第67話 新たなる道標⑦

 桟橋の土台だけが取り残された静かな砂浜――そこには全身を震わせながら大量の水滴を飛ばす猫耳少女の姿があった。冒険用のバトルドレスを脱がずに泳いできたため、淡い紫色の生地から下着の形が透けて見えてしまっているものの、気にする素振りひとつみせずにメルは海を振り返る。


「さて、引き寄せるとしますか!」


 少女は握り締めていた緑の蔦を引っ張った。右手と左手、ついでに尻尾も活用してグイグイと巻き取っていく。


――バシャッ!――


 水飛沫をあげ、緑色の繭が海面から頭を出した。数キロメートルに及ぶ距離を移動してきたというのに、表面は微かな傷も見当たらない。レモティーの防御スキルは異世界でもその効果を問題なく発揮したようだ。メルはそのまま蔦を引き寄せ続けた。


「よしよし、これで終わりですね……とりゃ!!」


 元気の良い掛け声に応じて海面から飛び出す小さな繭――これが最後の1人である。途中で外れてしまった繭は無かったので、誰1人として欠ける事なく奴隷船から脱出できたと考えて良いはずだ。一仕事終えた風に前髪から伝ってきた水滴を拭うと、猫耳少女は口元から八重歯を覗かせた。


「えへへ、みんなで力を合わせてクエストを進めるのって、NeCOをやってた頃を思い出します。懐かしいな~ん♪」


 しばしの間、メルは友人達と駆け巡った架空世界に想いを馳せた。そうして数分が経った頃、上空から2名分の人影が降り立つ。ココノアとレモティーが転移魔法で海を渡って来たのだ。


「もう全員分の繭を引き上げた後なのね。仕事が早いじゃない」


「お疲れ様、メル! こっちに来る途中にココノアと一緒に海中をチェックしてたけど、取り残された人は1人もいなかったよ。それじゃスキルを解除……と言いたいところだけど、その前に繭をもう少し高台まで移動させようか。砂に足を取られて転倒すると危ないからね」


 レモティーの提案にメルとココノアは頷いて同意した。回復魔法の効果で持ち直したとはいえ、奴隷達の気力と体力に余裕があるとは思えない。リギセンまでの移動も時間が掛かるので、無駄な消耗は極力避けるべきだろう。幸い、砂浜から斜面を登ったところに短めの草で覆われた丘が見える。日当たりも良く、過ごしやすそうだ。


「力仕事はお任せください! 私がみなさんを運びます!」


 2人の返事を待たず、メルは波打ち際にあった繭を片っ端から持ち上げ、高台へと運搬し始めた。自分の背丈よりも遥かに大きい相手ですら軽々と持ち上げる怪力少女にとって、数の大小など些細ささいな問題である。あっという間に200人の移動が完了した。


「これでよし、と!」


 心地よい風が通り抜ける草原で笑顔を浮かべるメル。獣人族特有の優れた代謝能力に加え、人並み外れた筋力を持つ彼女は体温が常人より高い。全ての繭を運び終わる頃には濡れた服もすっかり乾いていた。ただし桃色の耳と尻尾はまだ湿り気が残っており、乾燥するまでにもう少し時間を要しそうだ。

 メルと同じく緑の丘へやってきたココノアとレモティーは、周囲に魔物や危険な獣が潜んでいないか確認した。リギセン地方は山や森林が多く、過去には集落を丸ごと飲み込みかねない程の巨大ムカデが目撃されたという情報もあったので、油断できない。もっとも、そんな魔物が出現したところでココノアの魔法1発で消し飛ぶのは想像に難くないのだが。


「……危なさそうな魔物は見当たらないし、ここなら大丈夫そうね。レモティー、スキルを解除してくれる?」


「うん、分かった」


 そう返事すると、金髪碧眼の美女は指をパチンと鳴らした。同時に防護の術が解除され、複雑に絡み合った蔦が解かれる。静かな暗闇から一転し、肌に感じる暖かな太陽の光――繭が消えた事に気付き、亜人達は恐る恐るまぶたを開けた。

 足裏を撫でる柔らかな芝、久々に感じる土の匂い、遠くの海に揺らめく帆船はんせんの姿……彼らが今立っている場所は、まぎれもなくエリクシル王国領だ。ここには奴隷身分など一切存在しない。入国手続きを済ませていないため、難民という扱いになるが、奴隷船で虐げられてきた日々と比べれば遥かにマシな暮らしができるはずだ。新天地を踏みしめた人々は、手と手を取り合って歓びを分かち合った。


「やっと……やっと俺達は自由になれたんだな」

「あの忌々しい船から出られるなんて、夢みたい……」

「生まれ変わったような心地だよ……実に気分が良い」


 両手を広げて陽を浴びる者。草原を無邪気に駆けまわる者。勢い余って地面に寝転ぶ者。感情の表現方法は様々だった。しかし、これで全て終わったわけではない。危険度が一気に増す日暮れまでに、村へ到着する必要がある。

 海岸から村までの旧道は悪路続きであり、途中で山も越えなければならなかった。冒険者であるメル達は1時間もかけず踏破できたが、子供を含めた200名規模の集団を連れて歩くのは無謀と言えよう。村に駐留している王国騎士団へ事情を伝えて、支援の手を借りるべきかもしれない。レモティーはしばらく考えた末に、1つの案を友人達へ提示した。


「ちょっといいかな、2人とも。これから騎士団に協力を要請して、馬車を借りようと思ってるんだ。復興用に持ち込まれた大型馬車が何台かあっただろ? アレを使えば安全に亜人達を村まで運べるはずさ」


「えっ、何言ってるのよ。馬車が通れるような道じゃなかったでしょうが」


 怪訝けげんそうな目付きでレモティーを見上げるココノア。リギセンで採掘された魔鉱石を輸出するために作られた旧道は、今や獣道も同然の荒れ具合だ。草木が茂っているだけでなく、落石なども散見され、馬車を走らせる路面状況ではない。しかし豊穣の乙女にはその問題を一気に解決する秘策があった。


「その点は大丈夫。ボクの土壌改良スキルを応用して、道を作り直すつもりだよ。ただ、スキルの効果範囲はそれほど広くないから、普通にやると恐ろしく時間が掛かっちゃうんだ。そこでココノアにお願いなんだけども……旧道をなぞっていく感じでボクを運んでくれないかな? それ以外は何もしなくていいから!」


 両手を合わせて友人に頼み込むレモティー。ハーヴェストの土壌改良スキルを使えば、どんな場所であっても任意の地質へ変更可能だ。砂や土、石の割合まで細かく操作できるので、車輪が乗っても沈まない馬車用の道路に変えてしまう事など造作もない。

 ただし、元々は植物の栽培に適した土地を作るためのスキルである。対象範囲は本人が立っている場所と、その周囲のみに限られた。移動時間を大幅に短縮する手段がないと、土壌改良スキルを土木工事へ転用するのは難しい。勘の鋭いココノアはレモティーの意図をすぐに理解した。


「なるほど、そういうがあるわけね。別にそれくらいやってあげるけど、こっちの事は全部メルに任せちゃって大丈夫?」


「もちろんです! もし何かあっても私がみなさんを守りますから、心おきなく道を作ってきてくださいな♪」


 猫耳少女はぐいっと親指を立てた。海岸からリギセンへ通じる道は、全長約5キロメートルに及ぶ。その全てを作り直すという大掛かりな工事を現代日本でやろうとすれば、億単位の資金と数年近い工期を要してもおかしくはない。だがここは異世界。法規制もなければ面倒な申請手続きも不要、そして無尽蔵に魔法が使える何でもありの理想環境だ。やってやれない事などなかった。


「それじゃ、今後の方針も決まったことだし、ここいらで食事にしようか!」


 レモティーは若草色のスカートを翻すと、植物の種が詰まった瓶のセットをポケットから取り出した。小さなガラス瓶には手製のラベルが貼られており、キャベツやトマト、リンゴ等の名称が書かれている。どれも彼女がリギセンで栽培した植物から採取されたものだ。その中から生でも食べやすいものをいくつか選び、小さな種を足元へばら蒔いた。


「希望をもたらす種子達よ、元気よく芽吹いておいで!」


 しゃがみ込んで大地に両手を当てたレモティーは、蒔いた種へ大量の魔力を流し込んだ。ハーヴェスト専用スキルである促成栽培の効果が発動し、土壌条件や時間を無視した驚異的な成長が促されていく。


――メキメキメキ……――


 まるで録画映像を超高速で再生したような不可思議な光景。瞬く間に地面から植物が伸び、立派な果樹が連なった。さらに多種多様な花々が盛大に咲き乱れる。奴隷船の船倉でも同じ異能を披露したレモティーであるが、今回はさらにその先があった。

 役目を終えた花弁が美しく散り、その場に小さな子房しぼうを残す。最初は一口分にすら満たなかったそれらもスキルの効果を受け、たわわにみのった。枝葉の間から顔を出した色鮮やかな果実達――リンゴ、バナナ、モモ、マスカットといった瑞々しいフルーツが、ちょうど食べ頃を迎えている。

 中には東大陸で自生していない果物も見られるが、それらはレモティーが品種改良ブリーディングのスキルで生み出したものだ。食感や味は現代日本で流通していたブランド果物に引けを取らない。ハーヴェストの能力を知るココノアとメルであっても、彼女の偉業には驚きを禁じ得なかった。


「もう何でもアリね……」


「はい……」


 高い塩分濃度のせいで樹木が育ち難いはずの海岸に、突如として現れた彩り豊かな果樹園。それを見上げて唖然としたのは2人だけではない。他の人々も目を丸くしてその光景を眺めている。レモティーはツヤのある美味しそうなリンゴを2つぎ取って、少女達へ手渡した。


「全員で食べても足りるくらいには作っておいたよ。色々あって昼食を取れてなかったし、ボク達もここで少し休憩していこう。道を整備するのはそれからだ!」


 ニッコリと笑う彼女を見て、少女達は"豊穣の乙女"という異名が伊達ではない事を実感するのであった。



§



 潮風香る丘に蜃気楼の如く出現した果樹園。今までろくな食事を与えられていなかった元奴隷達は、無我夢中で果物を掴み取って口へ運ぶ。多くの亜人がリンゴを最初に選んだところをみると、西大陸でも同じものが流通しているのだろう。

 ただし、レモティーがスキルで作ったリンゴは異世界のそれと大きく異なる。日本で積み重ねられてきた品種改良の成果が、想いの力を通して反映されたからだ。口へ入れた途端に広がる蜜のような甘さと芳醇な果汁は、一度味わったら誰しもが病みつきになってしまう。その証拠として、動物性タンパク質に偏重した食生活の獣人族ですら、手を止めることなく果物を貪り続けている。

 そんな彼らから少し離れたところで、少し遅めの昼食タイムを満喫する冒険者3人組。リギセンから持参した弁当の半分以上を亜人達に譲ったものの、それでも十分な量があった。少女達はアヴィの料理に舌鼓を打ちつつ、賑わう果樹園の様子を嬉しそうに眺める。


「あんな風に食べて貰えるなら、ボクも農家冥利に尽きるってもんだよ。いやまあ、実際に頑張ったのは日本で農家をしてる人達なんだけども」


「それを異世界で再現したのはアンタでしょ。謙遜けんそんなんてしなくていいわよ。でもまさか大地の収穫者ハーヴェストが1人いるだけで、やれる事がこんなに増えるなんて思ってなかったわ。この世界の食糧事情を牛耳れるんじゃない?」


「ははは、それは言い過ぎさ。ボクができるのはあくまでも植物を操る事だけだからね。そもそも、身体が弱ったままだったら消化が追い付かないだろうし、まともに食べられなかったと思うよ。そういう意味じゃ、メルの回復魔法が一番凄いんじゃないかな!」


 ココノアは視線を猫耳少女に移し、「確かにそうかもね」と微笑んだ。レモティーの隣でバナナを頬張っている姿は無邪気な幼女そのものだが、メルが亜人達の命を繋ぎ留めた功労者である点に間違いは無いだろう。


「あと、メルが居たおかげでリンゴ以外の果物に対する疑念を払拭できたのも大きいね。最初はみんな全然手にとってくれなくて、どうしたものかと思ってたんだ」


 そう言ってレモティーは数刻前の光景を振り返る。果樹園を作り出した所まではよかったが、亜人達は見慣れない植物を怪しんだらしく、モモやバナナには近寄ろうともしなかった。嗅覚に優れる獣人族は未知の香りに対して身構えてしまったし、森で生きるエルフ族は植物の見識が深い分、未知の果実に慎重だった。

 どうすればこれらが安全な食べ物だと分かって貰えるのか――レモティーが頭を悩ませる中、メルはたった一言で彼らの心をほぐした。


――「この果物、とても甘くて美味しいんですよ♪」――


 バナナの皮を丁寧に剥いて、白い果肉をパクリと齧ってみせる猫耳少女。見慣れない形状の果実に戸惑う彼らだったが、同じ亜人の少女が幸せそうに果物を頬張る姿を見て、食べ物だと認識できたのだろう。あれよあれよという間に、バナナの房は消えていったのだった。自らの身を以って果物が安全だと示してくれた友人の行動に対し、レモティーは賞賛の言葉を贈る。


「バナナなんて日本じゃ当たり前のように存在してたから、警戒されるなんて思いもしてなかったんだ。ほんと、メルの機転には助けられたよ!」


「……いやいや、この脳筋娘がそこまで考えてたと思う?」


 脳天気な相方がそこまで考えて行動したようには思えず、エルフ少女は複雑な表情を浮かべた。そんなやり取りの間にも、メルは本日10本目となるバナナを上機嫌で口に含む。


(やっぱり単にバナナが食べたかっただけよね、これ……?)


 そんな風に思ったココノアだが、口には出さなかった。それから半時間程度、少女達は和気藹々わきあいあいと昼食を楽しんだ。

 やがて食欲を満たした亜人達が手を止め、和やかな歓談に移った頃、レモティーは椅子代わりに使っていた平らな岩から腰を上げた。そろそろ道路の修繕作業を開始しなければならない時刻である。傾き始めた太陽から推測するに、日没まではあと3~4時間といったところだろう。


「さてと……休憩はこの辺にして、作業に取り掛かろうか。さっき話してた通り、メルには留守番を頼んでおくよ」


「はい、任されました! ところでレモティーちゃん、少量でいいので綿花を栽培して布を作ったりはできますか? ここに来る途中で見掛けた湧き水が流れてた場所……あそこならみなさんに身体を洗って貰えそうだと思いまして」


「ああ、それはグッドアイデアだね! 身体を清潔にした方が気分もよくなるだろうし。ちょっと待ってて、石鹸とセットで作ってみるからさ」


 レモティーは快く承諾した。綿花はNeCO中でも実在した植物であり、それから採取できる"モコモコの綿"を使えば、コットンの布を生成できる。ただし食材を用意すればすぐ完成品を生み出せる料理スキルと違って、裁縫スキルはいくつかの工程を踏む必要があった。綿から糸を紡ぎ、糸から布、布から服……といったように、順序だてて製造を進めなければならない。実世界の生活感リアリティを出す目的で、このような要素を取り入れるMMORPGは多かった。

 実際の紡織ぼうしょく作業とは比べるまでもなく手軽なものの、何も無いところから完成品を生み出すのにはそれなりの時間を要する。レモティーが10分ほど費やして出来上がったのは、5枚のタオルといくつかの石鹸のみだ。彼女は申し訳なさそうにそれをメルに手渡した。


「ごめん、今はこれくらいしか作れないや。村なら生産道具や材料が揃ってるから、短時間でも大量生産できると思うんだけども」


「いえいえ、これだけあれば大丈夫です! あとは私の方で何とかしますから!」


「うん、お願いするよ。ボク達は旧道へ向かおう、ココノア」


「ほいほい。それじゃ早く手を出しなさいよ」


 レモティーに腕を出すよう促すココノア。転移魔法は直接触れた者にしか作用しないため、移動中は常に手を繋ぐ必要がある。片方の腕を使えなくなるのは大きなデメリットだが、レモティーは待ってましたとばかりに小さな手を握り返した。


「ココノアの手はスベスベで可愛いなぁ! ずっと握り締めていたいくらいだよ!」


 金髪碧眼の美女は鼻息を荒くしつつ、握った手の感触を確かめるようにフニフニと揉み始めた。友人の偏った性的趣向に対し、ココノアは深い溜息を吐き出す。


「はぁ……どんなにチート級の能力があっても、変態ロリコン女じゃ台無しだっての。もし変なところを触ったりしたら、問答無用で空から落としてやるわ」


 ジト目でレモティーを睨んでから、エルフ少女は杖を掲げて転移魔法を発動させた。直後、2人の姿は地上から消え、上空20m近い場所へ瞬間移動する。


「えっと、旧道がある方向は確かアッチだったわね」


 吹き上げてくる海風に紅色のスカートをめくられても集中力を切らさず、ココノアは次の転移地点へ意識を向けた。指定した座標へワープする、という端的な言い方をすると簡単そうにも思えるが、転移の術式はこの世界において最高クラスの操作難度を誇る。しかも転移魔法で空中を移動する場合は移動軸が3方向、つまり三次元座標を正しく把握しなければならないため、並大抵の者では真似できない。


(結構疲れるのよね、転移魔法って)


 ぼそりとココノアは心の中で呟いた。普段の移動に転移魔法を多用しないのは、余計な疲労を避けるためだ。眼前の景色を脳内キャンバスへ落とし込み、目的地へ到達するための軌跡をそこに重ねた上で、転移後の位置座標も都度自分で補正――そんな高度な並列処理を四六時中続けるのは無理がある。空中を飛び回る際は尚更だろう。

 それでも彼女が空中移動を正確にこなせるのは、平面でも空間の奥行きを自在に表現できる特殊な職業イラストレーターだったからかもしれない。大きく手を振る相方に見送られながら、ココノアとレモティーは南の空へと消えていった。



§



 ココノア達と別れてから半時間後、メルは亜人達を連れて海岸を囲む崖の真下へやってきた。海へ流れ込む清流の源泉がそこにあるからだ。反り立った岩肌の真ん中あたりから、透き通った水が滝となって吹き出している。


「へぇ~! こんなところからお水が湧くことってあるんですねぇ」


 感心したように独り言を漏らすメル。彼女が崖線湧水がいせんゆうすいと呼ばれるものを見るのは、今回が初めてだった。元々の水源は急峻な山々に蓄えられた雨水だが、地中岩盤の内部を流れていく過程で綺麗にされる。そのため、このタイプの湧き水は不純物を殆ど含んでいない。滝によって少しずつ穿たれた地面の窪みには、そのまま飲めそうな程に澄んだ清水が溜まっている。


「少し冷たいですけど、落差はそんなに無いのでシャワー代わりにできそうです。それではみなさん、ここで身体を洗いましょうか!」


 メルは後ろに付いて来ていた人々へ呼びかけた。奴隷船では男女ともに浴場の使用を許されておらず、衣服も茶色く汚れた古着しか与えられていなかったため、長期に渡って悪臭や痒みといった不快感に苦しんでいたようだ。水浴びができると知り、皆一様に笑顔を見せる。


「本当に助かります……もう何十日も身体を洗えておりませんでしたから」

「潮風で髪がベトベトして困ってたの。これで少しは気分が晴れそうだわ」

「石鹸の良い香りがするなぁ。使うのが楽しみだよ」


 元奴隷達は周囲の目も気にせず衣服を脱ぐと、交代で滝を使い始めた。ずっと同じ部屋で寝食を共にしていたせいか、男女一緒でも気にならないらしい。身体を洗うためのタオルや石鹸は個数が限られるため共有品となるものの、互いに融通し合って上手く使っている。


「こんな綺麗な水は久しぶりよね。船で私達に与えられるのは濁った水しかなかったもの」

「まさか石鹸で身体を洗えるなんて思ってなかったな。生き返るような気分だ」


 嫌な思い出を洗い流すようにして、流水に身を委ねる亜人達。彼らはゆっくりと時間をかけて、身体と心にこびりついた汚れと悲しみをすすぎ落とした。なお石鹸は純植物由来品なので、泡が海へ流れても害はない。環境への配慮もバッチリだ。

 亜人達のうちエルフ族はほぼ全員が水浴びに参加したものの、一部の獣人族は濡らしたタオルで身体を拭くだけに留まった。メルのように人間族とほとんど同じ容姿なら耳や尾を乾かすだけで済むが、より獣に近い姿の者だとそうはいかない。本能的に濡れるのを避けてしまうようだ。レモティーが故郷に帰すと約束した狐の少女も大きな尻尾を持つため、水浴びは苦手らしい。困った顔でオロオロしている。メルはそんな彼女に声を掛けた。


「ユキちゃんも身体を洗いたいんですか?」


「うん……でも、いつもお母さんが洗ってくれてたから……」


「それなら、私がお手伝いします! 年の離れた妹の世話をしてたので、こういうのは慣れてるんですよ、ふふん!」


 猫耳少女は鼻歌交じりでユキの水浴び準備に取り掛かる。白い尾は身長の半分近くあるため、確かに1人では洗うのも難しそうだ。


「どうせだし、服も一緒に洗っちゃいましょうか。このサイズだとすぐ乾きそうですし」


 メルの言葉にこくりと頷くなり、ユキは服と呼ぶのも烏滸おこがましいボロ布をせっせと脱ぎ始める。奴隷にしては幼すぎたのか、彼女が着せられていたものは他の亜人と全く違うものだった。使い古された布切れを雑に繋ぎ合わせ、頭と尻尾に当たる部分を空けただけの貫頭衣。しかもそれを腰に巻いた短い帯で縛るだけの構造なので、少し動いただけで胸や尻が露わになってしまう。子供に着せるものとはいえ、あまりにも配慮が足りない。


「むむむ……流石にこれはいただけませんね。村に着いたら、とびきり可愛い衣装を用意して貰いましょう! レモティーちゃんならきっと、ノリノリで引き受けてくれますから!」


「……?」


 話の流れが掴めなかったのか、ポカンとした表情を浮かべたまま服を脱がされていくユキ。回復魔法による治癒効果は発揮されており、彼女の身体に傷や痣の類は全く見られなかった。ただ、長期に渡って栄養失調だったらしく、痩せ細って浮き出た肋骨が奴隷生活の過酷さを物語っていた。裸の狐少女を天然のシャワーへ誘導しながら、メルは決意を新たにする。


(育ち盛りの子に満足な食事も与えないなんて、あまりにも酷い……! これからは美味しくて栄養のあるものを、お腹いっぱい食べさせてあげないと!)


 本来なら触れ合うどころか顔も知らずに過ごしていたであろう、2人の獣人少女。この思いがけぬ邂逅が後に、少女達の冒険を導く新たな道標みちしるべとなる。

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