第五話「アプリコットフィズ」(4)
――そうして、自分の出番がやってくる。
そこからの記憶は曖昧で、不自然なまでに白く靄がかって見える視界と、場内の人々がざわつく声だけが、彩音の記憶に刻み込まれていた。
そして、ステージからは鮮明に見えるはずのない客席にいる母親の顔が――彩音を一番に信じ、期待を寄せてくれていた人の顔が――失望に色を失くしていくのを、まるでスローモーションのように見ていて。それは今もなお、彩音の脳裏で何度も何度も繰り返し再生されていた。
「…あのコンクールの日から、ついにクラシックが弾けなくなってしまったんです。弾こうとすると…あのときの自分の感情が、母の顔が、今の自分の感情が、私の感覚の全てを奪っていくんです…っ」
ずっと、誰にも言えなかった想い。ずっと、誰かに言いたかった想い。それを初めて誰かの前でさらけ出した彩音の目には、涙が滲んでいた。
「―――、」
繋がれた大きな手に、優しく励ますように力が籠められる。彩人のたったそれだけの仕草に、自分の心を理解してもらえたような気がして、彩音の目から大きな涙が零れた。
「――僕が。彩音さんが、もう一度迷いなくピアノが弾けるように、傍にいます」
ぽろぽろと零れるその涙を、彩人が繋いでいない反対の手で優しく拭う。
「僕が彩音さんのためにできることなんて大してないけど…でも、傍にいることはできます」
「…あ、やと…さん」
「あなたに弾けない曲があるなら、僕が代わりに弾きましょう。あなたが許してくれるのなら、僕は一緒にも弾きたい。――そして、あなたがピアノを弾くなら、僕は傍でそれを聴き続けたい」
彩人の甘く柔らかい微笑みと、耳朶を擽る心地良い声。そして涙を拭うその優しい指先に、彩音の心は高鳴ってゆく。
「彩音さんの存在が、僕にもう一度ピアノを弾く力を与えてくれたように。僕も、彩音さんにとって、そういう存在になりたい」
「わ、私なんて…そんな、」
「――これから、ピアノを前に苦しい思いをしたときは、僕のことを思い出してください」
「え…?」
「僕は彩音さんのピアノが大好きです。あなたがピアノを前に抱くどんな感情も音も、僕は全部、聴いていますから。僕のために、僕を想って、弾いてください」
「―――っ、」
それは愛を告げるどんな言葉よりも、彩音の心を揺さぶった。
「…彩音さん、」
逸らせない視線の先に、彩音を魅せてやまない彩人の瞳がある。そうしてその瞳に映る自分の姿が徐々に大きくなってきたかと思えば。
「――彩音さんを見守るおまじない、です」
目元に残る柔らかな感触と、目の前の彩人の少し照れた微笑みに。彩音は、彩人にキスをされたことに気づき、その顔を真っ赤に染め上げた。
「…っ、あの!の、喉が渇きますよねっ?何が飲みたいですか…っ?」
明らかに慌てた様子で席から立ち上がり、カウンターへと向かう彩音。その突然の言動をきょとんとした顔で見ていた彩人は、次第に笑みを広げ、小さく声を出して笑った。
その顔は、彩音が可愛くてたまらない、と。第三者なら誰もが分かりそうなほど、幸せそうな笑顔だった。
「じゃあ、カクテルをお願いしてもいいですか?彩音さんのカクテル、いつも美味しいから」
「は、はい」
「今日は――アプリコットフィズ、を」
「かしこまりました…!」
街には、静かに夜の帳が下りる。静かな仄暗い店内で、二人きりの時間はもう少し、続く。
第五話「振り向いてください」
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