第1話 凉平編

Dark & Flower(前編)

1:

 バシャリ、水の入った空色のバケツが蹴飛ばされる。中に入っていた白百合が、水しぶきと一緒に勢いよく散らばった。

「やめてください!」

 柚紀は声を上げるも、止めることは出来なかった。

「商売なんざもうする必要無えって、言ってんだろ!」

 派手な柄のシャツを着た、人相の悪い男が怒鳴り声を上げる。さらに白い歯をむき出しにして、足元に居る柚紀を唸るような声をあげて睨みつけてきた。

「そーれ、コッチも倒れるぞっとぉ!」

 そう言いながらまた、菊の花が入っているバケツを蹴飛ばす。

「もうやめて!」

 柚紀の悲鳴に近い反抗の声。だが、その小さな抵抗も悲しく、派手柄シャツの男は、菊の花を踏みつけて靴底ですりつぶす。

「ああ……」

 潰された菊の痛みを知るかのように、柚紀は泣きそうな瞳で声を漏らす。

「田名木柚紀さん」

 柚紀に近寄って声をかけたもう一人の男は、上品なブランドスーツに身を包んだ、オールバックの男――

「さっきから言っているでしょう、この土地を譲ってくださいと、ね」

 スーツの男は丁寧な言葉をしながらも、口調は強気。相手を見下している声音だった。

「だからそれは……」

 柚紀は言葉を詰まらせながら、視線を下へ向ける。相手の暴力とも呼べる凄みに耐えられず、面と向かうことができない。

「土地代も引越し費用も立て替えて、さらにしばらくは遊んで暮らせるくらいの額を出すといっているだろう? この土地譲ってくれませんかね?」

「う……」

 柚紀のこの花屋は、亡くなった父と母から引き継いだ店で、父母の形見も同然のものだった。たとえ高校を中退し一人になったとしても、この店を続けて行きたい……。

「それは……できません」

 重たい沈黙にも耐え、柚紀はなんとか、か細い声で答えた。

「…………ああぁ?」

 スーツの男が、まるで猛獣が唸ったかのような声をあげた。

「きこえねぇなぁ!」

 さらに、叫びなががら脅しにかかる。

「だったら商売できねぇようにしてやろうかぁ! なめてんじゃねぇぞこらぁ! えーじぃ!」

「へい!」

 えいじと呼ばれた派手柄シャツの男が、店の中で飾るように置かれた花たちを乱暴に手に取り、茎を折ろうとする。

「やめ――」

「はいストーップ」

 突然の間延びした気楽な声。その言葉に全員の動きがぴたりと止まった。

 声のした方向は店の入り口。そこには男性が一人立っていた。

 先ほどの、のんきな口調に似合ったゆるい表情。場の空気にはあまりにも不釣合い……。そして印象的なのは、後頭部でひとまとめにした亜麻色の長髪の男だった。

「ちょいと失礼しますよー」

 長髪の男はずかずかと店内へ入り、柚紀を含む三人の前に立った。

「なんだてめぇは?」

 スーツの男が長髪の男を睨みつける。

「よいしょっと」

 がぽっ

 長髪の男が、突然手に持っていた空色のバケツを、スーツの男の頭へすっぽりとかぶせた。

 柚紀も子分えいじも、あっけに取られて目を丸くする。

「…………」

 気まずい静寂。

 表情はバケツのせいで見えないが、この地上げに来たスーツの男は、あっけに取られながらも、即座に怒りに染まっていった……実際に肩が小刻みに震え始め――

「あ! アニキ!」

 子分のえいじが呼び、アニキと呼ばれたスーツの男がバケツ越しに怒声を上げる。

「てめぇぇぇ! なにしやが――」

「ふっ!」

 長髪の男が軽く腰をかがめ、スーツの男の腹に拳を叩き込み、さらに俊敏な動作で店の入り口――路上へと投げ飛ばした。

 秒で数えても、五つ数えるかどうかの間の出来事だった。

「アニキぃ~」

 悲鳴にも似た情けない声を上げ、子分のえいじも、駆け足で店を出ようとして―ー

「おい」

 長髪の男に、すれ違い際に肩を掴まれた。子分えいじがいきなり事に、びくりとする。

 その声は、先ほどの気楽な声とはまったく逆で、静かな刃のような、冷たい声だった。

「花を、置いていけ」

「は、はい……」

 おそるおそるに、子分のえいじが長髪の男へ花を差し出す。

 長髪の男はそれを受け取り。

「傷、つけてないだろうな?」

 受け取った花を一瞥してから、子分のえいじを鋭い眼光で威嚇。

「は、はい。大丈夫です………」

 長髪の男はそれを聞いて、元のゆるい顔に戻ると、うんうんとうなずく。

「なら、もう行って良いぜ」

 長髪の男がえいじの肩から手を離し、自由にさせる。

 そして長髪の男が、地面に腰を落としたままの柚紀へ近寄り、柚紀の目線の高さに合わせるように屈んだ。

「この花ちょーだい、いくら?」

「え?」

 柚紀は未だにあっけに取られたまま、つい間抜けな声を出してしまう。

「ここ花屋だろ?」

「そうですけど……」

「だからいくら?」

「一輪百八十円です」

「ちょっと高いなー、もう少しいくつか買うからまけてー」

「だめです」

「あちゃ~だめかー、君のように可愛い花をもっと欲しいのに」

「だめです」

 くだらない三文台詞と即答。この冗談めかしの会話だけならば、この店の通りに花屋の風景を連想できるが……今のこの状況においては、とても場違いな会話だった。

「ちっ、てめぇら!」

 舌打ちと一緒に店の入り口から怒声が響いてきた。

 柚紀と長髪の男が同時に向くと、割れたバケツをかぶったアニキを肩で担いだ、子分のえいじが負け犬の遠吠えよろしく吼えている。

「この次は覚えとけよ!」

 肩でアニキ分を支えながら、ちくしょう、と吐き捨てながら早足で逃げていく。

「ばいばーい」

 長髪の男が、手をひらひらと振ってそれを見送った。


「どうもありがとうございました」

 柚紀がお辞儀と共に長髪の男に礼を言う。

「いやいや、きにしなくてもいーよー」

 そう言いながら、長髪の男は、柚紀の下げた頭に手を乗せて、撫でた。

「なんかああいうの、ほっとけないし。俺も店に飾る花が欲しかったしね~」

 なでなで

「お礼もできませんが、好きなだけゆっくり見ていってください」

 なでなで

「ういよ~」

「…………」

「…………」

 なでなで

「……あの」

「ん?」

「手をどけてくれませんか?」

 長髪の男が、下げた柚紀の頭を撫で続けているため、ずっと頭を上げることができないでいた。

「おー、わるいわるい~」

 おどけた口調で長髪の男が柚紀の頭から手を離した。

 顔を上げた柚紀の表情は明らかにむすっとした顔で、それを見た長髪の男は、悪戯っ子のような顔でくすりと笑う。

「それでは、何かあったら呼んでください、ごゆっくりどうぞ」

 柚紀は言いたい言葉をぐっと飲み込みつつ踵を返して、まだ落ちている百合の花を拾いに行った。

 長髪の男はどれがいいかなー? とつぶやきつつ、並べられている花たちを一つ一つ眺め始めた。

 柚紀は百合の花を拾い集めて立ち上がり、空いているバケツへ花を入れようと歩き出す。

 と――

「ねー、『たぬき』さん」

 べっちゃぁん!

 柚紀が盛大にこけた。

「……大丈夫?」

 長髪の男が心配そうに声をかける。

 と、柚紀は勢いをつけてがばっと起きあがり。

「何で私のあだ名をしってるんですか!」

「へ?」

 長髪の男がきょとん、とする。

「私は『たぬき』じゃなくて、田名木柚紀(たなぎゆき)です!」

 長髪の男は数秒考え込み、そしてああと気がついて声を漏らす。

「ごめん噛んだ」

「それ嘘でしょっ! 明らかにわざとまちがえましたよね! 店の看板にだって『花屋 田名木って書いてあるんですからね!」

 柚紀が声を荒げ、頬を膨らまして長髪の男をじぃ~っとにらむ。

「本当にごめん」

 長髪の男はにらまれて素直に謝罪し。

「実はちょっと言ってみたかった」

 本音を告げた。

「やっぱりいいいいいいいいいいい」

 セミロングの髪が逆立つような叫びを上げると、づかづかと長髪の男へ歩み寄る。

「いやーすまんすまん」

 軽い口調のせいで、長髪の男の謝りにまったく反省の色が見て取れない。

 柚紀は先ほどからの、この男の軽口と仕種。さらに言われたくないあだ名を言われ、顔が真っ赤になっていた。

「ふんっ!」

 柚紀は長髪の男のスネを、ブーツのつま先で思いっきり蹴飛ばす。

「いっ!」

 長髪の男が苦悶の声をあげながら、足を押さえてその場にうずくまった。

 柚紀は踵を返して、今度こそ手に持った百合の花の束を、空いているバケツへ入れる。

「俺、客なんですけど」

「しりません」

「さっき危ないところを助けたんですけど」

「しりませんしりません」

「…………」

「さっさと選んでくださいやがれ」

「ゆっくり選んでも良いっていったよね?」

「しりませんったらしりません」

「…………」

 柚紀が、大きく鼻を「ふん」と鳴らした。


「くそ、何だあの男」

「さあ、何者なんでしょう……?」

 先ほど長髪の男に投げ飛ばされたスーツの男が、そう言いながら頭の傷をハンカチで押さえ、少し離れて置いてあった車の中へ入る。

「このまま黙ってるわけにはいきませんね……アニキ」

「ああ」

 小さな土地一つも取ってこられないようでは、緑龍会の幹部としての面子が立たない。

 ストレス解消にと思い、遊び気分で受け持ったのだが。

「あの店……確実に叩き潰してやる」


「ろくりゅうかい?」

 長髪の男が花を一輪一輪撫でるように触れながら聞き返した。

「ええ、いわゆるヤクザさんですね」

「ふーん」

 長髪の男の、何の興味も見えない生返事。

「どうやらここの土地が欲しいみたいで、先週あたりからやってくるようになったんです」

「警察には?」

「まだ言ってません。交渉金もそれなり出ていて、暴力を見せ付けられたのも今日が初めてで……」

「…………」

「この店は、お父さんとお母さんが私がまだ小さい頃にできた店で、譲る気は無いんですけどねー」

「譲らないと、次はもっとひどい事されるぜ?」

 その言葉に、柚紀に胸の内の不安が膨れ上がっていく。

「そうでしょうね……きっと」

 柚紀がちらりと長髪の男を横目で見る。だが見えるのは後姿だけで……表情を伺う事はできなかった。

(この人が追い返してくれなかったら、次なんてどころか、今頃めちゃくちゃにされていたのかもしれない……)

「リョウヘイ」

 長髪の男が突然言った。

「え?」

 柚紀が聞き返す。

「鳥羽凉平だ、俺の名前」

 軽く肩をすくめながら――長髪の男の名前は名乗った。

 凉平がこちらに振り向いて、よろしくな、と付け足す。

「あ、私は田名木柚紀って言います」

「さっき聞いたよ」

「そうでしたね」

 柚紀がはははっと苦笑して頭をかく。

「たぬきさん」

「たぬきちがあああああああうぅ!」

 凉平のニヤニヤした顔を、柚紀が頬を膨らましてにらむ。

 それを見た凉平が、あ~っと思い出したかのように声を上げた。

「なんか『たぬき』ってあだ名がしっくりくるなぁと思ったら」

「たぬきじゃないです! しっくりなんてきません」

「そのふっくらした頬がマスコットのたぬきみたいだな」

「なんだとおおおおおおおおおおおおおお!」

 柚紀が凉平へと駆け寄って、凉平の両頬を思いっきりつねる。

「いひゃいいひゃい」

「くぬくぬくぬ!」

 痛い痛いと言いつつも、凉平には悪戯っ子の笑みが見えていた。

「まいったかこのやろう!」

「まいっひゃまいっひゃー」

 柚紀が凉平の頬を存分につねり上げてからようやく手を離し、ふんと鼻を鳴らしながら腕を組んでそっぽを向いた。

「おー、ってぇ……」

 凉平が両手で赤くなった頬をさする。

「コレに懲りたら、もうたぬきなんて呼ばないでね」

「やだ」

 あまりにも素早い即答に、柚紀が肩をかくんと下げた。

「足とほっぺた、次はどこが良いですか~ぁ?」

「あっはっはっはっはー」

 手をわきわきとさせてにじり寄ってくる柚紀。

 後退りしながら、凉平がけらけらと笑う。

「そ、それよりも」

 凉平が話題を変えた。

「なんですか?」

 二重のまぶたに力を込めながら、怒り口調のまま柚紀が返事する。

「おう、そこにあるのと、これとこれ、あと向こうにある観葉植物もいくつか欲しいんだけど」

 言いながら凉平があっちこっちに指を向ける。

「え、あー。そういえばあなた、花を買いに来たんだったのね」

 今更気付いたかのように柚紀が思い出す。

「そーだよ忘れてたのか」

「忘れてました」

 いかにも忘れていなかったと思えるすまし顔で、柚紀がそっぽを向く。

「…………」 

 気を取り直すかのように凉平がこほんと咳払いをし、

「とりあえずたくさん欲しいから、配達もできるかな? できないならウチの野郎どもを引っ張ってくるが……」

「大丈夫です、免許も配達用の車も有りますから」

「じゃあ、駅の近くに『ひなた時計』って喫茶店があるから、そこへ頼むわ」

「喫茶店?」

 柚紀が聞き返す。

「そう、俺が働いてる店さ」


 2:

「おい、銀次」

 緑龍会総会長、御上龍三に背後から呼ばれ、スーツを着込んだオールバックの男、銀次がびくりと体を強張らせた。

 緑龍会の本屋敷の廊下。きんと凍りついたように空気が硬くなる。

「その頭の怪我はどうした?」

 龍三の凄みのある声、今にも取って食われそうなほどの恐怖を覚えながら、唇を震わせて銀次が答える。

「こ、これは……階段でこ、転びやした」

 頭に巻かれた包帯をじろじろと見ながら、龍三は「ほう……」とつぶやいて銀次に近づいた。

「で、『おつかい』はどうなっている?」

 おつかい、田名木柚紀の店の地上げの事だ。事の状況は先の通り。

「ま、まだ……これからシメにはいる、ところです」

 生唾を飲み込みながら、すぐ背後にいる龍三の問いに、銀次はしどろもどろにまたも答えた。

 不意に、銀次は龍三に肩を掴まれ、悲鳴を上げてしまいそうになったのをぐっと堪える。

「銀次」

 重たく凄みのある声、龍三の声はまさしく龍の唸り声にも思えた。

「おめぇはいつから、おつかいもまともにできねぇ、ガキになったんだ?」

「す、すいません……」

 龍三の前では、隠し事はできない。

 銀次はそうはっきりと自覚し、脂汗を額に滲ませる。

「緑龍会の幹部……俺の息子同然の男が、舐められたまま黙ってるわけが……」

 銀次の肩を掴んでいる龍三の手――その指が肩へ食い込んでいく。

「ないよなぁ?」

「……はい」

 さらに、龍三は銀次の肩を離さぬまま続ける。

「俺たちゃあこれから、裏社会の上を目指しにかかるんだ。こんな事一つに手をこまねいているわけにゃあいかねぇ……わかるな銀次?」

 銀次からは、背後にいる龍三の表情はうかがうことはできない、だがそれは幸運でもあった。面と向き合って、自分の失態を咎められながら、いまの恐怖に引きつった表情を見られては、確実に首をはねられていた。

 この緑龍会はこれから暗黒の世界、裏社会へと進み、旗揚げをする大事な時期である。

 役に立たない上に足をひっぱる奴は、指を落として責任を取る程度では済まされない。

「はい、この程度の事、すぐに終わらせてやります」

 龍三からは自分の顔が見えないのを良い事に、銀次はできるだけ気合の入れた返事で返した。

「おう、気ぃ抜くんじゃねぇぞ」

「うっす」

 ようやく龍三が、掴んでいた銀次の肩を離した。

 銀次の背中を一度叩いた後で、龍三の足音が遠ざかっていく。足音が消えていくのを聞いて――銀次がようやく安堵の息を付く。

 だが、肩にはいつまでも、龍の手が重く圧し掛かっているような、熱い感覚が残っていた。

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