後頭部でくくった男は、たしか凉平と言う名前だったと昴は思い出す。
「おはようさんー」
昴は気付かないが、とんでもなく呆けた顔でキョロキョロしていた。それを見た凉平が声をかけつつも、くすりと笑って挨拶をする。
まったく関係ない事だが、その凉平という男の笑みは、どこか悪戯好きな笑い方にも見えた。
「おはようっす……」
昴は重たい声で返し……大あくび。
「起きんかい」
涼平はそう言いつつも大して怒ってはいない、軽口のような口調。さらに昴の頭を指先で小突く。
昴の頭を小突いた後で、さっさと昴から離れる凉平。見れば、テーブルを拭く布巾が握られていて、そのまま目で追っていると、彼は昴に背を向けたまま、手近なテーブルを簡単に手早く掃除し始めた。
「……」
そうしてようやく、昴はこの店が開店準備をしているのだと気付き、さらに自分がこの中で置いてけぼりになっている事に、続けて気付いた。
寝ぼけてぼぅっとしている自分――店はとっくに起床して動き回っていた。
やはり泊めてもらうんじゃなかったと、昴は後悔した。
これではまるで、自分が取り残されたというよりも、『この中の異物』のようだ――
ふと、昴は誠一郎の姿が無い、と思ってしまった。
……当たり前だった。なぜなら、彼はここの店員ではなく馴染みの客なのだから、開店前に現れるわけが無い。何故一瞬だけでも探してしまったのだろうか?
――さっさとここを出よう、と思ったとき、
「あなたまだそこにいたの?」
店の奥から、先ほど昴の寝顔を見ていた女の子が、ぱたぱたと足音を立てて戻ってきた。
「ほらこっち、早く準備しなさい」
そう言いながら女の子は、こちらへ駆け寄り、さらに手を引っ張って昴をソファーから引き剥がす。
「凉平さん、この子は任せてくださいね」
「おう、加奈子ちゃんよろしくねー」
加奈子ちゃんと呼ばれた女の子は、昴の背中を押して奥へ連れ込み、洗顔と歯を磨かせ、朝食を取らせた後で、
昴に悲鳴を上げさせた。
誠一郎がひなた時計のカウベルを鳴らして入ってきた。
「おはよさん、良かったな。一番乗りで」
入って、珍しく最初に声をかけてきたのは、シュウジだった。
「ん?」
シュウジの意味深な言葉と、どこか笑いをこらえるニヤついた笑みに、誠一郎は疑問符を浮かべる。
店はもう開店していて、天井からはゆったりとしたピアノジャズ曲が流れつつも、奥で何か騒がしい様子であった。
片方は加奈子、もう片方は昴の声……両者のやり取りであろう「馬鹿! やめろ押すな」「さっさと出なさい」「何でこんな格好しなきゃならないんだ」「いいからさっさと出なさい!」という問答が聞こえ、押し出されたような勢いで昴がつんのめって現れた。
「誠一郎っ!」
昴が誠一郎に気付いて、服を着ているのに胸元と膝の辺りを両手で隠す。
そして昴の顔が赤い。
「おー、似合うじゃん」
近くに居た凉平が軽い口笛を吹いて、昴が「うるせえ!」と叫び返した。
顔を赤らめた彼女の格好は、昨夜のボーイッシュな格好とは違い、明るいオレンジと白を主としたフリル付きのふんわりスカート――ウェイトレス姿だった。
「ひなた時計女性店員専用制服バージョンⅡβでございまーす」
昴の後ろにいた加奈子が早口で言いつつも、語尾にしっかりと♪マークがつきそうな声で紹介した。
「ならそっちはバージョンαか」
誠一郎が聞くと、加奈子が「そうでーっす」と明るく肯定。
加奈子の方はワイシャツと小さい蝶ネクタイに、ダーク系のタイトスカートだった。
「なるほど」
誠一郎がマスターへちらりとと視線を移すと、マスターは小さく咳払いをして、そそくさと背を向けた。
「……マスターが用意したのか?」
「違う」
マスターが、どこか固くなさの見える気配を出して即答した。
誠一郎が、ちらりと凉平を横目で見る。
「俺は共犯しただけさ」
「ほう」
こちらに視線が来ることを予期していたのだろう、凉平はあっさりと自白して、首謀者が誰なのかを視線で促した。
「少し前に届いた新しい制服なんですよ。こっちの方は可愛すぎて私じゃ着れなくって」
首謀者の加奈子が、昴の両肩をがっちりと掴んで、さらに誠一郎の前へ昴を突き出す。
「かわいいって言うな! 俺にはこういうのは似合わないんだよ!」
昴が腕を振って加奈子を払いのけようとして、丈の短いスカートが軽く浮き上がった。
昴はあわててスカートを押さえる。
ニヤニヤと凉平と加奈子が似たような笑みでその初々しい仕種を眺めていた。
「せっ!」
昴が堰を切ったように上ずった声を出した。
「ん?」
「せえっいちろーは」
恥ずかしさで発音すら整っていない昴。
「俺のこういう格好、似合わ、ないと思うよな?」
誠一郎は数秒黙考して。
「そうは思わないが?」
誠一郎に助け舟をもらおうとした昴が「え?」に濁音がつきそうな声を漏らす。
「女の子がそういった格好をしても、何の不思議も無いと思う」
昴が誠一郎の声を聞いて、「そうか……」と小さく呟いて顔を伏せた。
「ちゃんと可愛いって言ってやればー?」
箒とちりとりを持ったシュウジが、そう言いながら通り過ぎていく。
昴は火のついたようにシュウジを蹴り飛ばし……ミニスカートが思いっきり浮き上がった。
「ほらほら、誠一郎さんが見てるわよ~」
加奈子のからかい口調に、昴が歯軋りを立てる。
「そういう悪そうな顔しないの、接客なんだからね? スマイルスマイル。ちゃんと一宿一飯の恩義を返しなさい」
昴が、カウンター席の隅側にいる誠一郎へ目をやると、彼はまだそこにいた。
今は朝定食を黙々と食べている誠一郎だが、昴はいつこちらを見てくるか気が気でない。
「はいこれ、三番テーブル。窓際の奥のほうの席ね」
加奈子が昴へ、コーヒーとホットサンドの乗った盆を渡して、行って来いと命じる。
昴が慣れないミニスカートを気にしながら三番テーブルへメニューを運び、男性客の前へコーヒを置くと、置き方に力が入りすぎたためか軽くコーヒーを跳ねさせてしまった。
男性客があからさまに嫌な顔をして昴を見る。
睨み返してやろうかと昴は反射的に思うが、後ろで加奈子が咳払いをしたのに気付く。
昴は一宿一飯の恩義やら怒鳴られる事もそうだが、ここで問題を起こしてしまって、それを誠一郎に見られるのを良しとは、なぜか思えず……恥を忍んで謝る。
赤くなった顔をせめて見られぬよう、盆で顔を控えめに隠しつつ、
「ごめんな、さい……。あの、おいしかったら……またきてく、ださい」
そして昴は言うだけいうと、後ろのスカートを押さえつつ、早足で加奈子の元へ戻った。
「……これで文句は無いだろ?」
うんざり気味で昴が加奈子に言うと、加奈子はいかにも先輩面で腕を組んでうんうんと頷き。
「良いツンデレであった」
と、ぐっと親指を立てて見せた。
「え?」
何のことかわからず、昴がきょとんとする。
「ナイスツンデレー」
昴の後ろを、そう言いながら涼平が通り過ぎる。昴からは見えないが、凉平が親指をぐっと立てていた。
「グッジョブツンデレ」
いつの間にか近くに寄っていたシュウジが、親指を立ててしてやったり笑みを浮かべている。
昴は先ほどの一連の自分を思い返し……。
「誰がだああああああああああああああっ!」
朝も早々に、ひなた時計に昴の絶叫が響き渡った。
その後も、必要以上にスカートを気にする仕草や歩き方、顔を赤らめつつ無作法から気恥ずかしさを含んだ言葉などなどで、男性客から妙な好感を暗に持たれ続ける昴だった。
5:
「今日は新しい子お願い」
「ここはクラブじゃないぞ」
「知ってるわ、相変わらずつまんないわね」
「お前を楽しませる店でもない」
「あー、そ」
日も十分に落ちた頃、マスターと鈴音がカウンターで会話の中。
「うおっ?」
軽い叫びに疑問系が混じった声で昴が驚く。
鈴音の横に、小さい男の子。昴はその男の子を見て驚いたのだ。
昴が小さく「可愛い……」と呟くのを、鈴音は見逃さなかった。
「でしょ! やっぱり可愛いでしょ! ウチのスウィートプリンスプリティプリンの灯夜は!」
「自分の子にわけのわからない肩書きをつけるな」
鈴音の横でちょこんとスツールに座る男の子、灯夜は白と黄色を主に彩られた「王子様」衣装を着込んでいた。
灯夜は昴の視線に気付いて向くと、頭に乗っかった紙製の王冠を落としつつ「こんにちは」と、ぺこりとお辞儀をする。
「灯夜君、きょうはカッコいいお洋服ですねー!」
昴の横から加奈子が現れると、灯夜へ寄っていく。
「おたのしみ会で今度王子様の役をやるのよねー」
子供よりも嬉々とした表情で、加奈子の、灯夜を褒める言葉に気を良くした鈴音がさらに盛り上がる。
マスターが「確か子供全員が王子様お姫様の役だったな」と呟くが、明らかに鈴音の耳には入っていない。
鈴音は加奈子と、はしゃぐような擬音が聞こえてきそうな話で盛り上がり、その端々にマスターが冷静なツッコミを入れて――
「…………」
それを見ていた昴は、とても言い伝えられないものが、胸の中にじわりじわりと湧き出る感覚を覚えた。
何故、こんな気分に突然なったのかは、昴には分からない。
はっとなって、ここは自分の居場所じゃないと、そう思い出してしまったのだ。
「…………」
遠巻きに、輪の中に入るわけでもなく。昴は眺めるだけ。
距離を置かれているわけでも、嫌厭されているわけでもない。嫌われているわけでもない。
気持ちが、じわじわと胸の中で現れては、心細くざわついている。
まただ。またこんな感覚になってしまう。
ふと気が付くとすぐ横に誠一郎がいた。
「あ……」
まったく気付かなかったらしい。
「お、おう……」
気持ちの地続きで、元気の出ない返事をしてしまう昴。
「どうした?」
昴の様子を察した誠一郎が尋ねた。
昴は正面にいた三人(と子供一人)へ向き直って。
「なんかさ、俺やっぱり、この場所は場違いみたいだなぁ……ってさ」
「どうしてそう思う?」
理由は分からない。どうしてそう思うのかすら、昴には分からなかった。
昴は答えられない。
「ふむ」
昴が黙していると、表情から読み取ったのか、誠一郎が勝手に考え始めた。
「居場所と言うのは、自分で作るものだと言う格好の良い言葉がある」
昴が、堅苦しく切り出した誠一郎を見上げる。
「だが、それはとても大変な事で、実際は誰かが既に場所を作ってあって、その中に入る事の方が多い。当然途中から入った者は、最初は分からない事が多い。それは当たり前だ」
昴は誠一郎の無表情な顔を見る。誠一郎はその視線に気付いてはいるものの、言葉を選ぶように、しばらく黙考してから続けた。
「自分が孤立している、取り残されているなんて思うのは、きっと自分だけの……そう、気のせいだ」
そして最後に。
「あえて、『形』を作って受け入れてもらいたい、受け入れたいのなら……時間をかけて自分から新しい場所を知っていけばいい、もうお前は、受け入れてもらっているのだからな」
誠一郎は「それとコーヒーだ」と言って昴の前へ出て、自然に灯夜の隣へ座った(時間差で、加奈子にいつの間に現れたのか驚かれる)
それらを十分に眺めて、昴が苦笑交じりに、大きくため息を吐き出した。
「あいつ、真面目な顔して本当は天然なのか」
誠一郎の不思議な空気の理由が、ようやく分かった。
こいつの正体は、真面目な天然人間なのだ。
つくづく変な奴と係わり合いになってしまったと、皮肉交じりに自分を笑う昴。
「…………」
多少、的がズレた誠一郎の言葉だったが、昴はどこか、胸のうちで心地良さの混じる感覚がした。
その感覚の原因は分からない。だが誠一郎は、今の今まで隅っこで座っていただけなのに、しっかりとこちらを見ていた――のは確かなようだ。
誠一郎も混ざって、さらににぎやかになるその中へ、
昴は意を込めて、文字通り歩み入った。
数日の間、昴は無理矢理に制服を着せられつつも、ひなた時計で寝泊りをして過ごし、そして店の定休日になった。
「世話になった」
昴はありがとなと、さらに付け足す。
昴の格好は、ここで着させられたウェイトレス姿ではなく、ボーイッシュな服装に戻っていた。
そしてここでの最後の仕事、買出し作業が終わって、それでこの『ひなた時計』を出る事にしていた。
「誠一郎の奴、本当に呼ばなくても良かったのか?」
スツールに座る凉平が聞くが、昴は首を横に振った。
「ああ、また来ればどうせいるんだろう?」
皮肉が混じる昴の言葉に、凉平が「まあな」と苦笑。
「昴」
カウンターの中にいたマスターが昴を呼びかけ、二つ折りにした封筒を昴へ放り投げた。
「?」
昴はとっさの事に、その封筒を取り落としそうになるが、何とか受け取る。
ジャラッという金属が擦れる音がした。
「給料だ」
「え?」
マスターの代わりに、凉平が首をすくめる。
「流石に連日フル出勤で、報酬が三食寝泊りだけじゃあ割に合わないだろ?」
さらにマスターが付け足す。
「三食宿代分は引いてある、小遣い程度しか残っていないが、正当な報酬だ」
確かに薄っぺらい上に、小銭が音を鳴らす封筒。だが昴は「さんきゅ」と軽く口元を横に伸ばして、封筒を上着の中に入れた。
「これからどーすんだ」
買い出して来た食材を奥に運んで、戻ってきたシュウジが尋ねる。
「さあな、どうせ行く所なんてはっきりしてないし」
「んじゃあ明日辺り戻ってくる方に一票」
「あんなお子様服なんて二度と着るか馬鹿」
昴のいかにも嫌そうな言葉に、シュウジがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。
「んじゃ、世話になったよ。またな」
昴は踵を返して、ひなた時計を後にした。
6:
さて、これからどうしようか……
店を出たとたん、昴は手持ち無沙汰で仕方がなくなっていた。
かといって、やっぱり……なんて一時間もたたないうちに戻れるわけが無い。
いっそ旅にでも出てみるか? とそんな考えも沸いてくる。
学校もほったらかしのまま家を出た。当然誰にも言っていない。友達もいるにはいるが、どれも身を預けるほどの中でも、長時間居座れる相手でもない。
出た理由なんて、くだらないと思われるだろう。だが、幾年と積りに積もったものが今までにあって、それがこれからも続くのかと気づき……それがものすごく嫌だったのだ。
――今すぐにでも、動かなければと思うほどに。
不意に、肩がぶつかって、我に返る。
「おっとすまね」
軽く声を投げてすれ違うと、肩を掴まれた。
気がつけば、正面にも、もう一人、立ちふさがっている。
その二人の顔は、誠一郎と会った夜にからまれた、そのうちの二人だった。
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