第68話 新たなる道標⑧

 海岸線をオレンジ色に染める夕日。海面に反射した夕焼けも見惚みとれる程に美しいものの、それを砂浜から眺める亜人達の間には重苦しい空気が漂う。

 日没はもう目の前だ。東の空は既に薄暗く、気温も下がりつつあった。水浴びを終えた直後の賑やかさとは対照的に、今は溜息ばかりが海岸へ響き渡る。奴隷船の生活で溜まった精神的な疲れが出たのか、それとも先が見えない不安か……どちらにせよ身体を治癒する魔法だけでは到底フォローできない。

 それでも、ココノアとレモティーの帰還を信じてメルは気丈に振る舞った。砂浜で座り込んだ人々を励ますように、猫耳少女は声を張り上げる。


「海に映った夕焼けも綺麗ですけど、リギセンの村から見るともっと綺麗なんですよ! あと、夜の星空も近くて感動しちゃいますよ! 楽しみにしててくださいな♪」


 その言葉に対し亜人達は頷きはするものの、やはりどこか覇気がない。素直に瞳を輝かせたのはユキだけだった。


「うーん……みなさんお疲れモードみたいです。こうなったら、私が一発芸でもお披露目するしかないですね……!」


 腕を組んで難しい顔で唸るメル。飛び蹴りで崖を吹き飛ばしたり、拳で海を割ったりする案が浮かんだが、派手なだけで面白味に欠ける。すぐに却下した。


(もっとこう、他の人を笑顔にできるような特技があればいいんだけど……)


 とはいえ器用なタイプでもないメルに、手品や大道芸の類は不可能だ。となると、頼みの綱はNeCOのスキルのみとなる。取得済みの魔法から宴会芸代わりに使えそうなものがないかと考えを巡らせた。


「……あっ! そういえば天使の光輪エンジェル・リングがありました! あれを使ってみましょう!」


 エンジェルリングは、最上位の聖属性魔法を習得する過程で必要となる魔法スキルだ。"聖なる光輪を召喚し、悪しき者を滅する"というスキル説明文の通り、純粋な攻撃魔法の1つである。ココノアの新生魔法に比べると威力も規模も劣るものの、エフェクトが神秘的なので見栄えは悪くなかった。メルは早速それを試してみようと、まとになりそうな物を探し始める。


「……あら、ちょうど良いところに流木が! あれで良さそうですね!」


 樹木の残骸と思しきボロボロの丸太が浜辺に打ち上げられていた。材木としての使い道は無さそうだが、小型種の魔物を思わせる形状なので、魔法の試し撃ちに打って付けだろう。メルは亜人達に向けて再度呼びかける。


「みなさん、せっかく時間もあるので私の特技をお見せしたいと思います! 多分この世界だと珍しい魔法だと思うので、よーく見ててくださいね!」 


 さっきと違い、今度は明らかな反応があった。エルフ族が強い興味を示し、立ち上がったのだ。魔法の研鑽に長い年月を捧げてきた種族だけあって、未知の術式には抗い難い魅力を感じるのかもしれない。


「それでは早速やってみます! 天使の光輪エンジェル・リング!」


 メルの詠唱から少し間をおいて、丸太の真上に輪となった円形の帯が出現した。輝く光のリングにはNeCOで使われていた神聖文字が描かれており、見た目にも華やかである。徐々に直径を膨らませながら降りてきたそれは、流木を包み込むと一際眩い光を放った。


――パァァァン!――


 ターゲットとなった対象物は激しい音と共に弾け飛び、砂浜へ散らばった。木端微塵こっぱみじんという言葉がぴったり当て嵌まりそうな威力だ。エルフ達は興味津々といった様子で考察を始める。


「おお、確かに初めて見る魔法だな……! 属性は炎でも水でもないようだが、何の系統だろうか……?」

「アイリス聖教の魔法と少し似てたかしら。でもあの光の帯に描かれていたのは古代文字じゃなかったわね。それに構築された術式も、既存の魔法と全く異なる体系に見えたわ」

「獣人の幼子でもあれだけの破壊力をだせるんだ。きっと我々が知らない秘術に違いない。是非とも術式を教えて貰いたいものだ」


 エンジェルリングは見た目が神々しいだけでなく、ダメージ倍率もそれなりに高い。そのため魔法系ステータスが低いメルでも、それなりの威力を出すことができる。場が盛り上がったのを見て、彼女は勢い付いた。


(せっかくだし、物魔の反転コラプス・オブ・ロウと一緒に使ってみるのも面白いかも!)


 間を置かず物魔反転のスキルを使用し、瞳と同じ真紅のオーラを纏う猫耳少女。魔法スキルと物理スキルのステータス参照先を入れ替える――そんな特異な効果を持つコラプス・オブ・ロウは、NeCOでも異色の存在だ。特殊スキルという扱いなので、詠唱や予備動作は一切不要。傍目には何をしたのか分からないだろう。

 

「今度はさっきの魔法をアレンジして使ってみます!」


 メルは少し離れたところに転がっていた別の丸太へ狙いを定めた。聖属性の初級魔法であるホーリーライトで試した時と同様であれば、何らかの形で具現化する可能性が高い。エンジェルリングならアクセサリみたいな綺麗な輪っかを出せるかも、と期待を込めてメルはスキルの発動態勢に移る。


「もう一度、天使の光輪エンジェル・リングッ!」


 少女の声が海岸に響き渡った直後、先程と同じく上空に天使の輪を彷彿とさせる光輪が出現した。だがその輝きは魔法によるものではなく、金属光沢に近いものだ。


「ここまでは予想通り……ですね!」


 メルが作り出したのは、魔法的な要素を一切感じさせない金色のリングである。ただ、見た目に違わない質量を持っていたようで、そのまま自然落下して丸太を真っ二つに割った。これでは物理攻撃そのものにしか見えない。拍子抜けさせちゃったかも、とメルは危惧したが、むしろエルフの民は騒がしくなった。


「お、おい……今の魔法を見たか? 何もないところに物体が出てきたぞ!」

「あの色と光沢、まさか黄金を錬成したとでもいうの!? 古代のエルフ族でも真の錬金術には至らなかったと言われているのに!」

「癒しの術式だけじゃなく、あんな魔法まで使いこなすなんて、あの子は一体何者なんだ……?」


 口早に喋る彼らの様子を見て、メルは安堵の笑顔を浮かべた。何はともあれ、疲れを忘れさせる事はできたようだ。一方、獣人族の方はいまいち反応が鈍い。エルフ族ほど魔法に対する興味がなさそうである。


(獣人族の人にも楽しんでもらいたいけど、どうすればいいのかな……?)


 猫耳を揺らしながらリングを回収しに行くメル。物質化したといえ、一応は攻撃スキルなので海へ投げ捨てておこうと思ったのだ。割れた丸太の隣に立ち、砂浜に刺さったリングを引き抜いた。


(むっ、これは……!!)


 伝わってくるひんやりとした手触りに、金属のような固い質感。具現化したエンジェルリングは純金そのものにしか思えない手触りだった。しかもメルの胴体がすっぽり入る程度の大きさで、取り回しもし易い。これならフラフープ芸を披露できそうだ、と彼女は直感した。おもむろにリングの内側へ体を通し、高速回転させ始める。


(うん、これなら私でもできるかも! よーし、がんばるぞー!)


 地球にいた頃、NeCOに没頭してすっかり運動不足に陥ってしまったメルは、ココノアからエクササイズでもしてみたらとアドバイスを受けた事があった。その時に試したのが、フラフープを使った体操だ。流石にその道を極めたプロがやるような動きはできないが、獣人族の優れた体幹と運動神経があれば安定して回し続けられる。


「どうでしょうか! なかなか良い感じに回せてるはずなんですけども……!」


 幼女特有の括れが少ない腰でも天使の輪は問題なくフィットし、目にも留まらぬ速さで回転する。フラフープの存在など知る由もない異世界の人々は、その様子に釘付けとなった。


「うぉぉっ! 凄いじゃないか! 一度も地面に輪が落ちてないぞ!」

「た、楽しそうだにゃ~!」

「あの子を見てると、なんだか体を動かしたくてウズウズするなぁ……!」


 さっきとは打って変わって、獣人族に大受けするメルのフラフープ。素早く動くものに反応しただけなのか、それとも光る物に惹かれたのかは定かでないが、ほぼ全員が彼女を囲むようにして見入っていた。自信をつけたメルはリングを真上へ投げ飛ばしてキャッチしたり、腕や尻尾でも器用に回したりして、どんどん場を盛り上げる。


「もっと、もっと早く回してみせてくれー!!」

「今さっき、あの円環が増えたように見えたわ!」

「残像を生じるほどの回転……オイラじゃなかったら見逃してたね」

「メルお姉ちゃん、すごいすごーい!」


 砂浜に熱気と歓声が渦巻いた。先程までの暗い雰囲気は完全に消え去っている。メルの想いが元奴隷達の心へ響いたようだ。


「ふっふっふっ、なかなか好評のようですね! あの時は3ヶ月くらいで飽きちゃいましたけど、無駄にはなってなかったのですよ!」


 NeCOで遊ぶ片手間にフラフープを回していた日々を振り返り、メルは懐かしそうに微笑む。もし元の世界に帰る日が来たのなら、押し入れにしまい込んだ安物のフラフープをもう一度出してみてもいいかも――そんな独り言を心の中で呟いた直後だった。彼女の隣に幼いエルフ少女が舞い降りる。


「急いで帰ってきたってのに、まさか砂浜で呑気に遊んでるなんてね。やっぱり中身まで子供になっちゃってるんじゃないの」


「わわっ、ココノアちゃん!? こ、これはですね、別に遊んでたつもりじゃなくて……!!」


 ノリノリで腰を振る姿をうっかり親友に見られてしまい、メルは視線を泳がせた。金色のリングも徐々に失速し、足元へと落ちる。


「……ま、長い付き合いだし何を考えてたのくらいは分かるけど。ほんと、お人好しなんだから」


 助け出した人々の表情が随分と明るくなったのを見て、ココノアは大体の事情を察したようだ。フラフープについてそれ以上の言及はしなかった。さっさと話題を切り替え、状況報告へ移る。


「村までの道路は使えるようになったわ。もう少ししたらリギセンから騎士団の馬車が到着するはずよ」


「あっ、上手くいったんですね! やっぱりココノアちゃんとレモティーちゃんは頼りになります♪」


「予定よりちょっと遅くなったけど、なんとかね。あ、ちなみにレモティーは村で受け入れ準備をするって言ってたから、こっちには来ないかも」


「あら、そうでしたか。レモティーちゃんが居ないとなると、あの人達をどうするか考えないと――」


 沖合へ視線を向けるメル。だが、その視線の先にはあるべきものが無かった。いつの間にか奴隷船が忽然こつぜんと消えていたのだ。


「あれれ……? 船はどこへ行ったんでしょうか?」


「沈んだわけでもなさそうだし、多分どこかへ逃げたわね。縛ってた蔦が解けたか、仲間がどこかに隠れてたか……何にせよ、うちらじゃどうしようもないわ」


「うぅ……ごめんなさい、私がしっかり見張っておけば良かったんですけども」


「メルが謝る必要なんてないでしょ。それに、ああいう連中にはいつか天罰が――」


 ふと、ココノアの視線がメルの足元へ移動する。砂浜に沈み込んだリングを見て、それが何から生み出されたものか気付いたらしい。眉をひそめてメルに忠告した。


「それ、どうせアレを使ったんでしょ? 前みたいに爆発したら危ないから、出来るだけ遠くて何もない場所へ飛ばしてよね」


「てへへ……バレちゃいましたか」


 次元結晶を介した新スキルを試した際に、実体化したホーリーライトが山の形を変えた事件はまだ記憶に新しい。メルは苦笑いで誤魔化しながらリングを持ちあげると、大きく振りかぶった。


「とりゃぁぁぁ!!」


 気合の籠った投げっぷりで、海の遥か向こうに向かってリングを飛ばす。黄金色の輝きを放つ円環は空高く上昇した後、夕日の沈む水平線へ重なるようにして消えたのだった。これだけ離れれば、もし爆発しても陸地に影響はないだろう。


「これでよし、と! それじゃみなさんと一緒に馬車で帰りましょうか、ココノアちゃん♪」


 メルは相方の手を取って砂浜を歩き始めた。色々ありすぎて、ココノアも疲れ気味だったようだ。今回は馬車酔いに対する不満も言わずに大人しく従う。


「……それにしても、最後まで休暇らしい1日は過ごせなかったわね。結局、魚も釣れずじまいだったわけだし」


「ふふっ、私は楽しかったですよ♪ みんなで力を合わせて、大勢の人を助けられましたから!」


 満面の笑みで声を弾ませるメル。彼女にとって最も大切なのは、親しい友人達と過ごす時間そのものだ。予想すらしていなかった事件に巻き込まれたとしても、ココノアやレモティーが一緒なら苦にもならない。そんな想いが握り合った手から伝わったのか、並んで歩くエルフ少女の頬は自然と緩んでいた。



§



 リギセン北方、エリクシル王国領を脱した海洋を進む巨大な黒船。4本のマストに帆を張ったそれは、日没後の闇にまぎれて海を全速力で駆けていく。まるで何かから逃げようとしているような、なりふり構わない操舵に船体が酷くきしんだ。


 ――ギイィィッ! ギイィィッ!――


 魔法で撃ち抜かれた後方デッキから、悲鳴の如き異音が響く。補修用の資材はあらかじめ積載されていたものの、側面に開けられた穴を埋めるのに大半を使ってしまった。とにかく今は残った僅かな物資で応急処置を進めるしかない。


「オイ、テメェら! とっとと船体を修理しろ! 死にてぇのか!」


 甲板ではドレッドヘアーの大男――奴隷商の頭領プラガがげきを飛ばしていた。一時はレモティーによって捕縛された彼だが、関節を自由に外せる仲間のおかげで何とか蔦の縄から脱出できたのである。ただ、状況はかんばしくない。満身創痍の船では西大陸の拠点へ戻れるかどうかすら怪しかった。側近の1人が冷や汗を流しながら進言する。


「兄貴、この船ではオルキデウスまで行けるかどうか……とりあえず、どこかの港へ寄った方がいいんじゃないですかね?」


「馬鹿言え! この近くにある港は王国か、その同盟国の管轄下だ。そんなところに奴隷船なんて停泊させてみろ、あのガキ共が嗅ぎつけてくるかもしれねぇだろうがッ!」


 苛立ちを抑えきれずに怒鳴るプラガ。劣等種と見下していた亜人、それも幼い少女達に敗北を喫した事もあり、彼の機嫌はすこぶる悪い。だが、それでもすぐ報復を行わずに逃走を選ぶだけの冷静さは持ち合わせていた。

 植物を操る得体の知れない女、天空を貫く閃光魔法の使い手、銃器どころか魔道具すら通用しなかった怪力娘――そんな無茶苦茶な者達を正面から相手にして生き残れる保証はない。どれだけプライドが傷つこうとも、王国領から脱出するのが最優先だと男は判断したのだ。


(……忌々しいが、ここは退くしかねぇ。生きてさえいりゃ、どうにでもなるからな。それにまた亜人共を捕まえて売り捌けば、今回の損失なんぞすぐ取り返せる)


 部下の前では平静を装うも、プラガの心中は穏やかではなかった。一戦交えたからこそ分かる、メルという獣人少女の恐ろしさ。特級魔道具の呪剣ドレイクを無効化しただけでなく、至近距離から連射された銃弾ですら全てキャッチしたバケモノだというのに、何故か魔力反応は微塵も感じられなかった。身体強化の術式や魔道具に頼らずあの動きができるのなら、もはや人外の領域に踏みこんだ存在と言っても過言ではないだろう。赤く光る猫の瞳を思い出しただけで、背筋に寒気が走る。


「4時方向に正体不明の飛来物あり! このままじゃぶつかりますぜ!!」


 不意にマスト上部の監視座から部下の叫び声が聞こえてきた。現在、奴隷船は海の真っ只中を航行しているため、陸地から飛んできたものとは考えにくい。プラガは悪態をつきながら南東の空を見上げた。


「鳥か何かと見間違えてんじゃねぇだろうなァ! しっかり確認してから報告しろッ!」


 どれだけ目を凝らしても、視界に映るのは夕闇に染まった空だけだ。ただの見間違いだったら海に蹴り落としてやろうと思った彼であったが、ふと嫌な予感が脳裏を過ぎり、側近から遠見筒を奪い取った。今度はレンズを通して拡大された空を見渡す。


「なんだよ、ありゃ……?」


 狭い覗き窓から見えたのは、金色に光る輪のような物体だった。凄まじい勢いで回転しながら、こちらへ向かって飛んでくる。仕事柄、船上での荒事には慣れているものの、空飛ぶ円環を見たのは今回が初めてだ。


「チッ、誰があんなものを飛ばして来やがったッ……! 面舵いっぱい、進路を北西へ変えろ!」


 プラガの指示と共に船が右方向へ曲がり始めた。これで飛翔物の予想進路からは逸れた……と思われた矢先、空飛ぶリングもまた右カーブを描く。


――シュン、シュン、シュン、シュン――


 黄金輪の飛翔スピードは見かけよりも遥かに速い。もう裸眼でも見えるくらいまで近づいてきた。事実、不気味な風切り音が船上まで届いている。船より遥かに小さい物体といえど、このまま衝突すれば無事では済まないはずだ。


「ダメだ親分、これじゃ避けきれねぇ!」


「同じ方向に曲がったなら、逆方向へ切り返せばいいだろうが! 取り舵いっぱいだ!」


 怒号が飛び交う間にも、黄金色に染まった円環との距離はぐんぐん縮まる。やがて、奴隷商達は気付いてしまった。遠目では分かりづらかったリングの恐るべき回転速度と、それによって生みだされている暴風に。


「こ、こっちに来るんじゃねぇぇぇぇ!!」


 プラガは全身の毛を逆立てながら叫んだ。奴隷船の真上に迫った天使の輪から逃れる術は無い。未来を奪われた亜人達が抱いていたものと同じ絶望が、船員の顔を歪めた。因果応報とは、まさにこの事なのだろう。狙いすましたように高高度から急下降したリングは、膨大な運動エネルギーを纏って黒い船体を切り裂く。


――ガシャァァァァン!――


 一瞬にして砕け散る甲板。さらに西大陸随一の大木から作られた太い竜骨――船の背骨にあたる構造体も、スライサーの如き黄金の一閃によって真っ二つに切断された。リングの勢いは奴隷船を破壊しただけに留まらず、その衝撃を以て海面をも大きく窪ませてしまう。生き物のように海流が、局所的な大渦を引き起こす。


――ゴォォォォ!!――


 轟音と共に出現したのは、世界の終焉を彷彿とさせる漆黒の螺旋だった。辛うじて小船を降ろして乗り込んだ者も激流からは逃れられず、暗い海の底へと引き摺り込まれていく。唯一浮上を許されたのは、バラバラになった木片だけだ。

 それから数時間後、幾多の断末魔を飲み込んだ渦は静かに消え去った。奴隷船が海上から姿を消す直前まで数十名の乗組員が残っていたものの、その安否は分からない。周囲を航行する他の船舶もなかったため、助かる可能性は限りなく低いだろう。

 片や、船を貫通して深海の岩礁へ突き刺さったリングは役目を終えたとばかりに光の粒となって霧散した。こうして、数え切れないほどの奴隷を運んできた悪夢の船は、天罰をもたらす光輪によって海の藻屑と化したのである。

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