第六話「ブルーラグーン」

 また、二十二時を迎えようとする、とある夜。


 ステージ袖からピアノの前に着くまでに、彩音はいつものテーブル席に彩人が座っているのを確認する。そして、ゆっくりとアレンジされた定番曲を順々に披露していった。


 目を閉じれば不思議と、彩人がすぐ隣で自分のピアノを聴いてくれているように感じられる。


 その感覚に後押しされるように彩音の指は滑らかに鍵盤の上を滑り、店中が甘美な音色に包まれた。


 そして、この日最後の曲が始まる。


 ――クラシックは、まだ弾けないかもしれない。それでも私の話を聞いてくれた貴方に、どれだけ私が救われたか、伝えたい。


 そんな想いを込めて彩音が弾いた曲は、ジャズアレンジを加えたサティのジムノペディ第一番だった。


 いつもと違う選曲に、優希と司、そして常連客から感嘆の溜息が零れる。その中で彩人は一人、彩音の想いを受け取ったように、満面の笑みを浮かべていた。


 今夜の演奏を終えた彩音に、惜しみない拍手が送られる。


 それに彩音は深く一礼をして応えてカウンターに戻れば、すぐに彩人は現れた。


「彩音さんの気持ち、伝わりましたよ」


 彩人の第一声に、彩音は心から湧き上がった嬉しさをそのまま笑顔に変えた。


「僕を想って弾いてくれて、ありがとうございます。やっぱり僕は、彩音さんのピアノが大好きだな」


 そう笑う彩人の顔も、彩音に負けず嬉しさが零れていた。


「―――、」


 その笑顔が、彩音の心をじんわりと温める。


 やがてそれは抗いようのないほどの熱に変わり、彩音はこの想いをはっきりと自覚した。


 ――私、彩人さんが好きだ。


 彩音と想いが一つになれたことを喜ぶように、その心は高らかに脈打った。


「彩音さん。今夜は、ブルーラグーンをいただけますか?」


「――かしこまりました」


 想いを自覚すれば、不自然な緊張が彩音を襲う。


 カクテルを作る仕草一つ一つを見つめる彩人の視線に、心臓が落ち着かない。

 

 まるでそれさえも見透かしているような彩人の微笑みに、彩音は終始、顔が赤くならないよう努めることに必死になった。


「――今夜の彩音さん、なんだかいつも以上に可愛いですね」


「っ、」


 二杯目のカクテルを飲み終えた彩人のその発言に驚いたのは、彩音だけではなかった。


 店に来てから初めて、明確に彩音に好意を抱いている様子の言動を見せた彩人に、いつも二人を陰ながら見守っている優希と司も言葉を失った。


「あ、彩人さん…っ、何を」


「いつも帰る度に名残惜しい気持ちになってますけど、今夜は特に、離れたくない気持ちになってます」


「………!?」


 仄暗い店内でも分かるほどに顔を真っ赤にした彩音を見て、彩人は愛しそうに目を細めて微笑む。


「――ねえ、彩音さん。今夜は、入口まで僕を見送ってくれませんか?」


「えっと、」


 可否を求める彩音の視線に、優希は黙って頷いて見せた。


「やった。ありがとうございます、有馬さん」


「いえいえ。大切なお客様ですから。でも、うちの可愛い彩音に悪戯しないでくださいね?」


「もちろんですよ。本当は、持ち帰りたいくらいなんですけどね」


「オ、オーナー!?彩人さんまで…!」


 一人慌てる彩音を他所に、司が手早く彩人の支払いを受け取る。そうしてどこか生温かい二人分の視線を背中に感じながら、彩音と彩人はエウテルペの外へと出た。


 夜の喧騒は遠く、どこか世界と切り離されたような時間の中を、二人は静かに階段を上がる。


 地上に着いてすぐ、彩人は黙ったまま彩音に向かい合った。


「――彩音さん、」


「はい、――っ」


 彩音が気づいたときには、彩人の意外と逞しい腕の中で抱きしめられていた。


「…彩音さんの一歩踏み出したジムノペディ。本当に、感動しました」


「彩人さん…」


「僕も、あなたの頑張りに胸を張って応えられる男でいたい」


 強い意志を秘めた真剣な彩人の声音が、大切なことを伝えようとしていることは明らかで。


「しばらくエウテルペには来られません…。だけど、必ず。また戻ってきます。だからそのときは彩音さんのクラシックを、あなたの傍で聴かせてください」


 誰かに言わせればそれは、しがない口約束なのかもしれない。


「――分かりました。私、待っています。だから――」


 ――必ず、戻ってきてください。


 彩人を信じると決めた彩音の心を言葉ごと、彩人はその唇を塞いで奪い取った。


「―――、」


 彩人が抱きしめる腕を緩め、二人はその姿を目に焼き付けるように見つめ合う。


 そうして再び重ねられた唇に、彩音はまた再会する運命を願った。




 第六話「誠実な愛」

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