4 ホームグラウンド

「あー、遠藤さん。財形貯蓄の申込書が切れてるって。補充しておいて」

「はーい」

 月曜日。週明けのだるい体を騙しだまし出勤し、制服に着替えて席に着いた途端、課長に言われてしまった。先週の金曜日は午後から出かけていて、伝票の棚をチェックしなかったからな。他の伝票も、少なくなっているのがないか見ておかないと。

 夢のような金曜の午後は、週末を過ぎて、はるか昔の思い出になってしまった。今は目の前の現実に向き合うのだ。頑張れ、私。ふう。


 書類棚の引き出しに、ストックの箱から出した伝票を補充していると、寺崎先輩が通りかかった。入社六年目。二十八歳独身。総務部の女性社員の中では私の次に若いけれど、頼りになる先輩。


「佳奈ちゃん、本社はどうだった?」

「はい。教えていただいた出張者席に行ったんですけど、いっぱいで使えませんでした」

「そう。金曜の午後は、出張で立ち寄る社員が多いのかもね」

 半分くらいの席は、上着や荷物が置いてあるだけだったから、とりあえず確保して、どこかでお茶している人も多そうだったけど。


「帰りにどこか寄ってきた? 銀座とか新宿とか」

「あー。同期がいたので、近くでご飯だけ食べて帰りました」

「新人研修終わってからだと、半年ぶりくらい? よかったわね」

「はい」

 あんまり詳しいことは、言わない方がいいかな。寺崎先輩は情報通だから、いろいろ教えてもらうには重宝するけれど、逆にひとこと話したら、あっという間に総務部全員に広がりかねない。


「会議の方は無事に済んだの?」

「なんか、本社の偉い人達がたくさんいて、緊張しました」

「お疲れさま。今週も行くんだよね?」

「はい。今週はお昼休みに移動しようと思います」

「大変だ」

 にこにこしながら、席に歩いて行った。

 もし、イケメンコンサルがいましたよ、とか言ったら、どういう反応するかな? 自分も見に行きたい、とか言い出すかな? 


 伝票を補充し終わったら、文房具や備品の管理簿のチェック。うちの会社はコストに厳しいから、消しゴム一個でも、ボールペン一本でも、払い出す時には管理簿に部門コードと名前を書いてもらうことになっている。ずっと見ている人がいるわけじゃないから、ごまかそうと思えば、できないことはないけど、そんなことしても得するわけじゃないし、みんなちゃんと書いてくれている。


「よし、チェック完了。メール確認の前に、コーヒー買ってこようかな」

 伝票や備品の棚は、払い出しに来る社員が取りやすいように、オフィスの入口からすぐの所に置いてある。なので、そのまますぐ廊下に出られる。フロアの真ん中には、自動販売機が置いてある休憩コーナーがあって、そこで紙コップのコーヒーが買えるようになっていた。


 自動販売機のコーヒーのボタンを押し、プリペイドカードをタッチすると、ウイーンとコーヒーを作る音がし始める。ご丁寧に、豆から挽いて一杯ずつ淹れているらしい。その間に、横にある窓から外を眺めていると、自分の姿が鏡のようにガラスに映っているのに気がついた。


 工場では、事務職も技術職も、男性も女性も、みんな揃いの灰色の作業服を着ることになっている。事務職の女性は上着だけで、下は私服のスカートでも構わないことになっているけれど、上半身は灰色なのは一緒。ポケットにボールペンが挿さっているのもお約束で、私の胸にもちゃんとある。


 でも、本社で廊下を歩いていた女性社員は、ぜんぜん違ってた。


 キリッとしたスーツや、ラフなパンツとシャツや、人それぞれにスタイルは違うけれど、みんなキラキラしているように見えたのは、気のせいじゃないと思う。制服があった方が、毎日のコーディネーションを考えなくていいから、楽は楽なんだけど。でも就活していた時は、自分もああいう場所で、あんなスタイルで働く夢を見ていたはずだったのにな……


 横で、自動販売機がピー、ピー、と鳴き始めた。プラスチックの扉を開けて、紙コップを取り出すと、自分の席に向かって歩く。

 今週の金曜日は、ちょっとキリッとしたスーツを着てこよう。入社前に買ったやつが、まだ着られるはず。


 金曜日から溜まっていた、社内便で発送する書類の依頼メールや、会議室の設備の故障連絡のメールを一通り処理し終わってから、最後に残しておいたメールをようやく開く。発信人は、吉岡君。


『先週はお疲れさまでした。久しぶりに元気そうな顔を見られて、嬉しかったです。今週は、ぜひランチに連れて行きたい店があるから、一時に来てください』


 メールの表題は『金曜日の打ち合わせについて』になっているけれど、中身は完全にプライベートメールじゃない。こんなの会社のメールでやりとりして、大丈夫なのかな……


『返信:金曜日の打ち合わせについて

了解しました。金曜日は一時にそちらに到着するように移動します。

遠藤佳奈』

 これくらいの、ビジネスメール風に書く配慮が欲しかったな。


 でも、どんなランチに連れて行ってくれるんだろう。楽しみ。それだけで、今週一週間を乗り切れそうな気がする。

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