第46話 価値観の階層性

「へえ。それで、結局正体はわからないままだったというわけ?」


 ここまでの経緯を聞いた星原は黒目がちな瞳で僕らを見つめ返す。竹ノ塚さんたちから話を聞いた数時間後の放課後である。僕は勉強会をするついでに星原に「謎の顔」の件を相談するためにいつものように図書室の隣の空き部屋を日野崎と訪れたというわけだった。


 星原の隣に座った日野崎が困ったようにため息をつく。


「そうなんだよ。竹ノ塚さんに訊いても『撮影後、機材室に入ったときにも人影も顔に見えそうなものもありませんでした』ということだったんだ」

「ちなみに僕らもさっきここに来る前に、もう一度外からあの窓を確認してみたけど、顔は見えなかった」

「つまり『昨日の夕方には映っていた正体不明の顔が消えていた』『撮影時に入り込めそうな人間はいなかった』し、『他の何かが人の顔に見えたにしてはそれらしいものは見つからなかった』ということなのね」


 星原は僕の言葉を再確認するように状況をまとめた。


 日野崎も「そういうこと」と相槌を打って続ける。


「梅島さんに限らず他の部員も不安がっていてね。何とか正体がわからないかって相談されているんだよ」

「それで二人して私のところに来たの」

「ああ。僕らだけじゃあわからないことでも、客観的な目線で見れば何かわからないかと思ってさ」


 彼女は僕らの言葉に「ふうん」と鼻を鳴らしてから口を開く。


「機材室の窓から、顔が見えたはずのあたりには何があったか覚えている?」

「ええと……小道具が置かれた机と板で区切られた着替え室だな。もしかしたら僕らが昼休みに入り込んだ時に詳しく調べていれば何か解ったのかもしれないけど、そんな時間もなかったからな」


 僕が記憶を探りながら答えると、星原は軽く髪をかき上げながら見解を述べる。


「聞いた話だけで判断すると撮影をしていた時に人が入り込むことは無理なのだから、何か『顔に見えるものがあった』と考えた方が自然ね。だけれども、その『顔に見える何か』は『条件が変わって見えなくなった』ということなのかもしれない」

「つまりその顔は特別な条件下でのみ見えるものだった。しかしその条件が変わってしまったということか。それなら確かにつじつまは合う。……だが、そうだとしたら竹ノ塚さんたちに詳しく話を聞いて、機材室を詳しく調べないとわからないということか」


 ここで隣の日野崎が「でもさあ」と眉をしかめる。


「竹ノ塚さんたちは話を聞かせてくれるだろうけれど、機材室に入るのは難しいんじゃない? 昨日だって小菅に無理やり追い出されたもの。気になることがあるからって簡単に調べさせてくれるのかねえ」


 彼女の言葉には一理ある。小さなコミュニティでトップに立っているせいなのか、小菅には妙に排他的な人間性が感じられた。加えてあの横暴な性格である。とても協力してくれそうには思えない。「確かに悩ましいところだ」と僕が顔をしかめていると星原が続けてアドバイスする。


「だったら、部長の小菅くんではなくて顧問の先生にお願いしてみたらどうかしら。一応部員の竹ノ塚さんから相談を受けたんだし、一緒に入って調べたいと言えば駄目とは言わないと思うわ」

「顧問の先生か。それは思いつかなかったけど、映画研究部の顧問って誰だったっけ?」


 僕の疑問に隣の日野崎が答える。


「確か日本史の蒲生がもう先生だったと思うよ」

「ああ。蒲生先生」


 蒲生先生はもじゃもじゃとした髪とニコニコしたえびす顔が特徴の温厚な先生である。なんとなく昔の漫画に出てくる「博士」みたいな雰囲気の教師だ。


「あの人なら話を聞きやすいし、相談すれば部室にも入れてくれそうだ」

「じゃあ、明日にでも職員室に行って部室に入れてもらおうか」と日野崎が笑顔で頷いてから、眉をひそめてさらに言葉を続ける。

「それにしても小菅は何だってこう、周りの人の映画趣味をくさすようなことを言うのかなあ。人は人、自分は自分で良いのに」


 彼女の聞いた話では、他の部員たちも小菅に自分の好きな映画を語っては「流行りに流されている」「くだらない予定調和の展開」と馬鹿にされていたらしい。


「梅島さんなんか恋愛映画が好きだったみたいなんだけど『あんなありきたりなテーマばかり持ち込むから邦画は駄作ばかりなんだ』って特に強く否定されたらしくてね。……あたし自身は映画とかあまり見ないけど、テレビでたまに放送しているのでも十分面白いと思うし。竹ノ塚さんたちが作っているのだって、あれだけ頑張っているのならそれなりのものになると思うんだけどなあ」


 元々他者に対する悪意が薄く、まっすぐで素直な性格をしている日野崎としては小菅のふるまいそのものが理解できないようだ。ソファーに腰掛けている星原はそんな彼女を微笑ましく見つめている。


「他人と自分が違うことを感じるのは当たり前だから、嗜好が異なっていても認め合うべきなんでしょうけどね。彼はそういう違いを許容するだけの情操が身についていない。……いわゆる情操が未成熟なのかもしれないわ」

「情操が未成熟? どういう意味?」


 日野崎はきょとんとして呟く。そんな彼女に星原は足を軽く組み替えながら「例えばね」と言葉を続けた。


「ある学校の先生は体罰の問題でこんな風に言っていたそうよ。人から愛されて育った子供は周りにも優しくする余裕があるし、話し合ってわかりあうこともできる。でも小さいころから暴力が当たり前の環境で育って、力で人間のランク付けをする価値観になっている子供は自分より弱い人間を見下してかかるから、まず自分のほうが強い人間であることをわからせないと道理すら通じない、と」


 確かに小学生時代の人間グループでは「物分かりがよくて大人しい子供」と「やんちゃで自己中心的な子供」がいたりすると、えてして前者は後者に見下されていた気がする。


 要するに「どちらが強い力をもっていても関係ないからこそ、話し合い分かり合える人種」と「力の上下関係をはっきりさせないと、話し合えない人種」がいるということなのだろう。考え方として成熟しているのは前者なのだが、後者は未成熟であるがゆえにそれを理解できない。


「そういう発想が自分を必要以上に強く見せようとしたり、弱い人間にマウントを取ろうとする行動につながるんだろうな。……長い目で見れば人に優しくする余裕がある人間のほうが自然と人が集まって慕われるとわかると思うんだけど」

「でも『強いほうが偉いんだ』という価値観に染まっていると自分が我を通したときに相手の優しさから譲られていることすら『自分が強いから相手が従っているんだ』と解釈するの。他者との関係性に力による上下を持ち込むことで得られる利益しか目に入らない世界で生きているわけね。それで実際にある程度利益を得てしまうと『自分の考えが正しい』としか思えなくなる。周りに優しくすることで自分も困った時に助けてもらえる、とかそういう発想に至ることすらできなくなるの」

「それが情操が未成熟な段階ってことか」と話を聞いていた僕も納得する。


 要は「周りへのいたわりが自分の幸せにつながるのだとしても、その価値観や高潔さを醸成するための『共感性』や『他人への想像力』を獲得する段階にそもそも達していない」ということなのだろう。


「小菅の件に当てはめると、威圧的な態度をとることで周りも従ってきたからなおのこと自分を見直す機会がなかったのかもしれないな。ああいう、ずけずけとものを言う人間はその場面だけ切り取ってみたら堂々として頼りがいがあるように見えたりするし」

「あれで周りから評価されたりしたら、自分の欠点に気が付かないままだろうしねえ」と日野崎も肩をすくめた。


「価値観や概念には段階的な階層性があるものだから。何かのきっかけがないと自分の未熟さには気が付かないし、高度な考え方に出会っても受け入れられなかったりするのよね」


 段階的な階層性、か。


 そういえば子供の頃に「自分がされて嫌なことを人にするな」と大人から教わったものだ。しかし自分が嫌ではないことなら何をしてもいいのかといえばそうでもない。


 成長すれば「自分は嫌ではないことでも他人にとってはそうとは限らない」と気が付く。


 そしてさらに大人になるにつれて「嫌か嫌じゃないかとは関係なく、相手にどう思われても正しいことをしなくてはいけないこともある」と学ばされる。


 人は自らの基本的な価値観を時に疑い、相手の立場や例外を理解することで一つ上の段階へ成長していく。だが逆に言うと相手の立場を想像する感覚がなければ、その先には発展せず集団社会の中でとるべき行動も理解できない。


 まず「自分が嫌なことを人にしてはいけない」ことすらわからない子供が一足飛びに「相手の気持ちもあるだろうけど適切な態度を取ろう」などという考えを獲得することなどできないだろう。


 そんなことを考えていたところで日野崎が「そろそろサッカー部に行くから」と部屋を去る。部屋の中に僕と星原、二人きりになったところで「相談に乗ってくれてありがとうな。僕も手伝っているだけとはいっても、真相がはっきりしないと気持ち悪いし。下級生も気に病んでいたから、つい首を突っ込むことになってしまって」と礼を言った。


「別に気にしなくてもいいでしょう。あなたのトラブル体質も今に始まったことではないし。……ああ、でも」


 彼女は一呼吸おいて微笑みながら続ける。


「映画が完成したら私も見てみたいわ。あなたと日野崎さんがどんな名演技をしたのか、ね」

「あまり気が進まないが。協力してくれた礼として、竹ノ塚さんに見せてもらえるように頼んでみるよ」


 気恥ずかしくて顔をしかめる僕をみて、星原はくすくすと笑う。その後、僕らは定例になっている勉強会の準備を始めたのだった。

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