10 出会った時

 五年前、高校三年生だった私は、インターハイ神奈川県大会の陸上二百メートルに出場して、決勝まで進んでいた。自己ベストタイで走れれば六位入賞は確実で、関東大会に行けるとコーチに言われていた。けれど、カーブで足を滑らせて転倒し、関東大会から全国へのきっぷをふいにしてしまった。かんじんな時にドジなのは、昔から変わらない。


「女子二百メートル決勝のカーブで」

「何で狭間さんが、知ってるんですか?」

「あの日、陸上部のバイトで、競技場の場内整理係やってたから」

「え?」

「足をケガした遠藤さんに、肩を貸して救護室まで連れて行ったのが僕」

 確かに、激しく膝を擦りむいて流血していたのをティッシュで拭き取って、びっこを引く私を、救護室まで連れて行ってくれた係員の人がいた。


「予選の時から、走っている姿勢がすごくきれいで速くて、心の中で応援していたのに、決勝で突然転倒したので、びっくりして飛んで行ったんですよ」

「そんな昔のこと。よく私だってわかりましたよね。遠藤なんて名前、いくらでもいるのに」

「先週、最初に会議に来た時はナチュラルメイクだったから、面影がはっきりわかりました」

 それ、ナチュラルメイクではなく、すっぴんと言います。工場に行く時はベースクリームとリップくらいしかしないから、ついそのまま。ごめんなさい。


「遠藤さん、救護室で、悔しくてずっと泣いていましたよね」

 五年前の競技会か。すっかり忘れていたけど、懐かしいなあ。ケガして救護室に行って、そして。

「お医者さんが手当した後、椅子に座って泣いているのを、ずっと横で見守っていたんですけど」

 そうだった。係員の人がずっと横で見ていてくれた。


 インターハイが終わっても、あなたの走りが終わるわけじゃない。

 大学に行っても、社会人になっても、走り続けることはできる。

 そう、その人は、そう言って励ましてくれた。


「例え競技場ではなくても、街中でも、全力で走れば、そこがあなたのフィールドだから」

「ああ。そんなことも言いましたね」

「あの人が、狭間さんだったんですか」


 はっきりと思い出した。がっくり落ち込んでいた私が、前向きになれたのは、あの人のおかげだった。丸刈りで真っ黒に日焼けして、全然イケコンの面影はなかったけど、かっこ良かった。大学に行ったら、こんな先輩がいるのかって、ちょっとときめいたな。

 はああ。こんなに変わってたら、気が付かないよ……


「何ですか。先輩は、高校生の頃から遠藤さんに目をつけてたって言いたいんですか?」

「そうだよ。会議室で一目見た時、ドキっとした。運命の再会だってね」

 そんな、高校生の頃から目をつけてたなんて、さらりと言われても。


「だから、泰造なんかの相手してないで、僕と付き合って下さい」


「ストーップ! いくら先輩でも、それはダメです。取引先の社員に手を出すなんて、言語道断」

「仕事とプライベートは関係ない」

 本気で睨み合いながら、サラダむしゃむしゃ食べてるし。なんか、この二人、すごく仲がいい。


「あの、狭間さんと吉岡君て、今回の仕事で再会したんですか? それとも、大学卒業してからずっと連絡はしていたんですか?」

「先輩が卒業してからも、OB訪問とか、就活とか、なんだかんだ連絡してたかな。今回のプロジェクトも、部長から聞いた発注先が先輩の会社だったから、すぐに連絡したら、本人が担当するって言われたし」

「泰造は、なんか困ったことがあると、すぐ僕のところに転がり込んで来て、タダ飯食っていくんだよな」

「いや、先輩の飯、めちゃくちゃ旨いから」


 確かに、このスクランブルエッグも、ふんわりとろとろで本当に美味しそう。でも、二日酔いがひどくて食べられないから、オレンジジュースを、ごくごく一気飲みする。

「遠藤さん、あまり食べていないけれど、食欲無い? 無理しないでいいからね」

「ごめんなさい。やっぱり飲みすぎたみたいで、ちょっと……」

「なら、シャワーを浴びてくれば? 昨日、そのまま寝てたから、汗かいてて気持ち悪いでしょう」

「え、でも」

 男の人の家で、シャワー浴びるなんて。いや、でも、もしかして昨夜してたとしたら、ちゃんと洗った方がいいのかな。うわー、顔が熱くなってきた。

 こんな普通に会話しているんだから、何にもなかったよね?


「おい、泰造。そこのコンビニに行って、女性用の下着買ってこい」

「ええっ、俺が?」

「当たり前だ。遠藤さんがこんなことになったのは、お前のせいだからな」

「待って、待って。そんなものを吉岡君に買ってきてもらうなんて、恥ずかしいからやめて」

 吉岡君にパンツを買ってきてもらって、それ履くなんて、絶対ありえない。シャワーなんて浴びてる場合じゃない。


「あの、あんまりお邪魔しているのも申し訳ないので、もう帰ります」

「汗を流してからの方が良くないですか?」

「ありがとうございます。でも、メイク落としも持ってきていないので、家に帰ってから、ゆっくりお風呂に入ります」

「そうですか」

 とっても残念そうな顔。きっと親切で言ってくれているんだろうけど、やっぱり無理です。


「スーツに着替えますか? そのスウェットをお貸ししてもいいですが、ちょっとブカブカですかね」

「……着替えてきます」

 この格好じゃ、さすがに外は歩けない。


 スーツに着替えて、二人と一緒にエントランスに降りてきたが、エレベーターのドアが開いた途端、驚いて息を飲んだ。ロビーは、フロアも壁も大理石貼りで、正面に花を生けた豪華な花瓶が置いてあり、エレベーター横にはコンシェルジュまで座っていた。ここ、相当高級なマンションみたい。外資系コンサルタントって、どれだけ稼いでるんだろう。


 イケコンは、ランドリーバッグをぽんとコンシェルジュに渡して、出口に向かって歩き始めた。

 貸してもらっていたスウェットパンツとフーディーは洗濯して返します、と言ったのだけど、どうせランドリーサービスに出すだけだから、と聞いてもらえなかったのは、こういうことだったんだ。専用の袋に入れて係に渡すだけ。さすが高級マンションは違う。


 カードキーでガードされた自動ドアを出て、駅に向かって歩いている間、どうしても聞けなかったことが、頭の中をぐるぐるしていた。昨夜、あの部屋に行ってから、イケコンとしちゃったのかな? 感覚としては体に違和感が無いし、吉岡君もいたのだから、何もなかったと信じたいけど。

 吉岡君はソファーで寝てたとして、イケコンはどこで寝ていたんだろう……


「あの、昨日……」

「はい?」


 いやいやいや、昨日、私と寝ましたか、なんてとても聞けない。


「……どうもありがとうございました」

「どういたしまして。来週の金曜日は、泰造なんかほっておいて、僕がいいお店にお連れしますよ」

「ダメですよ。遠藤さんは、昨日行けなかった店に俺と行く約束ですから」


 また睨み合ってる。

 来週、どうしたらいいのかな、私……

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