第五話「アプリコットフィズ」(2)

 思い返せば確かに彩人は無駄に居座るようなことはせず、話はするものの彩音が働きにくいと思ったことはなかった。


 それは実は彩人の細やかな気配りのお陰だったのだと、彩音は今更ながらに気づいた。


「あっ。でも、もちろん彩音さんが疲れたりしたら、遠慮なくすぐ教えてくださいね」


 優しく人を思いやる大人びた表情を見せたかと思えば、急にそんな大人びた自分の態度を紛らわすように子供っぽい表情をして笑う。


 そんな彩人の姿に、彩音の口元には自然と笑みが浮かんでいた。


「彩音さんは、休日は何をされてるんですか?」


「…休日は…そうですね。今日のようにピアノの練習をしたり、楽譜を見に行ったりすることが多いです」


「楽譜を見るのは僕も好きです。アレンジの勉強になるし、何より頭の中でその楽譜の音を奏でるのが楽しいですよね」


「分かります。それで、すぐにでも弾いてみたくなる」


「そうそう!」


 弾む会話に、彩音の表情が和らいでゆく。まだ暗い感情は拭い切れないままも、彩音は純粋に彩人との会話を楽しみ始めていた。


「彩音さんは、電子オルガンは弾きますか?この前、楽器屋さんで最新モデルを触らせてもらって、テクノロジーの進化に感動したんですよ」


「自分で弾いたことはありませんが、演奏を聴いたことは何度かありますね。あの両手と足が器用に動くの、すごいですよね」


「ね。電子オルガン一台でオーケストラが賄えるんだから、本当すごいですよね。ちょっと欲しくなりました」


「ふふ。購入された暁にはぜひ、演奏を聴かせてください」


「もちろんですよ。僕が電子オルガン、彩音さんがピアノでアンサンブルもいいですね」


 音楽という共通の話題において、二人の話が途切れることはなく。時折笑い声を立てながら、お互いの話をし合った。


「彩音さんは、いつからピアノを弾き始めたんですか?」


「本格的に習い始めたのは五歳くらいだったと思います。おもちゃのピアノが大好きだったみたいで、一人で座れるようになってからずっと弾いて遊んでいたそうです」


「小さい頃の彩音さん、見てみたいなあ。すごく可愛いんだろうな、きっと」


「どうでしょうか?でも、小さい頃はみんな可愛いものですよ」


 幼い彩人もきっと可愛かったのだろうと想像して、彩音は小さく笑う。そんな彩音の姿を見て彩人も微笑み、そっとその口を開く。


「――クラシックが弾けなくなったのは、いつからですか?」


「っ、」


 それは、彩音にとって負の感情に冷え切った心を溶かす温かな時間を終わらせる言葉だった。


「踏み込んだ質問をしているのは分かっています。…でも僕は、あなたにあんな顔をしてほしくない」


「………」


 思いもよらない問いに、彩音は戸惑い、答えを失ってしまった。


 誰かに話して楽になりたい。――でも、自分の痛みが他人に分かるわけがない。


 この人なら、救い上げてくれるかもしれない。――でも、期待を裏切られて余計な苦しみを知るだけかもしれない。


 もう一度、クラシックを弾けるようになりたい。――でも、本当は弾けなくなって安心しているんじゃないの?


 この人の優しさに縋りたい。――でも、この先もずっと会える保証なんてどこにもない。


「――っ」


 ぐるぐると心の中で渦巻く感情に、彩音はテーブルの上で自分の拳を強く握る。手のひらを刺す痛みで自分の正気を取り戻すかのように固く、握りしめる。


「…彩音さん、」


 そんな彩音の手を労わるように、真綿で包み込むようにそっと、彩人の手が重ねられた。


「…そんな風に、自分を傷つけないでください。僕が余計なことを聞いてしまったせいで…すみません」


 優しく手を取られ、拳をゆっくりと解かれる。そうして爪痕が残るその手のひらに、彩人は自分の唇を軽く押し付けた。


「な…っ」


 驚いた彩音が思わず手を引こうにも、意外にもその手はしっかりと握られていて。目の前の彩人の視線はどこか、熱っぽさを孕んでいるように見えた。

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