異変

 階段へと続く廊下は照明が少なくぼんやりと暗い。先ほどまで明るく騒がしかったのもあって、より一層静けさが際立っている。


 しかしその静寂は考えに浸るにはちょうどよかった。イルは先ほどの奇妙な既視感に思いを巡らせた。


 あれはメリクに魔法を見せて――いや、教えている時に起きた。しかし何かが違った気がする。


 おぼろげな記憶を必死に手繰り寄せる。


(――そうだ、立場だ。俺は魔法を側だった。けど、誰に――?)


 無意識に額に手を当てながらゆっくりと階段を上がる。


 魔法を教えているのだから、順当に考えれば教会の人間のはずだろう。けれど――本当にそうだったか?


 考えれば考えるほど、頭の前の方がズキズキと痛んでくる。イルは顔をしかめた。


 そもそも、あれはいつのことだろう。


 自分が魔法に関する膨大な知識を覚えたのは学院に入ってからだ。けれどそんなここ数年の記憶ではないはずだ。もっともっとずっと前、もしかしたらまだエダシクに住んでいた頃の――。


「あれ、イルさん。もう寝るの?」


「あァ。メリクか」


 下から声を掛けられイルは振り向いた。


 暗い静寂の中、どっぷりと物思いに沈んでいて――だから彼は気づかなかった。


 メリクは自分のことを「イルさん」とは呼ばないことに。


「ねえ、魔王を倒しに行くんでしょ? いつ出発するの?」


 無邪気な目で見上げられイルは答えに窮した。


 玄関街・ラスタバン。この街に来てからもう十日だ。


 当初はこんなに長く留まるつもりはなかった。必要な装備を整えたらすぐに発つつもりだった。ここに来るまでに立ち寄った他の街と同じように、一日二日、どんなに長くても三日程度で。


 それがどうだ。組合の依頼をこなす人がいなくて困ってるから、メリクが寂しがるからと――。何かと理由をつけて先延ばしにして、気づいたらこんなに経ってしまっていた。


 怖気づいたわけではない。魔王を倒すという気持ちが消えたわけではない。


 けれどなんだか――ここ数日の日々は異様に名残惜しかった。


(けど、いつまでもここにいるワケにはいかねェ。アリィさんとも約束したし、もう俺だけの問題じゃねェンだ。しっかりしねェと)


 ここは玄関街。いつかは扉に手を掛け、旅立って行かねばならない。


 イルは深く息を吸った。


「――明日だ。明日の朝早くに発つ。……だから」


 階段を降り、しゃがんでメリクと目を合わせる。


「今日でお別れだな。……全部終わったらまた戻ってくるから。メリク、ちゃんとおかみさんの言うこと聞いて、いい子にしてるんだぞ?」


 「やだ、行かないで!」とか「僕も一緒に行く!」とか言われることを予想していた。あるいは泣き出してしまうかもしれないと思っていた。


 この数日で彼は随分自分に懐いていたから。そしてそれはイルとしても居心地がよく、弟ができたように感じていた。


 けれどメリクはイルのことも見もしなかった。暗い目で横を向いて、


「……そう。わかった」


 とだけ言ってどこかへ駆けて行った。


 唖然としながら、


「急に明日発つなンて言ったら……まァああなるか……」


 もっと時間をかけて別れの準備をしておけばよかった。


 少し後悔しながら、イルは暗闇に溶ける少年の後ろ姿を見送った。




 ♢ ♦ ♢




「メリク、どこ行ってたの。片付け手伝いなさい」


 すっかり夜も更け酒場の客が皆帰った頃、アリィは先ほどの青い薔薇をじっと見つめる息子に気が付いた。


 あの薔薇は玄関から入ってすぐ、一番よく見える位置に飾ってある。一輪だけだけれど、魔法でできているからだろうか。妙に存在感があった。


 もともと魔法やシリウスの冒険譚が大好きな息子のことだ。剣を振るい魔法を自在に操るあの青年に憧れるのは無理もない。


 息子は彼によく懐いていたし、青年も――あの鋭い目つきからは信じられないくらいに――子どもの扱いが上手かった。昔は幼い妹の世話をよくしていてそれで慣れているらしい。傍から見れば、ふたりはまるで小さい頃から一緒に遊ぶ親戚のようでもあった。


 けれどそれはそれとして、家の仕事は手伝ってもらわねばならない。


 変わらず薔薇を見つめる息子にアリィはもう一度声を掛けた。


「メリク。聞こえなかった? お皿洗うの手伝ってー」


 少年は今度はゆっくりと振り返り、こちらへ歩いてきた。


 その様子にアリィはホッと胸をなでおろす。メリクはわんぱく盛りでたまに言うことを聞かない時もあるが、基本的には素直で自慢の息子だった。


 彼は近づき、そしてアリィにこう言った。


「うるさいな。僕に指図しないでよね。もう寝る」


 ――ガシャン。


 薄暗い台所に鋭い音が響く。それはアリィの手から力が抜け、皿が滑り落ちた音だった。


 それが聞こえていない訳がないのに、少年は振り返ろうともせずに黙って寝室へと向かっていく。


 メリクだってまだまだ子どもだ。当然、言うことを聞かなかったり駄々をこねたりすることはこれまでだってあった。


 けれどあんな言い方をしたことはないし、いつもならアリィがうっかり皿を割ると「大丈夫!?」と駆け寄ってくれていた。


 ――それに、あの目。


 下から睨むようにこちらを見ていたその瞳は、夜の湖面みたいに暗く、深く、静かで――まるで息子じゃないみたいで。


「は、反抗期かしら……」


 動揺したまま顔を上げると、あの青い薔薇が目に入った。


 アリィは微かに震える両手を握って、祈るようにそれを見る。


 ――けれど。


 先ほどは力強く咲き誇っているようだったそれも、薄暗く誰もいない部屋の中ではポツリと頼りなく見えた。


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