33 ランナーズハイ
合宿の前週の金曜日、本社では最後の会議があった日。吉岡君が、最後のデート場所に選んだのは、ビルの地下にあるランニングベースという施設だった。
イケコンが立ち去った後、カフェに座ったまま、スマホで行き先を選んでいた吉岡君は、思い切ったように私に画面を見せて来た。
「じゃあ、ここにしよう」
「これは何のお店?」
「皇居ランをする人のための施設。これから走りに行こう」
「え、なにそれ? 走ろうって言われても、そんな格好じゃないし……」
金曜日は、工場にいるだけの普段の日とは違って、どこに行っても恥ずかしくないように、ちょっとおしゃれして来ている。だから今日も、可愛めのスーツ。
「大丈夫。ウェアもシューズも借りられるし、シャワーやロッカーもあるから」
「なんで、最後のデートは走ろうって結論にたどりついたの?」
悪くはない。けど。不思議な選択。
「遠藤さんってさ、なんかずっと溜め込んでいるものがあるんじゃないかと思ってさ。思いっきり走ったら、スッキリするんじゃないかと思って」
「溜め込んでいる……」
「そう。前にランチ行った時に、カフェの前まで走ってた顔が、すごく楽しそうだったし」
確かに、寒くてビルの横の歩道を走った時、すごく気分が良かった。
「皇居ランって、一周するの?」
「そう。ぐるぐる何周もする人もいるけど」
「一周って何キロ?」
「だいたい五キロ」
五キロといったら、結構な距離がある。まともに長距離ランをするのは、高校で陸上部をやめて以来かもしれない。
「いいよ。走ろう」
「初回は会員登録がいるんだけど、免許とか持ってる?」
「大丈夫。持ってる」
「じゃ、受付は地下だから。行こう」
カフェを出て、地下につながるエスカレーターの前に歩いて来たので、吉岡君の後ろで立ち止まった。
「ねえ。これから走りに行こうって人が、エスカレーター乗ってちゃダメでしょう。階段よ、階段」
「え、階段?」
「決まってるでしょ」
エスカレーターの隣にある階段を、どんどん降りていくと、吉岡君もあわててついてきた。
「ノリノリで良かった。ドン引きされたら、どうしようかと思ったけど」
「久しぶりに走るって思ったら、なんか元気になってきた」
地下街をまっすぐ進んで、お店のあるエリアから少し離れた場所に、ランニングベースと書かれたガラス扉があった。中に入ると、スポーツジムのような受付。
「一人、新規入会でお願いします。自分は、これが会員証」
「はい。ではこちらの申込書に記入いただけますか」
バインダーに綴じた紙を渡されるので、名前や住所を記入する。
「ウェアとシューズのレンタルを二セットお願いします。あと、靴下も一足は購入で」
「はい。シューズのサイズは何センチですか?」
「遠藤さん、靴のサイズはいくつ?」
「あ、スニーカーなら二十四センチかな」
書類に記入している横で、吉岡君はテキパキと手続きしている。会員証も持っているし、よく来ているのかな?
Tシャツに、スパッツと短パンを重ねばきして、ランニングシューズを履くと、気分はすっかりランナーになっていた。高校生の時のジャージとは違って、カラフルなTシャツと黒いスパッツの組み合わせがおしゃれ。
地上に上がって皇居の方に歩いていると、さすがにTシャツ一枚では寒いけれど、帰宅するビジネススーツの人達の間に、同じようなスタイルの人が、ちらほら混ざっているのが目についた。東京駅に向かうスーツの波に逆らうように、反対の皇居に向かっている。
「結構、走っている人いるんだね」
「うん。夕方から夜に出てくる人は多いよ」
大手門に向かって通りを渡ると、かなりのハイペースで走っている人が次々と歩道を通り過ぎて行く。その後から、職場のグループなのか、集団でゆっくり走っている人達もやってくる。暗い中、黙々と走っている人がこんなにいたなんて。
邪魔にならないように、大手門前の広場まで移動してストレッチを始めた。何も言わなくても、お互い元陸上部だから、走る前は体をほぐすのが当たり前になっている。
「吉岡君は、よく走ってるの?」
「時々ね。ガチな人は毎日何周もしているらしいけど、月に何回か、一周だけ回ってる」
「じゃ、先に走って。後ろついてく」
「了解。行こうか」
ゆっくりしたペースで走り始めた吉岡君の背中を見ながら、初めての皇居ランに出発した。
スタートしてしばらくは平坦な道だったけど、竹橋を過ぎたあたりから、登り坂になってきた。皇居の周りなんて、お堀があって真っ平らなのかと思っていたら、結構な急坂を登っている。それでも、吉岡君は一定のペースをキープして走ってくれるから、後ろについているのはとても楽。
「大丈夫? ペース落とした方がいい?」
「平気。もっと飛ばしてもいいよ」
走りながら、後ろを振り向いて声をかけてくれるけど、前見てないと危ないよ。
狭い歩道を通り抜けると、歩道は広くて走りやすいけど、緩やかな坂がだらだらと続くようになった。いつまで走ってもずっと上りというのも、結構つらいかも。上り坂を一気に走ってきたので、だんだん息が荒くなってきた。
元陸上部と言っても五年も前のことだし。あの頃は十代だったし。そろそろ限界かも。
背の低い石垣に挟まれた道を走っていると、やがて頂上を過ぎたらしく勾配が下り坂に変わる。少し行くと、左右の視界がさっと開けて、下の方に大きなお堀が見渡せるようになった
吉岡君は少しずつペースを落として、お堀を見下ろす公園の中に入って行った。
「ちょっと休憩しようか。飛ばし過ぎて怪我しても困るし」
「はあ、はあ、そうだね」
公園に入り、ゆっくり歩いてから止まると、また何も言わないけれど、二人そろって、膝に手をついて、息を整えながらアキレス腱を伸ばし始める。
「ここは、どのあたり?」
「千鳥ヶ淵。だいたい半分くらい走ってきたかな。どう? 久しぶりのランは?」
「すっごく気持ちいい」
やっぱり、好きだな。
「出てくる時に、スポーツドリンク買って来れば良かったな」
「まだまだ平気」
膝立ちからまっすぐ立ち上がり、片足になって反対の足をぶらぶらさせる。まだ腱も筋肉も全然大丈夫。
「そう? ここから先は下りだから、少し楽になるよ」
「じゃ出発しよう。体冷えちゃう前に」
「了解」
また吉岡君を先に、お濠を左手に見ながら走り始めた。
さっきまでの道と違って、どんどん坂を下りて行くので、走るのは楽だった。周りのランナーも、明らかにペースが速い。
桜田門を過ぎて二重橋まで回り込むと、出発した丸の内のビル街が目の前に見えてきた。広場の先に壁のように建っているビルが、キラキラと輝いていてとってもきれい。でも、あの灯り一つ一つの下に、実は残業しているビジネスマンがいると思うと、ちょっとおかしくなってくる。『ああー、もう帰りてー』とか言ってる人もいるんだろうな。
ここからは、大手門までまっすぐに見通せる平らな道だった。
「ねえ、吉岡君」
「なに?」
道幅が広くなったので、横に並んで走りながら話しかけた。
「ここから、あそこの大きな看板まで、競争しよう」
「え? 競争って」
「行くわよ。よーい。スタート!」
言うのと同時に、全力でスパートした。
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