第3話 テニス部室にて
金網のフェンス内に四角いラインが白色で引かれ、テニスウェアを着込んだ二人の男子生徒がラケットを振っている。そしてコートの横には小さなプレハブ小屋が隣接するように建てられていた。
「……あそこが部室です」
狛江さんが僕と虹村を先導して、そのプレハブ小屋の前まで案内する。
相談を受けた翌日の放課後。さっそく僕と虹村は彼女の案内でテニス部の部室を訪れたところだ。
テニス部室として使われているプレハブ小屋には二つ入り口があって一つは引き戸、もう一つはドアノブがついた外開きの扉になっている。
「この引き戸の方が着替えなどに使っている『部室』なんですが、向こうにある扉は備品などをしまっている『用具倉庫』なんです。Tシャツ作りも向こうの用具倉庫でやっていました」
「鍵はどちらもかかるようになっているんだよね」
僕の確認に彼女は「はい」と頷く。
「部室の鍵も用具倉庫の鍵もセットで借りることになっています」
「なるほど。それじゃあ、実際にその汚されたTシャツを見てみようか」
僕らはテニス部の用具倉庫に足を向ける。狛江さんが鍵を開錠して扉に手をかけた。
「……ここでTシャツを作っていました」
僕と虹村はそっと用具倉庫に足を踏み入れる。広さは数メートル四方で、床の上にはカーペットが敷かれていた。また隅には段ボールがいくつか置かれていて、ラケットやボールが無造作に放り込まれている。五、六人は入って作業ができそうなスペースがあるから、交代で入ればTシャツ作りくらいは可能だろう。
狛江さんが部室の片隅に置かれていた段ボールの中からビニールに包まれた布の塊を引っ張り出す。
「二年生が『五人』で一年生の女子部員が『十人』なので、一人一枚ずつでそれぞれHAPPY GRADUATIONというアルファベットが入ったTシャツを作りました」
意訳すると「卒業おめでとう」という意味だな。
「……インターネットで調べながら、私がデザインしたものです」
言いながら狛江さんはTシャツを広げて見せた。僕は目を向けて「へえ、これは……なるほど」と小さく感嘆した。
正直言うと、アルファベットの大文字を入れたTシャツなんてデザイン的にどうなのかと僕は思っていた。センスとして微妙だし、記念品としてもらったところで普段使いするのにも困るんじゃないか、と。
しかし狛江さんが持っているTシャツの背中にはアルファベットの「G」の文字が流麗な線で描かれていて、飾りのようにツタが絡みついている図柄になっていたのだ。これならばスタイリッシュで、日常で使うのにも悪くはない。
隣の虹村が「ふうん。カリグラフィーだね」と呟いた。
聞きなれない単語に「カリグラフィー?」と思わず僕は反芻する。
「こういう風に字の書体を美しく見せる西洋の技術だよ。クリスマスカードとかによく使われているね」
「ああ、ああいうのか」
そういえば海外の西洋料理店の看板などにもこんな文字が使われているな、と納得する。狛江さんも頷いて「はい。これはローマンキャピタルの書体をパソコンで拡大印刷してからアレンジしたものです」と答える。
「これは上手くいったTシャツなんだね」
「ええ。前側はこうなっています」と彼女はTシャツの反対側を見せた。
前側にはアレンジされたテニスのラケットと「THTC」という文字が小さくワンポイントで左胸のあたりに入っている。察するに「天道館高校テニスクラブ」の意味だろう。
「このうちの部のマークはTシャツを業者にお願いするときにサービスで入れてもらったんですよ」
狛江さんが補足する。
「ふうん。それじゃあ他のTシャツも見せてくれないか」
「……はい」
彼女は続けて何枚かのTシャツを取り出した。そしてそのうちの大半はTシャツの前側にインクの染みが塗り付けられて、使用にたえる状態ではなくなっていたのだ。
「これは……ひどいな」
「そうなんですよ。これもなんです」
狛江さんがさらに取り出して床に並べた。僕はそれらのTシャツを観察する。見たところ無事だったのは十五枚のうち「G」「R」「A」「D」「U」「O」の六枚だ。
しかし残りの九枚はインクで無残に汚されている。つまり五分の三が被害にあっている状況だ。ぱっと見ではインクの染み以外では特にここがおかしいという点もないように見える。
「犯人は何で全てのTシャツを汚さなかったんだろう」
僕の疑問に狛江さんが不機嫌そうに答える。
「単純にインクが足りなかったんでしょうね。私の記憶ではTシャツを作ったときに二割くらいはボトルの中にインクが残っていました。それが後で見たら空っぽになっていたんです」
「犯人が使い切ったわけか。特に汚された文字に法則があるわけでもなさそうだな」
僕が腕組みをしながらぼやいていると、横にいた虹村が「あれ?」と声を漏らした。
「これ、一枚だけテニス部のマークがないね」
「え? ああ本当ですね。業者のミスですかね……」
そう、虹村がたまたま手に取ったTシャツ。前側までインクがにじんで失敗したもののうち一枚。「N」と描かれたそのシャツだけワンポイントのマークがなかったのだ。
僕もそれを見て「本当だ」と呟く。
「いっそこの一枚だけマークがないのを言い訳に、業者に頼んで追加を無料で作ってもらうというのはどうだろう。そうしたら一応問題は解決するし。テニス部だけに『サービス』してくださいよ、的なノリで」
だが僕の下手な冗句に虹村と狛江さんが呆れたような顔で見た。
「それは流石に無理でしょう。……こっちがモンスタークレーマー扱いだと思うよ?」
「月ノ下さん? 誰が邪魔したのかをはっきりさせてくれないと問題解決とは言えませんよ」
彼女たちの正論に僕は頭を掻く。
「……それもそうか。だけど、残念ながらこれだけでは誰がTシャツをインクで汚したのかわからないな」
「そうですか」
「じゃあ、次はTシャツが汚される前に部室に入ったっていう二年生に話を聞いてみよう。狛江さん、案内してもらえないか」
僕が狛江さんにそう声をかけたその時。
「あ、いや。でも」
彼女が僕に何か言いかけるのを遮るように、背後の扉が開かれる音がした。
「あれえ? 月ノ下くんじゃない。しばらくぶり!」
聞き覚えのある、あまり聞きたくなかった声が耳に飛び込んでくる。
「今、そこにちょうどいらっしゃいました」と狛江さんが呟く。
そこには二人の少女が立っていた。どうやら彼女たちが二年生のテニス部員のようだ。そしてそのうちの一人の顔を僕は知っていた。若干トーンの重い声が僕の口からもれる。
「……綾瀬」
猫のようなきらりとした瞳に、ボブカットの髪。しなやかでスポーティなボディライン。そうだ、
「知り合いなの?」と怪訝そうに虹村が尋ねる。
「まあね。……綾瀬。悪いんだけど少し話を聞いてもいいかな」
僕は逃げ出したくなる気持ちを無理やりかみ殺すような気分で一歩前に踏み出した。
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