3月22日 運命のルーレット(闘病編)

 公立の二番高に合格したことは、私にとって正に青天の霹靂であった。受験勉強に勤しむ間も、ずっとイメージしていたのは國學院久我山での高校生活であって、急に家から通える公立高校での生活をイメージしようとしても、切り替える事は難しかった。ただ両親はやはり私立より公立の方が学費もかからないし、公立推しだったのではなかったか。

 公立高校の合格発表から数日後のことである。私は大の牡蠣好きなのだが、我が家で牡蠣パーティが開かれた。この時、私は人生において最大量の牡蠣を一度に食べるのであるが、このパーティの開催目的が、ただ単に「合格祝い」だったような気もするし、「公立高校を選ぶなら牡蠣を心ゆくまで食べさせてやる。」という交換条件だったような気もするのである。かくして私は公立の二番高に行くことになるのだが、まだ運命のルーレットの上を転がる玉は落ち着く事を拒んだ。牡蠣パーティから数日後、私は体調不良に陥った。


 当初は風邪のような熱の症状で、かかりつけの小児科に母に連れられて行ったが、「風邪だろう」という診断だった。しかし夜間、腹痛が酷くなり、母が相談の連絡を入れてくれた小児科の先生が往診に来てくれた。その先生が、腹部を触診した際の私の痛がり方と、私の目を手で押し広げて覗き込んだ後に「痛みがある腹部の位置、加えて目に黄疸が出ていることから、風邪ではない可能性が高い。明日にでも大きな病院に行って精密検査をした方がいい」という診断を下した。

 翌日、その先生の紹介もあり、確か当時〝千里救急病院〟と呼ばれていたと私は記憶しているが、大きな病院で検査を受ける事になった。そして検査の結果、〝急性肝炎〟だと診断され、その場で入院が決まった。(なおその当時、私には伏せられていたが、私の肝炎は急性の中でも『劇症』に分類される激しいもので、医師から私の両親だけには、今後の病気の進行次第では命を失う事もあり得る事だとし、近親者には念の為に伝えておく方がいいという説明があったそうだ。しかしその事実を知ったのはずっと後の事で、大学生になって北海道からその当時実家のあった東京に帰省していた時のことであった。)


 入院は辛いものだった。今でも覚えているが、高熱が下がらない中、食欲も全くなく、来る日も来る日もベッドの上の天井を見つめて時間を過ごした。ただその天井は高熱にうなされていたのか常にグルグルと回って見えて、「何故天井は実際には回っていないのに、ずっと回っているように見えるのだろう?」という事を繰り返し繰り返し考えていたのを覚えている。この病気の結末は、今こうしてエッセイを書いていることからもお分かりいただけると思うが幸いにも完治した。

 熱が下がり、病院の階段を上がって屋上に出て数週間ぶりに見た外の景色はとにかく眩しかった事を覚えている。そしてその次の日に襲った経験したこともない筋肉痛もよく覚えている。徐々に体力を回復し、二ヶ月間の入院生活を経て私は退院した。それは同時に、新学期が始まってから既に二ヶ月が経った高校に飛び込まなければならないという現実に戻ることでもあった。


続く

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