融解

 そんな彼を、


「ねえイルさん、ちょっといいかしら」


 呼んだのはアリィだった。


 彼女に手招きされ、少し離れた場所で向かい合う。


「どうし、た――ました?」


 メリクはさらに離れた場所で虫の観察をしている。固くなって話すイルに、


「あなたさっき、魔王を倒すって言ってたわよね」


「ア? だったらなンだよ」


 アリィがそう言い、彼はほとんど反射で返事をした。


 彼の語気が荒くなったのは魔人への恨みからだけではない。


 魔王を倒す。そしてこの千年続く戦争を終わらせる。


 それは彼の夢であり人生を掛けた目標だった。けれど真面目にそれを語れば語るほど――周囲との距離は開いていった。


 遠巻きにこちらを見る目。そこに浮かぶのは嘲り、あるいは憐みだった。

 ヒソヒソと小さく話す声。そこに込められるのは軽蔑、あるいは同情だった。


 八歳で生まれ故郷を失くして、そこから十年。この話を真剣に聞いてくれたのは片手で収まるほどの人数しかいない。


 今のところアリィから馬鹿にされる雰囲気は感じないが――次になんと言われるかはわからない。これまでの経験からイルは身を固くした。


 そして彼女はそんな彼の両手を握り。


「!? え、あ!?」


 動揺し思わず身を引こうとするイルの目を真っ直ぐに見つめて、


「今まで、大変だったわねぇ……!」


 瞳をうるませ涙ぐんだ声でそう言った。


「子どもの時に魔人に村を壊されて、それで、妹さんとふたりで今まで生きてきて――それで、魔王を倒すなんて、」


「…………」


 突然のことに驚き火照った身体が、急激に冷めていくのをイルは感じていた。


 いきなり手を掴むからなンだと思ったら、結局この女も他と同じだ。


 彼女が次に言う言葉なんて分かりきっている。「無謀なことはやめなさい」とか「せっかく助かった命なんだから大切にしなさい」とか「ご両親はそんなこと望んでないわ」とか、そんなところだ。


 それを言うなら彼女もあの賊と大差ない。この十年でそんなことは何千何万回と言われてきて、それでも自分はこの道を進んでいるのだから。


 大樹に雪が降り積もる。灰色のそれに閉ざされそうになった時、


「そんな途方もないこと、私にはできない……。だからお願い。魔王を倒して! 姉の仇をとって!!」


 アリィの言葉は春一番のように雪を吹き飛ばした。


 唖然とする彼に彼女は言葉を、自分の想いを紡ぐ。


「自分じゃなにもできないくせに、こんなの虫のいいお願いだってわかってる。だけど――、魔王を倒すなんて言う人、私は初めて出会った。口だけじゃなくてちゃんと強さもある人に。だから、お願い! 私の代わりに魔王を討って! 姉の仇をとって、この戦争を終わらせて!!」


 そう言って手を放し、一歩下がって深く頭を下げる。肩から垂らした長い三つ編みが地面に触れるくらい、深く。


 その姿に雪が融かされる。


 冷え切った身体に暖かい血が巡っていく。


 融けた雪が溢れてしまいそうになって――イルは奥歯をぐっと噛み締めた。


 それを溢れさせたら胸の奥がドロドロに融かされ、自分が自分じゃなくなってしまうような気がしたから。


 思えば、こんな風に「魔王を倒してくれ」と言われたのは初めてだった。


 魔王を倒す。そしてこの千年続く戦争を終わらせる。


 その話を真剣に聞いてくれた片手で収まるほどの人たち。その中のひとりはこう言った。「まあ、いいんじゃない」と。


 護衛組合の仲間のその人は、自分の指の先をいじりながら、「きみに復讐が向いてるようには思えないけど。まあ、きみの人生だし。おれがとやかく言うことじゃないでしょ」と、いかにも興味なさげに続けた。それからふと顔を上げて、「でもこの国はどこかおかしいよね。だから復讐に燃えるきみにお兄さんからひとつ助言アドバイス。それは外の世界を見てからでも遅くはないんじゃない?」とこちらを見つめてきた。小麦みたいな金色の髪の中で、真っ青な双眸をにこりと細めて。いつものように、腹の見えない笑みを浮かべて。


 その台詞はもしかしたら彼の優しさだったのかもしれない。自分から危険な場所に飛び込む必要はないという。けれどその時のイルは納得できず、「それじゃ遅ェンだよ」と返してその話は終わりになった。


 またあるひとりは、「ならば私も共に行こう」と言ってくれた。真っ赤な髪を一撫でし、明るいこげ茶色の目でこちらを見て。「私個人は特に魔人に恨みはないが――戦争をするならひとりという訳にはいかんだろう。戦闘面で、私がお荷物になるということはないと思うが。どうだ?」


 イルの通っていた学院の後輩である彼女は、実際強く、この旅の途中までついてきてくれた。


 けれどどんなに大義名分を掲げたところで、自分がやろうとしているのはただの復讐だ。魔人に恨みがあるわけでもない彼女を付き合わせることにはずっと疑問があった。


 それになにより――「共に行こう」と言ったときの、彼女の目。


 真っ赤な髪しかり、彼女は目立つ容姿をしていて外見の特徴ならいくらでも挙げられた。しかしイルにとっては溌剌はつらつとした瞳が印象的だった。常に快活な光を浮かべ、見るだけで相手を圧倒するような、強い意志を宿した大きな目。


 その目に一切の光がなかった。


 普段は赤に近いような明るいこげ茶色の瞳なのに、その時は真っ暗に影が落ちていた。どこか虚ろな視線は、まるで自分を見てはいなかった。


 その姿は、まるで、死に場所を探しているようで――彼女を最後まで連れていくことはできなかった。


 ――だから。だから。


 ひとりでガムシャラに走ってきたイルにとって、その言葉は大きな衝撃だった。魔人を、魔王を倒すことを、期待され頼まれるのは今までにないことだったから。


 そしてその衝撃は、ひどく心地のいいものだった。


 溢れたそれにドロドロに溶かされ、自分が自分じゃなくなってもいいんじゃないかと思えるほどに。


 その誘惑を「俺はまだ魔王を倒してはいない」という理性でなんとか踏み止まる。この国には自分と同じように魔人によって苦しめられている人がきっといる。なにより、期待されたのだから応えなければと。


 青年は姿勢を正し、深く息を吸った。


「あァ。任せとけ。必ずアンタのお姉さんの仇をとってみせる」


 真っ赤になった目をしばたかせてイルはゆっくりと頷き、その姿にアリィは少しだけ微笑んだ。


 ありがとうと礼を言い、それから背伸びをして彼の耳に口元を寄せる。全身を固まらせる青年をどこかかわいらしく思いながら、


「私の名前ね。アルバリっていうの」


 小さく囁く。背伸びをやめて一歩下がった彼女の顔を、イルはまじまじと見つめていた。


「アンタ、それ……」


「いいのよ、これくらい」


 アリィは微笑んだが――その笑みはどこか悲し気でもあった。


 彼女はわかっていた。自分の言葉は、きっと彼にとって枷となるだろう。


 イルと出会ってそう時間は経っていないが、それでも彼の人柄は透けて見える。努力を重ねて強さを身につけるくらいに真面目で、魔王を倒すと宣言するくらいに正義感の強い彼は、きっと約束を違えることなどしないだろう。


 どれだけ傷だらけになっても、どれだけ心が折れそうになっても。きっと約束を果たそうとするだろう。


 それがどれだけ残酷なことかわかっているから――、ごめんなさいと思いながらありがとうと吐き出した。


 そんなアリィの気持ちには気づかずに。


 イルは真っ直ぐにアリィの瞳を見つめた。アリィの瞳――いや、さらにその先、この旅の終着点を。


 そして真名を明かしてくれた彼女に向かって、改めて自分の名を名乗る。


 イルの声は特別大きいわけではない。聞き取りづらいわけではないけれど、終始あまり感情の乗らない、冷静で低い声だった。


 それが、あるひとつの話をするときだけ明らかに変わる。


 魔人。魔王。


 十年前自らの故郷を滅ぼした憎き敵。


 普段よりさらに低くなる声。ザラリとした声質。努めて冷静でいようとしているのに、端から漏れ出るドロリとした感情。


 それが向かう先はただひとつ。見つめる視線の先にあるのは異形の国。


 テウメスに住む魔人と、その長たる魔王だけ。


 雪の積もった大樹のような瞳を真っ赤に燃やし、青年は再び宣言する。


「俺の名はアルタイル。魔王を倒して、千年続くこの戦争を終わらせる男の名だ」

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