第37話 名医田井中
N
優志
佐藤豊
中村英三郎
田井中夏樹
職員の女性
N最大の問題である胆石症は——。
処方された薬の効果か、夢の世界における“生命の水”のおかげか、はたまたねずみの医師ハールヤのツボ押しによる治療のせいか——ひとまず、脇腹の痛みに悩まされることはほぼなくなっていた。
とは言え、患部の違和感はまだ完全には消えてはいない。
“自然治癒力を引き出す”を治療方針に掲げるハールヤにすら、「手術が必要」と言われていたのだ。そんなに簡単に治るはずがない。
手術が嫌で逃げ続けていた
優志(受けましょう、手術。いっそ手術して、スッキリしてしまうのがいいのかも知れない——。これは私自身の戦いなのです——。この試練を乗り越えれば、きっと魔王にも勝てます——)
優志はそう自分自身に、言い聞かせていた。
手術を受ける場所の選択肢は、2つ。
松田病院か、ねずみの医師ハールヤの医院か。
ハールヤは良き医者であり、共感できる話も多いと優志は感じていたが——さすがに異世界での、しかも人外による手術を受けるのには抵抗があった。
判断は保留にし、ひとまず優志は松田病院に診察予約の電話を入れた。
電話が済むとマスクを装着し、出発した。
♢
松田病院の入り口には、アルコールの消毒液と検温機があった。
マスクをつけた人たちが手のひらにアルコールを吹きかけて擦り込んでいる。そして検温機の前に立ってグリーンライトが灯るとロビーに入っていく。
優志も両手をアルコール消毒し、検温して体温が35.5℃であることを確認すると、手早く受付を済ませて待合室へと向かった。
優志(座席の間、こんなに空けなきゃいけないのですか……。ん? あそこにいるのは)
目に入ったのは——以前「運命が憎い」とぼやいていた40代後半ぐらいの肥満体型の男性——
以前話した時よりも、さらにどんよりとした表情でうつむいたままの佐藤は、じっと名前を呼ばれるのを待っているようだ。
優志「この間の……佐藤さんですよね」
優志は声をかけつつ横長のソファに座ると、佐藤は俯いたまま返事をする。
佐藤豊「……どうも。世の中、いいことが無いですねぇ」
優志「あ、もう一度お願いします」
佐藤「世の中、いいことが無いですね、と言いました。生きてても、意味が無いですね」
距離が離れていることと、マスク越しに声を出していることが要因で、相手に声が伝わりにくい。
優志「佐藤さん……お辛いでしょうが……諦めず、信じましょうよ。私も色んな出会いがあり、持病も良くなりま」
佐藤「その言葉が、余計に辛いんですよ」
佐藤に言葉を遮られ、しまった、と思う優志。
そこへ追い打ちをかけるかのように、見知らぬ男性が声をかける。
中村英三郎「その通りですよ、そこのお方」
声の主は、痩せ型で髪がほとんど白くなった中年男性だった。
ヨレヨレのシャツに、ボロボロの靴。体の一部であるかのように似合っている大きめの黒縁眼鏡だけはしっかり手入れされており、LEDの照明をクリアに反射していた。
中村「失礼、私は【
中村は、1人分のスペースを置いて優志の左横に腰を下ろした。優志は、佐藤と中村に距離を置いて挟まれる形となる。
しかし佐藤はこれ以上優志たちと関わるまいと思ったのか、背中を丸め下を向いた。
優志「すみません、中村さん。私が無神経なことを言ってしまったので……」
佐藤が下を向いてしまったので、優志はやむなく先に中村へ謝罪をする。
中村「こちらこそすまない。諦めず、信じた結果が私の病状だから……つい言葉が出てしまった」
しっかりと目を見て話す中村に、優志は少し安心感を覚えた。
言葉を選び、中村に尋ねる。
優志「失礼を承知でお尋ねしますが、どのようなご病気を……」
中村「病名は言えない。だが……気付いた時にはもう手遅れだった。余命、3ヶ月」
マスク越しに聞こえる中村のハキハキとした答えに、優志は絶句する。
中村「私は、小説家を目指していた。書籍化を目指し小説サイトで結果を出すべく、寝る間を惜しんで書き続けた。が、今書いていてコンテストに出している作品ももう終盤なのに、未だPVは500にも行かないし、星の数は18……。書籍化はおろか、目標のPV10万、星1000にすら、到底届きそうにもない」
中村の目が潤んでいることに気付く。
中村「私の作品は、知人からも師匠からも評価されている。良作だという自信もある。だが何千もの他の優秀な作品の中に埋もれ、見向きもされない。バズる作品は投稿されている作品中、何千分の1なのだ」
優志「中村さん……」
音楽の世界も同じだ。
いかに名曲を生み出そうとも、いかに秀でた演奏技術、編曲技術を持っていようとも、注目されなければ、存在しないに等しい。「その気持ち、分かります」と言いかけ、口をつぐんだ。
中村「私の病気は、私の年齢では
中村の目から涙がひとつ、零れ落ちた。
中村「何千人分の1で私の作品はバズることはないのに、何で何千分の1の確率の病気が私に当たるんだろうな」
職員の女性「飛田優志さーん」
空気を読まぬ職員の女性の声が、待合室に響いた。
優志は中村にゆっくりと頭を下げると、重い足取りで診察室へと向かった。
優志(はあ……またあの医師ですか。「諦めて手術する気になったんか?」みたいに勝ち誇ったような顔で言われそうです。ただでさえ辛い話を聞いた後だというのに……)
気持ちを切り替えようと思った
そっと、診察室の扉を開けた。すると——。
田井中夏樹「飛田優志様、初めまして。この度、新しく担当させていただきます、【
若き男性の医師——田井中夏樹が、アクリル板の仕切りの向こうにある椅子から立ち上がり、頭を下げる。
年齢は40にも満たないだろう。
笑顔を湛えながら頭を上げる姿を見ると、それだけで安心感が込み上げてくる。歳が近いせいもあるだろうが。
ともあれ、担当医が変わったのである。
優志は一瞬ポカンとしたが、すぐに「
田井中「胆石症とのことですね。この後、いくつか検査をさせていただきますので……」
田井中の、マスク越しの優しげな声色、丁寧な言葉遣い、ゆっくりとした口調、仕草。それらは、手術を控えた優志の不安な心をそっとほぐすかのようであった。
もしかしたら良い医師に出会えたかも——優志はそんな期待を抱きつつ、諸検査に臨んだ。
♢
田井中「飛田様、お疲れ様でした。痛みは、以前よりも和らいでいる感じですよね?」
検査後も、田井中からにこやかに話しかけられた優志は、思わず微笑みながら返す。
優志「はい、ほんの時々痛むぐらいで。手術は嫌だったので、生活習慣を改善して何とか治そうと色々やってみたのですが……。でも、いっそ手術してスッキリしようという覚悟が、ようやく出来ました」
田井中は笑顔のまま頷き、優志の話に耳を傾けていた。
そして、田井中が口にした検査結果——それは、意外な答えだった。
田井中「以前の検査の時と比べると、石が流れて随分小さくなっています。滅多に無いことなのですが、ここまで小さくなれば……無理に手術をする必要は無いでしょう。時間はかかりますが、生活改善で頑張っていきましょう」
優志「……ありがとうございます!」
意識せずとも、笑顔になる。
何か嬉しいことがあった時の子供のように、優志は田井中に話した。
優志「実は、食事に気をつけて、体もしっかり動かして、マッサージを受けたりもしていたのです。……やはり、このような病気も自然に治るのですね!」
田井中「はい、人間には自然に治る力があるんです。本当は手術した方がリスクは少ないんですが、飛田さんは出来るだけ自然に治したいとお聞きしましたので、投薬治療と生活改善の方針にしましょう。生活改善は、意志力と時間が必要です。大体の方は、意志が続かずに諦めてしまったり、元の生活に戻ったりしてしまうんですね。優志さんは自分の意志で治すことを決意されていて、素晴らしいと思いますよ」
田井中に褒められ、自分の体の治癒力をより信じることができるようになった優志。
この人なら信頼できる——そう思った優志は、以前の担当医の中田から自身の考えを全否定されていたことも、思わず口にした。
優志「前の担当医の方からは、まるで現代医療が全てみたいな言い方をされて、毎回失望してたんです。山のように薬を出されるし、それしか選択肢がないのか、と」
田井中「あはは……中田先生の考えも分かるのですが、少し疑問もあるんです。ただすぐに治ればいいってもんじゃない、長生きできれば良いってもんじゃないという人も居られるでしょう。治らなくても臓器は自然のままにして生きたい、という人も。1人1人に人生観があるように、医療も1人1人に合った多彩なものを選べるような……そんなシステムになって欲しいと私は願っているんです。もちろん、
優志「すごく、共感します……。田井中先生に出会えて、良かったです。難しいですね、正しい医療情報を見つけ出すのは」
田井中「世の中には最もらしいことを言って何も知らず批判ばかりする人、批判ばかりして代替案を言わない人が多いので、気をつけないといけませんね」
気付けば15分も、田井中と談笑していた。早く切り上げなければと思った優志だが、最後に新型ウイルス対策について質問を投げかけた。
優志「ニュースでは、国民みんなワクチンを打つことになりそうですね。打てばウイルスにやられずに済むのでしょうか?」
田井中「ワクチンは重症化予防が目的で、打ったからといって
優志「ありがとうございます……。ワクチンは危険だ、みたいな説は見かけたことがあります」
田井中「ワクチンも薬も、リスクが全く無いかというと、そうではない。しかし、ワクチンや薬を使うことで命の危険や健康を損なうリスクを減らせるメリットが得られるなら、ワクチンや薬を使うべきでしょう。メリットがデメリットを上回ったと判断した場合、私たちはワクチンや薬を使用することになります。もちろん、患者さんの人生観と相談した上で、です……。このことについては、またお話しましょう」
優志「田井中先生、ありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します」
優志は、笑顔で見送る田井中に最後まで丁寧に頭を下げ、診察室を後にした。
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