アルタイル

 アリィの涙が落ち着いた頃、


「あ、あの……アリィ、さんの、お姉さんの子どもの、呼び名って……」


 イルはぎくしゃくと話しかけた。


 見知らぬ人間が突然泣き出したらそうもなるだろう。アリィは顔を拭き、努めて明るい声を出した。


「ごめんなさいね、十年経つのに、まだ心の整理も付かなくって……」


「いえ……俺も、妹がいる、ます。奇跡的に妹も無事だったけど、もしアイツも死んでたらと思うと――」


「まあ! 妹さんも助かったのね、よかったわあ!」


 自分のことでもないのにアリィの顔が輝く。


 イルは少しだけ赤くなって目を逸らし、同じ質問をもう一度した。


「あの、お姉さんのお子さんの呼び名は……? もしかしたら知ってる人かも……」


「ああ、ごめんなさいね。姉の息子、つまり私の甥はね、兄弟だったの。呼び名はジャックとニール。ふたりとも元気で、やんちゃな子たちだったわ……」


「ジャックとニール……!」


 青年はまた目を見開いた。彼の灰色がかった緑色の瞳に柔らかい光が灯る。


「覚えてる。そのふたりは友達だった。俺、子どもの頃の記憶はものすごく断片的にしかねェけど……。そのふたりの記憶は残ってる。きっと仲がよかったンだ」


「本当に……!?」


 アリィは思わず口元に手を当てた。


 あの事件から十年経つ。姉一家はその時に死に、もはや甥たちのことを覚えているのは自分だけではないかと思っていた。


 そうではないとわかっただけで。


 不思議とこんなにも心強い。


「もう、あの人たちの話をできる人なんていないと思ってた……。あなたが生きててくれてよかった……!」


 再び涙ぐむアリィに遠い目をしてイルは言う。


「俺も、アンタと会えてよかった……。待ってろよ、アンタのお姉さんやジャックやニールの仇は俺が取る。俺は魔王城に行って、必ず魔王の首を獲る! そンでこの戦争を終わらせてやる!」


 その言葉にアリィが何か言う前に、


「はっ、『魔王を倒して戦争を終わらせる』だあ? できるわけねえだろうが!」


 声を上げたのは賊の頭だった。


 青年に殴られ気絶していたのがいつの間にか目覚めたらしい。縛られ地面に転がったまま、苦々しげに声を出す。


「たったひとりで魔王を倒すだと!? ふざけるんじゃねえ。お前ひとりで魔人を殺したことでもあんのかよ、ねえだろ。前線にでて夢幻の森にでも行かなきゃ仇の姿を見ることもできねえもんなあ。それさえできねえくせに、よくもまあそこまで堂々と夢を語れたモンだな、えェ!?」


 他人を小馬鹿にするように騒ぎ立てるそれは、ただの負け惜しみだったのかもしれない。自分をこんな目に合わせた相手に、せめて精神的苦痛を与えてやろうという。


 けれど青年はゆらりと立ち上がり。


 背中に剣を背負ったまま、一歩また一歩と彼に向かって歩を進めた。


 賊は一瞬怯んだものの、またすぐにギャアギャアと言葉を吐き出した。


「大体、魔人どもをぶっ殺したいならどうして軍に入らない!? 復讐したいなら軍人になって前線に行くか教会に入って指揮を執るかだろうが! お前は魔法使いカラーじゃねえか、軍に入れないわけねえ。なのになんでそうしない!? テウメスへ行くだの魔王を倒すだのほざいておいて、結局現実から逃げてるじゃねえのか!?」


 賊は青年を見上げて叫ぶが、イルの表情はよく見えない。後ろからの陽射しで彼の顔には真っ暗な影が落ちていた。


 深く暗く黒い影は、何も言わずに彼のことを見つめていた。


「――はっ。これだけ言われて言い返さないとは、図星か? 結局お前は、大口を叩くだけのただの無力なガキだったというわけだ」


 青年はもう目の前に来ていた。立ち止まって、静かに自分のことを見下ろしている。


 その姿が、態度が、さらに賊の心を逆撫でた。


 自分の言い分は何も間違っていないはずだ。魔人を倒したいなら軍にいけばいいし、それをしないのは逃げている証拠だ。


 なのに、静かに見つめられると自分の方が間違っている気になってくる。それを振り払うように賊はまた怒鳴りつけた。


「なぜ何も言わない!? お前は自分の進んだ道が間違いだったと認めるのか、アァ!?」


「――言いたいことはそれだけか」


 やっと聞こえたイルの声は、低く、小さく――、本当は何も言いたくないのに、どうにか一言だけ振り絞ったようだった。


「随分滑稽だな。テメェを捕らえた相手に説教か。ンなこと、何千何万回も言われてきたンだよ。魔王を倒すなんてできるわけない、軍に入れってな。生まれ故郷を消されたこともねェテメェらに何がわかる」


 続く言葉で賊は認識を改めた。


 「本当は何も言いたくない」のではない。


 と――押し殺した怒気と微かに震える声が、そう物語っていた。


「いいか、覚えておけよ。俺の名はアルタイル。魔王を殺し、千年続くこの戦争を終わらせる男の名だ」


 ――ザンッ!!


 地に伏した男の、顔のすぐ横に剣が突き立てられる。


 こげ茶色の剣。それが金属ではなく木製であることに彼は気付いた。


 けれど、それに対しての感想を抱く間もなく。


「確かに俺はまだ魔人を見たこともねェよ。けど、ンなこと関係ねェ。見つけた魔人は片っ端からぶっ殺す。よかったなテメェら。魔人じゃなくて」


 青年がしゃがんで顔を近づけてくる。一見無表情にも見えたが、目だけが爛々と輝いている。灰色がかった緑色の瞳だけが、爛々と。


 その目は雪の積もった大樹に見えた。雪に隠れた鋭い枝先で今にも自分を突き刺そうとする、大きな樹に。


 そして身体をこわばらせる賊にゆっくりと言った。


「人間はできるだけ殺したくねェ。魔人だったら確実に殺してた」


 ザラリとした低い声。


 それはやすりで心臓の表面を一撫でされたようで――。


 本能が告げていた。


 このままでは殺されると。


「ひっ――。た、助け――!」


 思わず口をついた言葉にイルは鼻を鳴らして立ちあがった。地面に刺した剣を抜いて背中の鞘に戻す。どうやらこれ以上争う気はないようだ。


 そして振り返った彼に向かって、最初に声を掛けたのはメリクだった。彼はイルのことを一生懸命に見上げながら、


「おにーちゃん、今のお名前? おかーさん言ってたよ、本当のお名前は知らない人に教えちゃダメだって」


「ちょ、メリク! ご、ごめんなさい、聞こえてしまって……」


 背中にダラダラと冷や汗を流しながらアリィは気まずそうに言う。


 この国の一部地域には「真名を聞かない」という慣習がある。それは「真名を知られると精神魔法をかけられやすくなる」という俗説から来るもので、その慣習は前線の近いこの辺りでも根付いていた。真名を教え合うのは家族やとても親しい友人など、極々一部の限られた相手のみなのだ。


 あるいは――今から殺す相手みたいな、もう聞かれてもどうでもいいような相手とか。


 人間は殺したくないと言っていたし今までの流れで彼が自分たちを手にかけるとは思えない、けれどこの青年の目つきの悪さや先ほどまでの雰囲気はいつそうしたっておかしくないような――。


 聞かれてもいないのにわざわざ自分の真名を名乗る意味がわからない。ぐるぐると悪い思考が渦巻くアリィをよそに、イルは突然しゃがみこんだ。


「なに!?」


 おそらく過去最高の速さでアリィがそちらを見ると、


「いいンだよ、知られたって。真名を知られたところで並大抵の精神魔法は効かねェからな。俺は魔人と戦うつもりだからな、いっぱい訓練してるンだ。そンなことより、ちゃんと覚えておけよ、メリク! 俺はアルタイルだ!」


 腰を屈めて視線を合わせ。

 あの鋭い目つきが嘘みたいなぴかぴかの笑顔で。


 青年は息子に話しかけていた。

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