第2話 襲撃の黒猫(2)

 僕の頭の中で音楽が鳴り出した。オンラインゲームのボス戦のBGMだった。

 僕はゲーム機を置くと、ポケットの中の銀色の円盤を確かめた。


 空間歪曲手榴弾。


 起爆すると瞬間的に強力な重力を発生してまわりの空間を歪める小型兵器だ。

 難しい理論はわからないけど、それで空間の歪みから歪みへと瞬間的に移動できるらしい。

 つまり、使い方によっては強力な敵に追い詰められても簡単に逃亡することができるし、敵を遠ざけることもできる。


(あの噂…。)


 僕のみぞおちに冷たい不安感がぞくりと走った。


 最近、摘発監督や摘発員が次々と現場で惨殺されているが、上層部は隠しているという噂だった。

 犯人の正体は不明で通称「黒猫」と呼ばれているらしかった。

 黒猫には命乞いをしても全く無駄で、楽しむように無惨にナイフで切り刻まれるとも言われていた。生存者がいないので黒猫がどんな人物なのかはわからなかった。


 僕はいちおう訓練は受けていたけど、そんな敵が実在するとしたら全くかなわないと思い、震えがとまらなくなった。

 唯一の望みは、黒猫は相手を倒す時に必ず接近戦に持ち込んでくるという点だ。その時に空間歪曲手榴弾を使えば逃げられるはずだった。



 あくまでも噂だと僕が自分を安心させようとしたその時、轟音と共に廃工場のトタン屋根が何かに突き破られて崩壊した。

 その何かがこっちに落下してきたので、僕は思わず車内で頭を抱えて伏せた。


 すごい音と衝撃がした後、また静かになった。恐る恐る車の天井を見上げると少しへこんでいて、僕はパニックに陥りそうな自分を何とか落ち着かせようとした。


(なにが落ちてきたんだろう?)


 僕は車のドアを開けて外に飛び出し、銃の照準を廃工場に向けたけど、バラバラと屋根が崩れる音がするだけだった。

 僕は車の背後に回って昇降梯子をあがり、落ちてきた物体を見て血の気がひいた。


 それは摘発員の一人で髭面の人だった。

 その人は大の字になって仰向けになり、まったく動かなかった。防弾ジャケットが紙のように切り裂かれて血まみれの上半身が露出し、その顔は苦悶の表情を浮かべていた。


 僕は冷静さを保てずに、こみあげてくる吐き気を必死で抑えようとしたけど無理だった。そして僕は気がついた。その人のジャケットにぶら下がっている手榴弾のピンが全て抜けていたのだ。

 僕は慌てて梯子から飛びおり、走って伏せた。


 背後から凄まじい爆発音がして、熱風が僕の背中を襲った。車の破片が周囲に落ちてくる音がして、僕はこわくて顔を上げることができなかった。


(そうだ、応援を呼ばないと。)


 混乱したままふらふらと立ち上がろうとして、僕は足に激痛を感じてうめいた。何かの破片が僕の太ももに刺さっていて、爆発の衝撃で飛び散った車の部品みたいだった。

 僕の頭の中ではずっと大音量でゲームのBGMが鳴り響いていた。


(どうする? どうすればいい?)


 僕の頭の中は際限なく思考で埋め尽くされた。

 

 …あの噂はやはり本当だったのか。何がソフトターゲットだ、役立たずのAIめ…他の摘発員たちは無事なのだろうか…来島だけでも無事でいてほしい…


 僕は出血がこわくて破片を抜けず、そのまま痛みに耐えながら地面を這っていった。

 敷地を出て道路までは遠く、僕は爆発音を聞いた誰かが当局へ通報してくれないかと期待した。


(通報?)


 僕は自分の携帯電話があることを思いだした。痛みにたえながら上半身を起こし、僕はポケットから携帯を取り出したけど、手が震えてなかなかボタンを押せなかった。


 焦っていると、僕の背後から静かな声がした。


「誰に電話するの?」


 それは明らかに若い女性の声だった。

 親しい友人に話しかけるような優しい口調にかえって僕は不気味さを感じた。見たくはなかったけど、僕がぎこちない動きで振り返ると、すぐ目の前に全身黒ずくめの人が立っていた。


(この人が…黒猫?)


 その人は黒いサングラスに、同じく真っ黒な長いコートを羽織りトップスもボトムスも黒で、スリムフィットだから体のラインがよくわかった。

 一見細身だけど無駄な肉が一切なくしなやかで、黒猫というよりは黒豹のようだった。

 


 僕はあまりの驚きに声も出なかった。

 黒猫と思われる人は悠々と無音で歩いて来て僕のすぐそばにしゃがみ、不思議そうに首を傾げた。


「泣いてるの?」


 そう言われて初めて、僕は自分が涙を流している事に気がついた。恐怖のあまりに声を出すこともできず、僕は携帯を持ったまま相手を凝視することしかできなかった。


 僕が無言で震えていると、襲撃者は僕の携帯を指さした。


「それ、閉じてくれる?」


 僕はおとなしく携帯を閉じて地面に捨てた。


「ありがとう。」


 彼女はゆっくりとサングラスを外すと、僕にニッコリと笑みを投げかけてきた。


 彼女は、一度見たら忘れる事が出来ないくらいの美しい人だった。白い手に長い漆黒の髪、そして大きく深く黒い瞳。なにもかもが自然に整った美しさだった。


「君が…黒猫なの?」


 その人はうなずいて、こんな状況なのに僕は思わず見惚れてしまったけど、すぐに自分の立場を思い出した。

 僕は顔を黒猫に向けたまま、そっと手を銃に持っていこうと試みた。微笑みを崩さないまま、黒猫は僕の手を掴んだ。


 どこにそんな力があるのか、万力で締められたように僕の手は全く動かなかった。


「これ、預かっておくね。」


 黒猫は笑いをたやさないままに、僕から銃をとりあげた。


「ゴム弾かあ。ま、いいか。」


 黒猫はいきなりその銃口を僕に向けて、いかにも楽しげに言った。


「何か言い残したいことはある?」


 僕は汗や涙でひどい状態の顔を、子供がいやいやをするように振った。


「た、助けて…。」


 でも、それは逆効果だった。僕のことばに唐突に黒猫の表情が凍りついた。

 黒猫は銃を放り投げ、ゆっくりとサングラスをかけ直すと、恐ろしいほどまでに僕に顔を近づけてきた。

 黒猫は僕の顔にそっと指で触れて、おもわずビクッと僕の体が反応した。僕の涙を指先で拭いながら、耳元で黒猫がささやいた。


「私はね、あなたに会えて本当に嬉しいの。」


(彼女は何を言っているのだろう? 僕を知っているのか?)


 恐怖と混乱で沈黙する僕に、黒猫は喋り続けた。


「それなのに、助けてくれだなんて。」


 いきなり、黒猫は僕の太腿に刺さっていた破片を引き抜いた。僕は焼けるような激痛に悲鳴をあげながら倒れた。

 傷口を押さえる僕の手指の間から血があふれ出してきた。


 黒猫は立ち上がり、真っ赤に染まった僕の手の上から傷口を思い切り黒いブーツの底で踏みつけた。僕は再び、誰も聞いてくれない悲鳴をあげた。


「私から全てを奪っておきながら、助けてほしいだなんて!」


 何度も何度も傷口を踏みつけられて、僕は凄まじい痛みに気を失いかけた。黒猫の手にはいつのまにか、大きなナイフが握られていた。


「他に言うことはないの? 三毛神 零さん?」


(僕の名を知ってるんだ!?)


 僕は黒猫がなにを言っているのかさっぱりわからなかった。常軌を逸した相手から逃れようと後ずさる僕を、黒猫は微笑みながら追いかけてきた。足音を全く立てずに。


 僕はポケットの中に手を入れた。



「動くな!」

 

 静寂の中に来島の声が響き渡った。その方向を見ると血まみれの顔の来島が恐ろしい形相で、くすぶる改造バンの残骸をカバーにして銃口を黒猫に向けていた。

 黒猫は興味なさげに振り向くと小さく舌打ちをした。


「生きてたんだ。」


 来島はぴったりと銃口を黒猫に向けたままにじり寄ってきた。


「三毛神! 大丈夫か! 動けるか!」


 俺は慌てて首を振り、重症の手信号を送った。来島はうなずいた。


「武器を捨てろ!」


 来島が叫び、黒猫は器用に肩をすくめると、素直にナイフを地面に捨てた。


「ふうん。あなたたち、そういう関係?」


 サングラスで表情がわからないけど、黒猫の口許がゆがむのが見えた。


 僕は全身から力が抜けて、痛みと出血で気を失いそうだった。


(助かった…。)



 と思ったら、黒猫は凄まじい速さで僕に駆け寄って来た。日本刀みたいに長いナイフを水平に構えて、黒猫は正確に僕の首を狙っていた。


(もう一本、ナイフを持ってたんだ!)


 来島が発砲する音が聞こえて、僕の頭の中ではまだBGMが大音量で鳴り響いていた。

 黒猫は背中への被弾を気にせず、僕を刺し貫こうとした。

 僕の目の前に、黒猫の切っ先が迫った。


 僕はポケットの中から空間歪曲手榴弾を出して起爆した。

 閃光に目が眩み、誰かが何かを叫んだような気がした。

 体がバラバラになったような引き伸ばされるような膨らむような、不思議な感覚がしたけど痛みは無く、むしろ無感覚だった。


 僕の意識は完全な暗闇に陥った。

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