第27話

      ◆


 アーロンはかすかに、本当に小さくため息を吐いた。

 落胆のようでもあり、叱責のようでもある。

「マナモ、どうして命令を逸脱した。何故、お前は余計なことをした」

 私は答えなかった。説明したところで、私の感じたこと、考えたこと、そして出した結論を、アーロンが正確に理解できるとは思えなかった。

 思い返してみれば、これまでもそうだった。説明はする、報告書は出す、しかしアーロンや、他のものが何もかもを理解できることはいない。同僚にも、上に立つものも、さらに上のものも、一人も理解できない。

 それなのに彼らは経緯を軽視して結果だけを把握し、彼らの理屈で全部が都合良く再解釈される。

 不満はないつもりだった。でも今、紛れもなく私は憤っており、つまり、不服だった。

「私を恨んでいるか」

 だから、そのアーロンの一言は、私には意外であり、想定の外にあった。

 まるで、許しを求めるような響きがこもっていたから。

「恨んでいる? 何故ですか」

「お前を都合良く利用した。私はそういう立場のものだ。部下の自由を奪い、権利を奪い、感情を奪い、結果だけを追求する。それが仕事なんだ。我ながら、嫌になることもある」

 私は、と言いかけたけれど、それ以上が私の口からは出ない。

 恨んではいない。憎んでもいない。期待していないところはあるにしても、ドライに、感情を無視してこれまでは仕事をしてきたのだ。どんなに過酷な任務を言い渡されても、それが仕事だったし、どんな汚れ仕事も、やはり仕事だった。

 仕事は誇りだった。

 それ以外に、誇りとして胸の中に置いておくものが、私にはなかった。

 アーロンは淡々と話していく。それが彼の仕事なのだ。感情などなく、干渉もなく、システマチックに対応する。先ほどの口調だけが、そのシステムを逸脱していた。

「本来なら、お前は罰を与えられる。それが非公式の任務についている工作員とはいえ、当然の対応だ。しかし罰を受けるつもりがあって、ここに来たわけではないのだろう?」

 お見通し、ということらしい。

 しかしアーロンは、本来なら、と口にした。それはつまり、私を逃すということか?

 彼にどんな利益がある? 彼ではなく、星系防衛軍にとって、何か利益があるとも思えない。

 これを見ろ、とアーロンが着ている背広のポケットから二つのアンプルを取り出した。片方には赤い液体、片方には青い液体が入っている。

「片方はお前に投与された退行薬の逆の作用、つまりお前を本来の肉体に戻す作用がある。もう一方は、今のお前の体に作用している退行薬を解毒する作用がある。体は今のままで、おそらく外見的には歳をとらなくなる。お前はどちらかを選べる。元の姿に戻るか、今の姿のまま生きるか」

 テーブルにそっとアンプルが置かれた。

 私は二つの薬品を前に、一度、アーロンの顔を注視した。私の未来を提示している相手がどんな人物か、知りたかった。

 私の視線を受ける彼は、どこか穏やかに、しかし悲壮な後悔の漂う顔つきで、すぐそこにいる。視線を外すこともなく、堂々としている。

 今の彼の顔つきは、見たことのない表情のようにも見えたし、見慣れた顔にも見えた。

「私は」

 言葉がうまく出ないのは何故なのか。圧倒されているのか。こんな静かな男を相手に。

「組織には不用になったということですね」

「そういうことだ」

 存在を否定しているアーロンは、やはり私をまっすぐに見ていた。

 彼には逃げることも、隠れることも許されないのだと、わかってきた。それは彼にとって敗北であり、彼は死ぬとき、倒れるときまで、前を見ることしか許されないのだ。

「お前を訓練し、任務で使った。今回も、お前ならうまくやるだろうと想像した。しかしお前は結局、人間だったな」

 人間、だった。

「退行薬を飲んで体を作り替え、思考補完型人工知能と深部まで融合しても、お前は人間の心を忘れなかった。私は目が覚めた思いがしたよ。自分の部下のことを私は道具だと思おうとしたが、おそらくそれは間違いだった」

 すっと二つのアンプルが押し出される。

 早く選べというように。

 自分はもう選んだぞ、というように。

「次からもう少し、うまくやることにしよう。マナモ、行くなら今、決めなさい。そろそろこの部屋の記録がされていないことに、他のものが気づく」

 私は言葉もなく、ただ頷き、テーブルの上に手を伸ばした。

 アンプルを掴み。

 ポケットに突っ込み。

 思考補完型人工知能をフルパワーで起動する。

 一瞬だけの最大出力。

 脳裏でエラーが起こり、警告信号が駆け巡った次には、首にはめられた器具が小さく爆ぜ、焦げ臭い匂いを漂わせた。ロックが解除されたそれを振りほどいて床に捨てた。

 本来はこんなことはできない。

 やはり、アーロンは私を解放しようとしている。

 計算があるかもしれない。打算があるかもしれない。

 選べる道は私には一つしかない。

 前へ。

 先へ。

「アーキ!」

 私の名状できない、助けを求める声に返事はない。

 しかし、変化はあった。

 自分の身体が波打つように歪み、思い切り捻られ、押し潰される錯覚。

 不意にそれが消えたときには、周囲の景色は一変していた。

 発令所。その艦長席。

 ここは、フォートラン級だ。

 アーキが虚航回路を起動させ、私という個人を、極端にピンポイントで情報化し、フォートラン級の発令所で再物質化したのだった。

 どうにも気分が悪いが、仕方がない。これ以外に方法はなかった。

 発令所には騒々しいほどの警告が鳴り響いていた。軍港の側から、核融合機関を停止せよ、という指示もあるし、その他もろもろの、要は、おとなしくしろ、という警告だった。

 アーキだけが平然としている。

『軌道基地を脱出します。よろしいですね』

 私の不調などどこ吹く風、何もなかったかのようなアーキのいつも通りの声。私はといえば、引きつった声で応えるしかない。

「急いで。中に誰も入っていないわね?」

『諜報局第三室長の指示で、内部の詳細な調査は先送りにされています、今はこの艦にはあなたしかいません』

「上出来ね。脱出しなさい」

『ポートの拘束具を破壊する必要がありますが、構いませんか』

「構わないから急いでってば!」

 了解、という短い返事の後、艦が揺れ始める。振動と同時に音も伝わってくる。何かが激しく軋み、悲鳴のような音を立てている。

 そういえば核融合機関はいつ起動したのだろう。手順を省いていきなり必要な出力を発揮する設計ではないはず。メインスクリーンをチェックすると、すでに最大出力を発揮していて、エネルギーが艦に行き渡っている。

 軌道基地の管制官が何か怒鳴っている。人工知能の音声も錯綜していた。

 しかしアーキは気にしていないようだ。

「いつの間に機関始動したわけ?」

『あなたとアーロン室長の話し合いで、脱出する、ということだろうと判断したので、独断で始動しました。そうしなければ艦を動かせませんし、脱出は不可能です』

 どこまでも覗き見にが好きな知性体だ。

 いや、アーロンはアーキに覗かれることを前提としたのかもしれない。でなければ、私を逃すのに手間がかかりすぎる。

「星系防衛軍は核融合機関に物理的な停止キーを差し込まなかった?」

『それも諜報局の計らいでしょう。今、拘束具を破壊しました。軌道基地から離れます。すでに艦隊の一部がこちらを狙っていますが、超時空跳躍航行を起動して構いませんね?』

 まったく、慌ただしい。

「再物質化する座標を知っている口ぶりだけど、知っているのね?」

『トキマチからいくつか、安全な座標を教えられています。これは私を調べたニウロタット星系防衛軍にも知られていない情報です。偽装し、細部に隠しておきました』

 まるで小動物が木の実を隠すような口ぶりだった。案外、近い感覚なのかもしれない。備えあれば憂いなし、という大昔の格言もある。

「じゃあ、行き先はあなたに任せます。素早くやって。戦闘は避けたい」

『すでにロックされています。高速ミサイル、六発が接近中。正面からは迎撃艦隊の戦闘機が二十機、向かってきます』

「虚航回路を起動しなさい。すぐに」

 それが、とアーキが抑揚のない声で言う。

『あなたに対して虚航回路を使ったために、エネルギーの充填にもうしばらくかかります。あと五秒です。ミサイルの着弾予定は、八秒後。いえ、七秒後』

 何を言い出すのかと思ったが、私は艦長席のベルトを素早く締めた。片手しか使えないので、さすがに焦った。

『ミサイル着弾まで二秒。エネルギー充填完了。虚航回路、起動』

 私は思わず目を閉じた。

 ぐにゃりと世界が曲がったような気がして、次には完全な静寂がやってきた。

 死んだか、と思ったが、死んでない。

 瞼を上げると、そこには何の変化もないフォートラン級の発令所だった。

 助かったらしい。

 肩から力を抜いて、ずるりとシートから滑り落ちる私だった。

『安全な座標への跳躍を確認。付近に感はありません』

 お疲れ様、と思わず声をかけてから、私は椅子に座り直した。

 これで何もかもが終わった、ということらしかった。

 私は何の後ろ盾もない、何者でもない一人の人間になったのだった。



(続く)

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