3月3日 イスタンブールの思い出
(今回の話を始める前に、先日のトルコ・シリア大地震で亡くなった方々に哀悼の誠を捧げる。)
私にとってトルコは特別な国だ。大学を卒業し、ゼネコンに入社した私が配属されたのは国際事業部だった。それは高校・大学時代に抱いた『将来の夢』が土木技術者として海外で活躍することであり、就活段階に訴えた希望が叶ったものでもあった。
入社後、私は海外での勤務に必要な知識、例えば英語で記載された仕様書(Specification /通称スペック)や英語でのビジネスレターの書き方などを研修で学び、加えて二年間の国内現場経験を積んだ。
そして私に下された初めての海外赴任の辞令、その赴任先がトルコ共和国のイスタンブールだった。1990年代中頃、今から30年ほど前の話だ。
トルコ、というか欧州に飛行機で行くには今でも北極を回る〝北回り〟と、赤道と並行に移動する〝南回り〟があるのではないか。私の海外への初めての移動は、シンガポール航空を利用し、シンガポールのチャンギ空港を経由してイスタンブールに向かう〝南回り〟だった。
もちろんイスタンブールのアタチュルク空港に降り立った際にもこの地が異国であることを強く感じたが、身に染みて感じたのは翌朝だった。長旅と時差ぼけで深い眠りに入っていた私は大音響で流れるアザーン(礼拝への呼び掛け)に叩き起こされることとなった。
私が1年あまりの時を過ごした当時のトルコは、イスラム教の国の中でも最も戒律の緩い国の一つだった。例えば街で顔全体を隠す〝ブルカ〟を着用している女性を見ることはほとんどなく、頭髪のみを隠す〝ヒジャーブ〟を着用している女性を見るのも稀ではあった。しかし宗教であるイスラム教が人々の生活に色濃く影響していることは日本と違い歴然としていた。モスクと呼ばれるイスラム教の寺院は、イスタンブールという歴史ある街をであることもあるのだろうがあちこちに点在した。そして男性は大抵イスラム教の数珠を持ち歩いており、手持ち無沙汰な時にはその数珠の玉を数えるように手の内で回した。またモスクでは、当然のように時間になると熱心に礼拝を捧げる市民の姿が見られた。
私が参加したのは金角湾にかかる〝ゴールデンホーン橋〟の拡幅工事だった。その橋の工事における下部工(橋脚)の工事において、事業を請け負った総合重工業メーカーをサポートする為に当時所属していたゼネコンから人が派遣されていた。私はその人に下働きが必要ということで派遣されたのだった。
現場であるゴールデンホーン橋は歴史ある旧市街に面しており、土曜日には早めに仕事を切り上げて周囲を散策したものだった。特に私はブルーモスクが好きでよく訪れた。現在はどうなっているかわからないが、当時は普通にモスクとして使用されていて、入場料も必要無く普通に入ることができた。中に入ると、「内壁の青白いタイル?」のせいか、「ステンドグラスから差し込む光」のせいか、それともその相乗効果なのか、空間が独特の雰囲気に満たされ、私は訪れる度に幻想的で美しい光景に心を奪われた。その光景は陽が傾くと共に趣が変わり、その中で市民が入れ替わり立ち替わり礼拝をしていく姿を、私は飽きることなく何時間も眺めて過ごした。
今でも目を閉じればそのイメージで心を満たすことができる。多分、私の心に消えることなく刻み込まれた原風景なのだろう。
この時にお世話になったゼネコンの先輩のH氏を私は今でも大変尊敬している。H氏に初めてお会いした時、H氏は私に「海外で仕事をするにあたって一番大事なことは何か?」と問われた。その時に私がなんと答えたか、もしかして答えられなかったのか、私の記憶はない。ただH氏から聞かされた答えは今でも鮮明に覚えている。
「現地の人へのリスペクトを決して忘れてはいけない。我々の方が優れた技術を持っていたとしても、それは我々の先人が築いたものだ。もし君が現地の人へのリスペクトを忘れた時、それに彼らは当然気付き、君は信頼を失うだろう。」
この言葉を、私は転職して海外へ行くこともなくなった今でも、人と接する際の基本として大切にしている。
おわり
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます