23 ジャジーナイト
出てきた料理をあらかた食べ終わり、デキャンタのワインも空いた頃、ステージ上にアーティストが登場して来た。ピアノ、ベース、ドラム、ギターに、女性のボーカル。
「始まりますね」
拍手しながら、ソファの隣に座っているイケコンが、こちらの耳元に顔を寄せて話しかけてきた。演奏中は、耳元に口を寄せて来ないと、話声は聞こえないだろうな。ちょっと、くすぐったいような、背中がぞくっとするような感じ。
初めて聴くジャズのライブは、パンチのある曲としっとりしたバラードを織り混ぜて、意外に面白いことを話すボーカルの曲間のトークもあり、五、六曲の演奏があっという間に終わってしまった。
その間、軽く肩がふれる程度の距離で隣に座っているイケコンは、タクシーの中のように手をつないできたりはせず、時々耳元でささやいてくるだけだった。先週の吉岡君とは歩き回っている間ずっと手をつないでいたけれど、それとは違う大人な感じ。
「いかがでした?」
ステージからアーティストが引き上げると、静かなBGMだけになったので、普通に座ったまま話しかけてきた。ほっとしたような、ちょっと残念なような。
「女性ボーカルが素敵ですね。ジャズって全然わからないんですけど、聴いたことのある曲もいくつかありましたし」
「今日の第一ステージは、割とスタンダードな曲が多かったかもしれませんね」
周りでは、ウェイターがまた料理やお酒を運び始めた。
「ワイン、おかわりします?」
演奏が終わったところで、グラスに残ったワインを飲み干してしまっていた。しかし食事も終わっているし、演奏も終わったのなら、もう長居はしないのでは?
「もうステージは終わりなんですよね?」
「しばらくすると第二ステージがありますよ。それまで、ゆっくり飲んでいられます」
だから他のテーブルの人も、誰も席を立たないのか。
「それなら、もう一杯いただきます」
「おつまみにチーズでも取りましょうか」
イケコンは、横に控えていたウェイターに、グラスワインとチーズをオーダして、こちらに向き直った。
「先週、泰造とデートしていかがでした? クリスマスまで待たずに、もう、こっちに決めてもらってもいいんですよ」
余裕の表情でニコニコしている。だけど、もう少しでホテルにチェックインしそうになりましたって意地悪言ったら、どんな反応するかな? 結局してないから効かないか。
「楽しかったですよ。ドキドキする体験もできて」
グラスを持ちながら、いたずらっぽく言ってみた。
「ほう。それは意外」
それに合わせて、大袈裟に驚いた顔をしてくれる。
「どこで、何してたか気になります?」
「いいえ。全然。彼は彼なりに頑張っているでしょうけど、僕は僕のやり方で楽しんでもらいますから」
確かに、それぞれアプローチの仕方が違うから、毎週交代でお付き合いするのも悪くない。とはいえ、どっちつかずのままで、いいのかな?
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「そもそも、なんで狭間さんは私に構ってくれるんですか? 私なんか相手にしなくても、お金もあるし、ハンサムだし、絶対モテますよね?」
「なんで、遠藤さんにアプローチしているか、ですか」
イケコンは、真っ直ぐこちらを向き、目が合うとニコリと微笑んだ。
「だって私なんて、大して美人でもないし。性格もひねてて素直じゃないし。すぐ何かやらかすドジだし。狭間さんのような、すごい人には釣り合わないと思うんですけど」
嫌味でもなんでもなく、素直にそう思う。
「本気で、そんな風に思ってるんですか? ご自分のこと」
笑顔が引っ込んで、ちょっと困ったような、真面目な顔になった。
「遠藤さんは、誰が見ても目を惹く可愛らしさがあるし、人一倍頑張っているし、賢いし。僕から見たら理想の女性ですけど」
本気で言ってるのかな。おだてるのが上手なだけ?
「私、そんなに賢くないですし、頑張ってもいないですよ。仕事場の私を見たらわかると思いますけど、なんとなく毎日過ごしているだけで」
イケコンはワイングラスを手に持ったまま、しばらく何か考えているようだった。やがて、一口含むとグラスをテーブルに置き、私の目を見ながら微笑んだ。
「そんな風に考えているのは、本当にやりたいことがまだ見つかっていないか」
少し間をおくと、ちょっと真面目な顔になった。
「本当はわかっているけど、気がつかないふりをしているのかの、どちらかじゃないですか」
うっ……
本当にやりたいことは、わかっているのに、気がつかないふりをしているのでは、なんて。
さすがイケコン。全てお見通し。
相模原工場に配属されて、さして面白くもない思いで毎日過ごしているけど、本当はこんなはずではなかったのにという思いは、今でもある。
学生の時に入っていたSDGsサークルの活動では、友達に誘われただけのなんちゃって部員ではあっても、世の中に貢献する何かができたという達成感があった。この会社に入ったのも、世界に通用する何かができそうだったから。
いったい何やってるんだろう、私。
「遠藤さん。夢は、夢で終わらせたらもったいないですよ。やりたいことに気づいているのなら、ちゃんと認めてあげませんか?」
ズシン。
「やりたいことを実現するなら、僕の人脈でも、スキルでも、何でも使って下さいね」
……
「遠藤さんのためなら、何でもしますよ」
何だろう。涙がこぼれてきた。
イケコンとなら、何でもできそうな気がするのは、ワインの酔いのせい?
「僕と一緒に、夢を実現しませんか?」
やばい。涙が止まらない。
テーブル席から、拍手が湧いてきた。さっきのバンドのメンバーが、手を振りながらステージに戻ってくるのが見える。
「第二ステージが始まりますね」
「……」
まだ心の整理がつかなくて、何も言えなかった。
「この話はここまで。今日は、ゆっくり演奏を聴きながらリラックスしましょう。何もあわてて結論を出すこともないですし」
そっと肩に手をまわしてくれる。包み込まれるような安心感。
やばい。やっぱり私、酔ってる。
一曲目は、スローなバラードだった。じんわりと胸の中に染み込んでくるような、暖かく、しっとりとした触感の歌声。
その歌にゆったりと身を任せながら、すぐ近くで私を見下ろしているイケコンと目が合うと、目が離せなくなってしまった。ゆっくりと近づいてくる瞳に思わず目を閉じると、柔らかく温かい唇が私の唇に触れる。
体の芯に、しびれるような切ない感覚が流れた。
ほのかに香る、柔らかな匂い。肩にまわして、しっかりと支えられた手。そっと髪を撫でるやさしい指。
だめだー。気持ち良すぎる。
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