3月8日 鉄道の旅(1/2)

 私は小学校高学年から中学校時代にかけて、当時隆盛を極めた鉄道ファンの一員だった。その頃私は大阪府の吹田市に住んでいたのだが、父の一眼レフを貸してもらって大阪駅や新札幌駅にブルートレインの写真などを撮りにいったものである。そして写真を撮るだけではなく、列車に乗っての旅行も好きだった。今回は私の記憶に残る列車での旅についていくつか紹介したいと思う。(時代背景は現在私が55歳であることから逆算してお察し願いたい。)


(小学校時代/大阪⇄島根『まつかぜ』)

 上で大阪に住んでいると述べたが、私は父の仕事の関係で大阪に落ち着くまで日本各地を転々としていた。生まれは東京なのだが、その後→名古屋→静岡→札幌と引越しをし、小学校3年生になる春に大阪に越してきていた。そんな私は関西弁を話すこと叶わず、いじめられてはいなかったがクラスで日の目をみるポジションには縁が無かった。しかしほぼ同じタイミングで近所に引っ越してきた男の子が同じクラスにいて、引っ越ししてきた者同士、自然と仲良くなっていった。

 経緯は思い出せないが小学5年生の時と記憶している、その友人と二人きりでその友人の親戚の家がある島根県に行く旅行計画を立てた。目的地までの乗り換えの有無は定かではないが、国鉄の特急色(クリーム4号と赤2号)を纏った特急『まつかぜ』に乗ったことは鮮明に覚えている。母に作ってもらった海苔で全体真っ黒なおにぎりを頬張りながら移り変わる車窓の景色に一喜一憂した記憶は今でも色褪せない。  

 そして確かその友人の家が山陰本線の線路沿いにあり、電車の来ないタイミングで裏庭から線路に出て、線路の上を歩くことができた事を鮮明に覚えている。


(大学時代/青森⇄上野『八甲田』)

 当時実家は東京にあったが、下宿して札幌の大学に通っていた私にとって帰省はなかなかハードルの高いミッションだった。当時父が腰を悪くして入院していたなどの事情から帰るとしたら費用は自分もち、飛行機の往復チケット代は高額で正月でも帰らない年があった。しかしある年、仲間たちと『札幌→東京間』の在来線乗り継ぎによる〝帰省ツアー〟を実行する事になった。その際に『青森→上野』の区間で急行『八甲田』を利用した。

 10人以上の規模だったと思う、固くリクライニングもしない座席で、語って(お酒を)飲んで。そんな楽しい時間の中、ある事態が発生する。何処かの駅でしばらく停車した際、仲間の一人の姿が見つからなくなった。発車時刻になっても彼は見つからず、私たちがぎゃーぎゃー騒いで車掌さんに発車を待っもらった。結局姿が見えなかった仲間はトイレにいるところを発見され、数分の遅れで八甲田は発車する事になった。車掌さんに口々に謝ったのは懐かしい思い出だ。


(北海道ゼネコン勤務時代/帯広⇄札幌『まりも』)

 ゼネコンに勤務していた頃、私は何故か道東の現場に配属される事が多かった。札内川ダム工事、十勝中部浄水場工事、十勝河口橋地震被害復旧工事、携帯の通信基地局工事などであるが、土木技術者にはありがちな話で、家族は札幌に残した単身赴任だった。月に何度かは帰れるのだが道東から札幌に帰るとなると車で帰るのには骨が折れた。とは言え、安価である事、時間の融通が効く事、また札幌に帰ったら帰ったで車がいることから夏場は頑張って車で帰った。しかし冬場ともなると吹雪く可能性がある日勝峠越えの国道274号線を車で帰るより、列車で帰るという選択肢を選ぶ事が多かった。そんな時に頼ったのが急行『まりも』だった。『まりも』には定期的に乗車したので寝台車ではない普通の座席でいかにぐっすり眠る事ができるのか考えたものだった。私の最終的な回答は、窓側に座り、通路側に身体の下に着替えなどを詰めた鞄で作った傾斜を作り、体を持たせかける。仕上げに通路側の手すりにタオルなどを挟んで少し硬いが枕がわりにして寝る、このスタイルだった。


(続く)

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