額当て

「――ハァっ! ガハ、ゲフ……」


 切りそろえられた黒い髪を揺らし、魔王は弾かれるように顔を上げた。目の前の人間の記憶の旅から帰ってきたのだ。


 鼻からは血が流れ、机の上に四つん這いになってさらに口からも血を吐き出す。痛々しいその姿に尾狐は眉を寄せた。


「ゲホ、ゴホ……。くそ、読取阻害魔法プロテクトがかかってる。それもこんなに強いなんて……」


「まおーたん、無理やり読取阻害魔法プロテクト壊したの? それも十年前なんて深いところ。それはよくニャいよー。ほら、あれ見てよ」


 手足を机についたまま顔だけ上げる。尾狐が指したのは人間イルで――、


「……あ…………ターシャ……みんな…………燃え……燃え、て…………ああ……助け、なきゃ…………」


 精神魔法を掛けられると、その後精神障害等の影響が出る場合がある。


 俯いた目は焦点が定まらず。

 うわ言をこぼす口からはしまりなく涎を垂らし。


 イルの心は十年前のあの日・・・から帰れなくなっていた。


「あ、そんな……! どうしよう、戻さなきゃ……」


 鼻と口を拭い立ち上がろうとする。その魔王の前に、尾狐は立ちはだかった。


「ニャンニャン。まおーたんはそこで見ててよー。もう今日は魔法を使わせニャいよ」


「で、でも……僕がやったことだ、僕が戻さなきゃ……」


「ニャハハハハハ! 色んなヒトが精神魔法をかけるともっと精神が崩壊しやすくニャるって? 安心してよぉ、ボクはそんなドジ踏まニャいニャン」


「そうじゃなくって……」


精神魔法パープル尾狐族我々十八番おはこ。安心して見ていてくださいな」


 魔王に有無を言わさず尾狐はイルに右手をかざす。サラサラと唱える呪文とともに魔法陣が構築されていく。細く繊細な線で描かれた、複雑な式の魔法陣。


精神修復魔法メンタルセットアップ


 少年とも少女とも取れる声に従い、魔法陣は淡い紫色の光を放ってイルを包み込んだ。光は少しの時間イルの身体全体を覆って、その頭の中にゆっくりと吸い込まれるように消えていく。


 数秒かけて光の粒がすべて吸い込まれ、


「…………う。ここ、は……。魔王城、か……」


 ぼんやりしていた目の焦点が合う。唾を飲み込み、イルはようやく現実に即した言葉を吐き出した。


「よかった……戻ってきた……。助かったよ、メイ」


「ニャニャーン。まおーたんからお礼を言われる日が来るとは、光栄だニャア」


 机に座り込んでいた魔王に尾狐は尻尾を一振りした。そのまま彼の後ろに下がる。


 過去の余韻から抜け出したイルは自分の口元がびしょびしょなのに気付いて肩で拭った。机の角を見つめて呟く。


「あれが十年前の記憶……。じゃあ、オマエの話は本当に……。俺は……」


「そういうこと。思い出してくれてなによりだよ。――じゃあ、思い出したついでにさ」


 魔王は立ち上がりまたイルに近づいた。腰を屈めて手を伸ばす。


これ・・、よく見せてよ」


 額当て――特徴的な意匠が付いた額当てにその手が近づく。


 金属部分に指先が触れ、こつりと音がする。


「――さ、触るな!」


 イルは反射的に叫んで身を引いた。


 何かよくわからないけど――嫌な予感がする。それに触れられたら、見られたら、よくない事が起こる気がする。


 冷や汗を流して固まるイルを、魔王は不思議そうに見つめ返した。


「うぅん? 君は何を恐れているのさ。君が魔人であったことを僕は知っている。だからこれを取られたってもういいだろう? ほら、貸して」


 言葉とともに魔王は額当てを掴み、手前へ引っ張った。拘束されたままのイルは抵抗もできず、数本の髪の毛とともにそれは奪われた。


「止めっ――」


 そして。


 額当てがイルの身体から離れたのと同時に。


 ――ゴウッ!!


 突如としてマナが吹き荒れ、ひとつの魔法となって魔王に襲い掛かった。


(――そうだ、いつもそうだった。誰かが無理矢理この額当てに触ったり取ったりしたら、マナが吹き荒れて、その直前の――俺と会ったことを・・・・・・・・忘れちまう・・・・・ンだ)


 唐突に「嫌な予感」の正体を思い出し拳を握る。


 そして魔王は、


「――ああ。これか。君が恐れていたのは」


 呟き、小枝を振った。


「天上住まう精霊ども。僕を誰だと思っている。僕に向けていいのは愛だけだ」


 虫を払うかのような動きに合わせて、次第にマナが落ち着いていく。


 元のように静まった部屋の中で魔王は改めて額当てを検分した。


 その最中の彼に、イルは恐る恐る声を掛けた。


「オマエ……。平気なのか?」


「うん? 当たり前でしょ。言ったろ、僕に魔法をかけられるのなんて世界に五人もいないって」


「そ、そォか。……今のも精霊魔法スピリットマジックなのか?」


 他人が額当てに触るとマナが吹き荒れ、なぜか相手はその直前の記憶を失う。これまではその程度の認識だったが――目の前で精霊魔法スピリットマジックを見せられた今なら、これもその類なのだとわかる。


 イルの言葉に魔王は頷いた。


「んー、そうだね。この額当てには目くらましとか記憶消去とか、いくつかの魔法が掛けられてる。精霊魔法スピリットマジックは強力だけど範囲が大味になりがちだからね。君にもいくらかかかってるんじゃないかな」


 しゃがんで額当てから目を離さないまま答える。


 そしてそのままぶつぶつと、


「けどこれは相当高度な術だ……。精霊との交信は音声でやるのが普通だけど、これは文字として刻んで契約を成してる。それに装着者の魔力を媒介とすることで長期間の継続効果を……。この額当てを作ったのは先代様で間違いない。発想としては初代様の呪いと同じだけど……こんな高度な技を使えたなんて……」


 額当ての裏に刻んである文字をなぞりながら考えこむ。


 そこに声を掛けたのは尾狐だった。


「ニャニャーン。まおーたん、そこで止まってたら話が進まないよぉ。まだこのニンゲンに何をしてほしいのかも言ってないニャン。あんまりルイたんを待たせるとサボってどっか行っちゃうんじゃニャーい?」


「……うん、ああ。そうだね」


 立ち上がった魔王は思い出したように尾狐を見た。


「メイは何か知らない? 君、もともと先代様付きだったろ」


「……さあ。先代様もボクらに全部話すわけじゃニャいだろうしニャア。ニャンにも聞いてニャいニャン」


「……ふうん。そっか」


 魔王は目を細めて額当てをぐるぐると振り回した。それをイルの右手に置く。


「返すよ。あった方がいいとは思うし」


「あ、あァ……」


 そして魔王はまた椅子まで戻って腰を下ろした。

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