魔人と魔王とシリウス教
宿屋二階。自分にあてがわれた寝室で、イルは椅子に座って明日以降の行動を考えていた。
天井には照明魔法のかかった
(起きたらすぐにここを出る。街の西からはアダラ行きの馬車が出てるからそれに乗って。夜までには着くだろ。入るのに問題もねェし。出るのも……ある程度は目星がついてる)
ふう、とため息をつく。
明日の朝は早い。こんなのわざわざ夜更かししてまで考えるほどの予定でもない。けれど妙に目が冴えて寝付けなかった。暖かい羊の乳でもあれば飲みたいところだが、残念ながらその準備はない。
自分が緊張していることを自覚して思わず笑ってしまう。まだ前線都市ですらないのに、こんな調子で大丈夫だろうか。
(シリウス様や十輝星の方々も――魔獣討伐の前日はこんなンだったのか?)
そうであってほしいと思いながら、ぼんやり過去の英雄たちに思いを馳せる。
今夜は月が明るい。照明魔法など使わなくてもいいほどに。
開け放した窓から月の光が入り込み、伝説に浸る青年の横顔を青白く照らしていた。
♢ ♦ ♢
今から千年以上前、魔人が現れる前の話。
この辺りには今よりずっと大型で強力で多くの魔獣が闊歩していた。知能も高く、マナを操り魔法を使うものもいた。しかし人々の間で魔法はまだ体系化しておらず、魔獣になす術もなく怯える暮らしだった。
その渦中に誕生したのが教祖・シリウスだ。
彼を表す肩書きは「教祖」だけではない。ある時は「魔獣殺しの勇者」、ある時は
そんなシリウスは成長してからはもちろんのこと、生まれた時から数々の伝説に彩られていた。
曰く、母の胎から出た瞬間、どこからともなくドラゴンが舞い降り頭を垂れた。
曰く、彼が朝目覚めるたびに精霊たちが祝福の火花を散らした。
曰く、人語を喋るようになるより先に、精霊たちから魔法の使い方を教わった。
曰く、曰く、曰く――。
いったいどこまでが真実なのかはもうわからないが、彼の伝説を語りだしたら百の夜でも足りないくらいだ。
そして成長し青年となったシリウスは魔法を伝え歩き、その道中で得た仲間の魔法使い十人と共に魔獣討伐を行った。彼らの戦いによって大型の魔獣は消え去り、この世には安寧が訪れた。
これが俗に言う「シリウスと十輝星の魔獣討伐伝説」だ。
その最中彼らは大いに活躍し、民衆からはその
♢ ♦ ♢
(そして平和になるかと思いきや、今度は入れ替わるように魔人が現れた、か――)
青年は立ち上がり、なんとはなしに窓の外を眺めた。
もうすっかり夜も遅い時間だ。通りには誰もいない。――と思っていた。
誰もいない通りを、楽しそうに歩く子どもがいた。
その後ろ姿がイルも知っている誰かによく似ていて。
(――メリク?)
目を凝らそうとしたとき、雲に隠れて月の光が消え去った。
♢ ♦ ♢
シリウスや十輝星関連の書物は星の数ほどあるが、シリウス教教典においては魔獣討伐までの話はほんの序章に過ぎない。
そしてその残りの大部分に書いてあるのが、魔人がいかに悪辣卑劣残虐無比で憎むべき存在であるか、ということだ。
魔人。
そう呼ばれる所以は、人間のような姿で魔法に長けているからと言われている。あるいは、魔獣と人間の両方の特徴を持っているからとも。
彼らは一見ただの人間のようにも見えるが、獣のような角や尻尾や翼を持つ、恐ろしい異形の存在だった。
シリウス魔法教会によれば魔人には十の種族があり、種族ごとに
超長距離からの狙撃魔法を得意とする翼竜族、幻術系の魔法を操り夢幻の森の管理者でもある尾狐族、人と植物を融合させるおぞましい魔法を使う角山羊族――。
そして彼らを束ねる絶対的支配者――
魔人は人間を襲い、人間は自らを守るためにそれに対抗した。そうして始まった戦争はもう千年近く続いている。
それだけ長く続いているのに、「魔王」の存在は曖昧で、未だ伝説の域を出なかった。
なぜなら長らく魔人との戦争を主導しているシリウス魔法教会が、正式な声明を出していないから。教会が声明を出さない理由は、魔王の存在を確認した人間はおらず、確たる証拠がないから。
その言い分はもっともだし、そもそもこの国の人間は皆シリウス教を信じている。
だから公の場面で「魔王はいると思うか?」などと聞かれれば言葉を濁すが、話のタネとしては恰好の話題だった。
七百年前の大侵攻の時に魔人がその存在を口にしていたとか、普通に考えてあれだけの規模になればそれをまとめる
また、悪の頂点として創作物にはよく登場していて、それにはたいてい、魔人たちの角や翼などの特徴を全て併せ持つ怪物としてかかれていた。
心から信じている者などほとんどいない。酒の肴にちょうどいい。
「魔王」の存在なんて、そんな程度のものだった。
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