第七話「ハイライフ」(1)

「――彩音さんが元気ないのって、あの人のせいですか?」


「え?」


 エウテルペの、ひっそりとした開店前の時間。それは、カウンターで横に並びながらグラスを磨く彩音へ、司からの突然の問いかけだった。


 思わず手を止めてしまった彩音とは別に、司は淡々とグラスを磨き続ける。


「…しばらく来てないですよね。もう、三ヶ月くらい経ちますか」


「…よく覚えてるんだね」


「あれだけ入り浸っていた人が急に来なくなったんです。嫌でも分かるし、覚えますよ。…というか、そう答えるってことは、彩音さんも来なくなった日を数えてるんですね」


「………」


 司の的確な言葉に、彩音は答えず曖昧に笑ってみせる。そうして止まっていた手を動かせば、二人の間にはグラスの磨く音だけが続いた。


「――あの初めて見送りをしたとき、しばらく来られないって言ってたの」


「………」


 ぽつり、零した言葉とともに、あの日の光景が彩音の中で蘇る。


 あのときの彼の表情は、声は。疑うまでもなく本当の想いを伝えてくれていたと、彩音は今でも思う。


「でも、必ず戻ってくるって言ってくれた…」


「へえ。それで健気に待ってるんですね」


「っ」


 司の歯に衣着せぬ言葉に、本音を見抜かれた彩音は思わず顔を赤らめる。


「でも、戻ってくることを信じていても、やっぱり寂しいのは寂しいから落ち込んでいる、ってところですか」


「……司くん、本当に大学生?エスパーなの?」


「学生証を見せましょうか?」


「……いらない」


 小さな子供を優しく揶揄うように笑った司に、これではどちらが年上なのか分からなくなりそうだと彩音は思う。


 けれど先ほどよりは明るくなった気分に、密かに司に励まされていたことに気づいた彩音は、やはりどこか出来過ぎな隣人がただの大学生には思えなくなっていた。


「――おいおい!ちょっとこの週刊誌見てみろよ」


 そんな二人のもとに、大袈裟に慌てた様子で優希がバックヤードから現れる。如何にもリラックスしながら雑誌を見てましたというように着衣の乱れた優希を見て、司が小さく溜息をつく。


「ソファで寝転がってたのがバレバレですよ、オーナー」


「んなことはどうでもいいんだよ。それより、これこれ」


 優希が二人に見えるよう、カウンターに週刊誌を広げる。その紙面を覗き込んで、彩音は思わず息を呑んだ。


 ――『日本が誇る若き天才ピアニストの復活か!?』


 そう書かれた見出しのすぐ傍には、正装をしてピアノを弾いている彩人の写真が大きく掲載されていた。


「…これ、どう見ても彩音に夢中のあのお客様だよな?」


「双子でもいない限り、そうでしょうね」


 優希の問いに、冷静に返す司。


「―――、」


 そんな二人の声など耳に入らないといった様子で、彩音は黙って記事を読み進める。


 ――『数々の有名な賞を総ナメにしてきた天才ピアニストの永瀬 彩人(23)が、音楽の都・ウィーンで個人リサイタル開催を発表。表舞台から突然と姿を消し、重篤なスランプに陥ったとの噂も絶えず、約一年ほどステージに立つことのなかったピアニストの復活なるか!?』


「――ああ。あの人、どこかで見たことある顔だと思ってたら…あの永瀬 彩人だったんだ」


「え?司、知ってんのか?」


「……芸術とか興味なさそうですもんね、オーナー」


「失礼だな、おい」


「彩音さんは?この人のこと、知ってたんじゃないんですか?」


「…う、うん…」


 司の問いに頷いて見せるものの、まさかの真実に彩音は驚きを隠せない。


「どこかで見たことあるような気はしたけど…まさか…」


「ですね。このお店暗いし、あの人、でかい眼鏡かけてたし。…眼鏡って意外といい変装道具になるんですね」


「それ、感心するところ違くないか?」


 優希と司のやり取りをよそに、彩音は食い入るように紙面を見つめる。彩人の輝かしい経歴を記す文面に、それぞれのステージで堂々とした振る舞いを見せる写真。


 彩音に見せた『エウテルペでの彩人』の表情どれもが遠くなるほど、彩音にとって彩人は、とても遠い存在の人のように感じた。


 ――それから世間は彩人の話題で持ち切りになり、意識せずとも、彩音の耳にその活躍は届くようになっていた。


 メディア越しにその姿を見る度に、彩音にとって大切な、直接目を見て言葉を交わしていた日々が、まるで夢だったように徐々に薄れてゆく。


 それでも電子越しに聴ける彩人のピアノは、エウテルペで彩音が聴いたものと寸分違わず優しい音を響かせて。それだけが彩人を待つ彩音の心を支え続けた。

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