過去

 ♢ ♦ ♢


 暗い。廊下だろうか。頭が痛いし、いつもより重い気がする。視線を下に向けると、まだ幼い自分の手が見える。


 瞬間、これは幼いころの自分の記憶だとイルは理解する。夢でも幻覚でもなく、十年前自分の身に起きたこと。


 「今」の自分の意思とは関係なく、幼い自分の思考と行動は進んでいく。


 痛む頭に手を当てようとして、その前に額のあたりでなにかにぶつかった。


 固い。


 興味本位でぺたぺたと触ってみる。それはどうやら自分の額に繋がっているようだった。


 両の眉毛の上にひとつずつ、合わせてふたつ付いている。


 額。

 固い。

 二本。


 ちらちらと頭の中に嫌な予感がちらつく。そんな姿の存在を自分は知っているはずだった。


 それを否定したくてぶんぶんと首を振る。頭の重さに引っ張られて、いつもより勢いよく首が動く。


 違う! 違う!!


 不安に駆られて走り出す。途中でキラリと何かが光った。鏡だ。


 一度通り過ぎてから慌てて止まり、後ろ歩きでゆっくりと戻る。


 ――見てはいけない!


 心のどこかが叫ぶのをはっきりと聞き取りながらも、幼いイルはその銀色の湖を覗き込んだ。


「……あ。ああああああ!!」


 大声で叫んだつもりだけれど、もしかしたら掠れ声しか出ていなかったかもしれない。


 真っ直ぐに手を伸ばし、よろよろと数歩進む。右手が鏡の表面に触れた。


 冷たい。ツルツルしている。


 今度は横から自分の頭に触れる。


 温かい。灰色の髪の毛は相変わらずボサボサだ。


 その手を前にずらす。


 触ったこれは、固い。


 額から斜め上に伸び、途中からわずかに湾曲している。根元は太く、先端は細く。そんなものが、顔の中心から左右対称に二本。


 それ・・は――どうみても、山羊の角で。


 そして、額から山羊の角をはやし人間の姿をした生き物と言えば。


「魔人……角山羊族……」


 イルは呟き、同時に視界が真っ暗になった。




 ♢ ♦ ♢




 頭が痛い。


 いや、頭だけではない。腕も、足も、擦り傷とあざだらけで。身体中が痛い。息が上がって、呼吸することさえ簡単ではない。


 見下ろした身体の大きさで、またしても過去の記憶だとわかる。


「――逃げないと」


 幼いイルは呟き、重い身体を引きずりだした。


 直前の記憶はうまく思い出せないのに、自分が追われているということだけははっきりとわかった。捕まってはいけないということも。


 暗く長い廊下をゆっくりと進む。ひたひたと自分の足音が微かに響く。


 ここはどこだろう。とてつもなく大きい建物だ。豪邸、いや、城と言った方が正しいのかもしれない。


 これだけ広い建物だが、ほとんど人気を感じない。シンと静寂に包まれている。


 それなのに。


 それなのに、なにかに追われているという感覚だけははっきりとしている。ときおり誰かに見られている気がして振り返るが誰もいない。


 不気味に思いながらズキズキと痛む額に手をやって、ふと違和感に気が付いた。


 いつもなら、自由に跳ね散らかった髪がチクチクと手に刺さるのに。今は顔を洗った後みたいに、ぺたりと肌に張り付いている。それに、この二本の突起はなんだ? 自分の額から生えているのか?


 ――あれ。この感じ、前も。


 どこか既視感デジャブを感じる。けれどその違和感について、深く考えてはいけない気がして。


 反射的に額から手を離す。下ろした手のひらを見て、イルは数秒固まった。


 それはもう、成長した「今の」イルにとっては見慣れたものだったけれど。まだ幼い自分には、およそなじみのないものだった。


 血だ。それも、手のひらに溜まり指の間から滴り落ちるほどの量の。


 ――そりゃあ頭が痛いワケだ。


 どこか他人事みたいにそう思ったとき、ゾクリと背筋が粟立った。


「はーあ。やっと捕まえられる」


 その声に、恐る恐る振り返る。


 男だ。若くはなさそうだが、おじさんと呼ぶほどの歳でもない気がする。三十歳くらい、だろうか。周囲を舞う青い燐光で空間魔法を使ったのがわかる。子どもでも知っている、有名な魔法。


 その青い光に輪郭を縁取られたまま、そいつはのしのしと近づいてくる。


 じりじりと数歩後ずさったところでイルは気が付いた。気づいてしまった。


 大股で歩いてくる魔法使いの男。その歩みに合わせ、彼の後ろでなにかがバサバサと揺れていることに。


 暗い灰色で固い毛並みに覆われたそれは、そう、まるで、狼の尻尾みたいで。


「あー、お前。角折りやがって。俺は知らないけどさぁ、受容器作るのだって大変らしいぜ? こんなボロボロにしやがって。脱走するわ角折るわ、まったく手のかかるガキだ。適合者なんて随分幸運なことなんだぜ? ほら、さっさと魔王様のところに戻るぞ」


 魔王様。


 その言葉で、目の前の男はただの魔法使いではなく、魔人だということが決定的となり。


「ひっ。う、わあああ……。来るなっ。うわあああああああああああ!!!!」


 イルは背中を向けて逃げ出した。


 元々傷だらけな上に、頭から血を流している状態だ。何度も足がもつれ転びふらりと意識が遠くなったりしたが、それでも走り続けた。


 それを魔人は、


「おいおい逃げるなよー。ちょっと眠って、目が覚めた時には俺たちは仲間なんだぜ? あーでも、俺は尾狼でお前は角山羊だからなー。仲間ってほど仲良くはないか?」


 大股ではあるけれど、なんら急いではない速度で。必死でもなんでもない感じで。悠々と後を追ってきた。


「あ、つーかそもそも、お前が目覚めるのは今から数十年後になるから、きっと俺が死んでからだなぁ。あーあ、それじゃあ仲間になれねぇか」


 ――ヤバイ、ヤバイ。このままじゃ捕まる。逃げ切れるワケがねェ! どうする、どうすれば……。


 たとえ相手が魔人じゃなくたって、この体格差で追いかけっこをすれば自分が負けるのは目に見えている。


 策はなにも浮かばないまま、十字路が見えて咄嗟に横の道に飛び込んだ。


「こっちだ」


「!!」


 道を曲がった途端、誰かに腕を引っ張られ真っ暗な部屋に引きずり込まれた。反射的に叫ぼうとしたがその前に口を覆われる。


「しっ、静かにしろ」


 低い声で囁かれる。


 ここで暴れた場合と、暴れない場合。自分の身がより安全なのはどちらの場合か。


 一瞬だけ考え後者に賭けたイルは、その声におとなしく従った。


「つーかさー。お前、いったいどこに逃げるつもり? この魔王城を出たって、外は俺たち魔人の国だぜ? 万が一お前の故郷に戻れたとしてもさぁ、その角をいったいどう説明するんだ? そのまま人間の国に戻ったって、そこでお前は魔人として殺されるだけだろ? だからさ、大人しく受け入れろって。もうお前に帰る場所なんてねぇ、ぞ……?」


 部屋の外から尾狼の困惑する声が聞こえる。次いで、ガチャガチャと片っ端から扉を開けようとする音。


 ガチャガチャ。ガンガン。ドンドン!


 イルの潜む部屋がひと際派手に叩かれる。扉には鍵がかかっているようで、けれど魔人ならそんなもの簡単に壊せそうなものなのに、そいつはそうしなかった。


「ちっ、あのガキどこ行きやがった。城を壊すのは禁則事項に触れるし……。クソッ!」


 魔人の足音が遠ざかる。


「……行ったようだな」


 言葉とともに、ポウ、と魔法の光が灯る。


「……受容器を壊したのか。作るのも大変なのだが……まあいい。自ら目覚める精神力にそこから逃げ出す行動力。そして追ってきた魔人たちから逃げ延びる強さ……。君はこの戦いを終わらせる光になるかもしれない」


 謎の声がそう言う中、イルの意識はぼんやりと薄くなっていった。

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