第五話「アプリコットフィズ」(3)
「――少し、僕の話をしてもいいですか?」
彩人の吐息が、彩音の手のひらを
「…あの、手を…」
「………」
「離してほしい」という言葉は、指を絡めて繋がれた手を前に、消えてしまった。
「――僕は今、ピアノが弾けません」
ではあの夜、この店で披露したあの見事な腕前はなんだったのか?
その疑問が彩音の顔に出ていたのか、彩人は少しだけ微笑んで見せた。
「正確には、自分がピアノを弾きたいと心から思うとき以外、弾けなくなってしまったんです」
「………」
あの夜、『久しぶりに楽しくピアノが弾けた』と言った彩人の姿を、彩音は思い出す。裏を返せばそれは、楽しくない思いをしながらピアノを弾いているときはある、ということだったのではないだろうか。
「…どうしてそうなってしまったのか、理由を聞いても…?」
自分は答えられなかったのに問いを、相手に投げかける。
彩人の伏せた目が思案するように揺らめき、そして静かに彩音を見据えた。
「端的に言えば、スランプ、ですかね。…僕は、自分が奏でる音を信じることができなくなってしまったんです」
ある日、突然。自分の音は、本当に自分が望む音を奏でているのだろうかと不安になった。それは何かきっかけらしいきっかけがあったわけではなく、ふと自分への問いかけとして心の中に浮かんできた。
「それからは、何を弾いても満足できなくて。それでも弾かなきゃいけなくて、中途半端な自分をステージの上でさらけ出して。…何が足りないのか見つけられないまま、段々とピアノを弾くのが怖くなってしまったんです」
「―――」
返す言葉もなく、彩音はただ、彩人の告白に聞き入る。
痛いほどに分かるその想いは、彩音が今まさに経験している感情そのものだからだ。
「そうやってピアノを遠ざけて途方に暮れているときに、彩音さん。僕は、あなたに出会ったんです」
知り合いが強く勧めてきたこの店に足を運んだのは、ただの気まぐれだった。今思えば、自分と彩音が同じような想いを抱えていることを、その知り合いは察していたのかもしれないと彩人は思う。
「…あなたのピアノを聴いて、比喩じゃなく、僕の心は震えた。――本当は苦しくて仕方ないはずなのに、それでも弾かずにはいられない。そんなあなたの想いが音に乗って僕に届いて、僕はそれに強く共感したんです」
自分にしか分からないと思っていた痛みが、分かち合えることを知った。それは彩人にとって孤独だった世界に、一筋の光が差した気がした瞬間だった。
「――だから僕は、僕自身のためにも…あなたを苦しめるものを分かち合いたいと思う」
「っ、」
その視線に、繋がる手に、声に。疑いようがないほどに彩人の想いを感じられて、彩音はもう、強がっていられなくなった。
「……もうずっと…自分の音が、聴こえないんです」
それは、大学二年のときのことだった。それは彩人の言葉で言う『自分の奏でる音が信じられなくなった』と、同じ症状だった。
「…自分が弾いているはずなのに、まるでその感覚がなくて…全部、無機質なものに聴こえるんです」
特にクラシックにおいては、その感覚がひどく彩音を
「…それでも自分にはピアノしかなくて…期待を寄せてくれている人に応えたくて…」
あの日のことは、彩音は今でも鮮明に思い出せる。年に一度の格式高いピアノコンクール。緊張感溢れるその場には、最大限の自分を表現できるように感覚を研ぎ澄ませる出場者たちとその将来を推し測る権威たち。その大舞台の袖で、彩音は自分の震える体を抱きしめていた。
その震えは、武者震いではない。彩音の心を占めるのは、圧倒的な恐怖だった。
どれだけ練習しても、自分の音はついぞ戻ってこなかった。むしろ弾けば弾くほど、どんどん聴こえなくなっていった。それでも迫りくる不安を前に弾かずにはいられず、彩音は自分の心を追い込むループから抜け出せなくなっていた。
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