多少の変化はあるけれどもが…
鈴ノ木 鈴ノ子
たしょうのへんかはあるけれどもが…
橘陽一にとって青天の霹靂だった。
早朝、少しだけ出ていると本人は思っているお腹を右手でかきながら自宅の階段を降りダイニングの出入り口に吊るされた暖簾を潜り抜けた途端、目の前に違和感の塊がいた。
「おはよう、あなた」
ショートカットの髪にくりっと可愛らしい目をした女の子が、食卓の椅子に腰掛けてマグカップでコーヒーを飲んでいた。
着ているワンピースには「たちばな まい」とある。結婚して連れ去られてしまった愛娘の、幼く目に入れても痛くなかった頃くらいに着ていたお気に入りのワンピースだったを覚えているが、それを着て座っている女の子が誰なのか皆目見当がつかない。
「私ですよ…あ、ダメね、その顔は分かってないわ…。そうねぇ、ようくん、アッコだよ」
何かあきらめ顔をして苦笑した女の子は、幼馴染の長い付き合いを経て結婚し愛しい妻となった敦子が、私を呼ぶ時に使っていたあだ名を口にした。
ああ、確かに敦子の幼い頃に瓜二つの顔立ちであるなぁと何処かしら落ち着いた思考したのちに、その思考は常識の壁に激突して砕けた。
「えぇ…」
人間、本当に驚愕すると言葉が出なかったり、馬鹿になったりなることがあるが、私も総じて同じであった。
瞬きを数回して頬をしっかり叩く、痛みを感じて顔を顰めると、回れ右をし廊下を洗面所へと久しぶりに全力で走り、鏡を見て53歳の顔を確認した。平凡な中年顔がそこにあった。だが、そのだらし無い顔にもさらに驚いてしまう。
氏名、年齢、性別、住所、今日が何月何日かを自問自答し、認知機能を自己採点などという無駄な作業をして確かめる。蛇口を捻り冷たい水で洗面を済ませて意識をはっきりとさせてから、髪をすくなどの身なりを一通り整え終えると再びダイニングに戻った。
女の子は椅子に座ったまま、不機嫌そうな顔でこちらをちらりと一瞥してからこう言った。
「座りなさいよ」
低い唸り声のような口調、そして聞き慣れた不機嫌な時の妻の口癖だった。
「はい」
10歳にも見たいないであろう女の子の前で、しゅんと項垂れた53歳の中年男が椅子を引いて席に座る。丁寧にそして情けなく小声で「はい」とまで言ってである。実にシュールな光景であることは間違いない。
「朝、起きたらこうなってたのよ」
あっけらかんと妻もどき、いや、妻…妻らしき…妻であろう女の子が言ったが、それを聞いて、はい、そうですか。と納得をする訳にはいかない。人間の肉体が若返ることなど医学的にあっていいはずがない。しかし、いかんせん目の前には幼い頃の記憶に残る妻の面影を宿した女の子が面影ですまされない姿で存在しているのもまた事実であった。
「信じてないでしょ?」
「いや、信じるも信じないも…確かアッコに見えるけど…」
「見えるけど、じゃないのよ、正真正銘のアッコよ」
バンと小さな手が机を叩いたので思わず背筋が伸びた。怒る時の見慣れた仕草であったので、あ、妻だと確信を持つに至る。
「なったものは仕方ないから、やることはやるけど、これじゃ背丈も足らないし力もないの。晩御飯とか2人分帰りに何か買ってきてね。あ、時間大丈夫なの?」
「よくわからんが、わかった、買って帰るよ」
何事にも動じない肝の据わった妻であるので、そう聞いてしまえばこちらとしても言うことはない。仕事もあるので、焦げのある頑張って用意された朝食と珈琲を飲み終えると、いつものように背広に着替えて玄関で靴を履いた。
「はい鞄、行ってらっしゃい」
毎日の見送りを受ける。時代錯誤も甚だしいお見送りで恐縮だが我が家ではこのタイミングでメモ紙が渡される。
「はい、よろしくね」
「わかったよ」
普段なら同じ高さで渡されるメモ紙が背丈が低い為に爪先と手を精一杯に伸ばしてこちらへ差し出される。屈んで受け取り、仕事で子供を相手するように、つい手を伸ばしてアッコの頭を撫でてしまった。結果は小さいながらしっかりと力の入った平手打ちが飛んできたことは言うまでもない。
最初から最後まで目の覚めすぎる朝であった。
私の仕事は医者である。
大きい総合病院の勤務医である。総合診療科医という症状のいまいちはっきりとしない患者さんを診察診断し、治療できるものは治療を、専門医が必要と判断した場合には他科に紹介をして治療をお願いする。患者さんの診察や診断は疲労や苦労も多いけれども、やり甲斐のある仕事だと自負している。
いつもの通り診療時間ギリギリまで診察を続け最後の患者さんを診察室から送り出したところで、ふと何気なしにスマホを開くと娘のまいから大量のRainが届いていることに気がついた。
「お母さんがおかしい」
吹き出しにこう書かれている。率直で素直な文章で素晴らしい。そりゃあ確かにおかしいことだ、なんてったって女の子になってしまったんだから。
「家にjk居たから連れ出してみたんだけど、マジで可愛くない?」
次の吹き出しにそう書かれて、その下に写真が添付されている。見た途端に画面を覆い隠して辺りを見渡した。幸い診察室には誰も残っていなかったので安堵する。壁一枚隔てて隣の診察室でカルテを打ち込んでいる研修医の先生と指導医の先生に診察ベッドで横なっているから何かあれば起こしてくれと伝え、私は目隠しカーテンを引いて診察室のベッドに臥位になると隠れるようにしてスマホの画面を開く。そこには娘が高校生の時に着ていた制服姿の女の子から成長した妻が写っていた。
すらっとして細面の美人、そして胸も割とある。あの当時から男女問わず先輩後輩からも羨望の的だったのだが、なにがよかったのか読書が趣味の根暗な私とは離れることなく一緒に過ごしてくれた。それが今日まで続いているのだが、今見ても可愛らしいし綺麗だと思い、率直な感想をしたためた返事をすると娘から「大丈夫?」と心配をされてしまった。
挙げ句の果てには「誰にも見られてないよね?」と心配される始末である。だがしかし、考えてみれば53歳の男が女子高生の写真を見て頬を緩めて、ないとは思うが鼻の下を伸ばしているのを誰かに見られたら一発通報、女性職員に見られてしまえば、セクハラかなにかで院内の倫理委員会で吊るされてしまうかもしれない。この商売は半数以上が女性相手なのだ、患者さんも、職員も、である。
沢山送りつけられた写真の中には、制服から今時のファッションまで、まるで着せ替え人形のように翻弄された妻が、戸惑ったり、恥ずかしそうに撮影され、やがて娘とツーショットでは屈託のない笑みを浮かべていた。それは見ていて微笑ましく、付き合い始めた当時を思い出して心と体を解す温かい気持ちが体内を駆け巡っていった。
素直に白状するなら男としても妻から元気を頂いた。
1日を終えてスーパーで頼まれた物をメモを見ながら、間違いなくカゴに入れて買い揃え、レシートとメモを3度見返して買い忘れがないかチェックして帰路に着いた。買い忘れは無駄である、すぐに買いに戻らなければならないからだ。
エコバッグを持ちながら歩いていると、子供の頃からよく来ていた洋菓子店の店先に並んでいる色とりどりのマカロンを見つけた。そして高校生2人で初めてのデートをした際に、妻に初めて心を込めてプレゼントしたのを思い出し、吸い込まれるように店内に入ると買い求めた。
意気揚々と自宅の玄関まで辿りつきポケットを弄るが目当ての物がない、次に鞄の中身も探したが見当たらない。
「鍵がない…」
朝、見送りの際に玄関先に置き忘れた気がする。
やはり妻の変貌に動揺激しかったようだ。
仕方なく呼び鈴を何度か鳴らし、携帯もかけてみるが、ドアが開くこともなく電話にも出ない。不安が込み上げてきてドアノブをガチャガチャと回して開かないのに引いたり押したりしてしまう。
妻はあの異常な状態だったのだから、やはり寄り添っているべきであったのでないかと後悔が湧き上がり気持ちが焦る。しばらくそんなことをしていると、ドアが唐突に開いて見慣れたパジャマ姿の妻が姿を現した。
「遅くなってごめんなさい。お風呂に入っていたんです。なにも慌てなくても私は大丈夫ですよ」
不機嫌な顔をした妻はそう言ってから、ドアノブの具合を心配そうに見ている。白い頸にほどよく熱った肌、そしてパジャマの隙間から見え隠れする胸元、なにより顔を上げこちらを見た妻は、人生で4回の最高の笑顔のうちの2番目、結婚式で見せた幸せ溢れる表情のようにも見えたが、どうやら私の幻想であるようだった。
「もう、ドアが壊れたらどうするんですか?」
「すまん…」
怒っているはずなのにその時の仕草はとても綺麗で可愛かった。玄関の上り框に荷物を置いたところで、先を歩いていた妻を後ろからしっかりと抱きしめてしまった。私自身も自身の行動に驚いだが、さらに驚いたのは妻だ立ち止まって硬直している。やがて抱きしめたままで何もしない私に安堵をしたのか、恐る恐る振り返ってきた妻は私の背に手を回して、ありがたいことにしっかりと抱きしめてくれる。
しばらくして互いに手を解き向き合うと、妻は40代ほどになっていた。
この頃の妻には無理をさせてばかりだった。娘は一時不登校になり、彼女の両親が相次いで他界、私の母の介護などネタを上げればキリがない。当の私と言えば書いた論文が評価されてアメリカの大学に客員研究員として招聘されていたために、なにも手伝えなかった。
妻は文句も言わずとまではいかないが、私を責め苛むことなく過ごさせてくれた。そのおかげで研究はかなりの成功を納めたが、妻の持病が悪化したとの知らせに仲間に研究を託して大慌てで帰国した。
「じっと見つめて、なんなの?」
怪訝な顔をした妻がそう攻める。
「いや、何というか…」
頬を掻いて誤魔化す私の顔は熱がこもり真っ赤だった。
「いくじなし」
そう言って妻は上り框に置いたエコバッグを持ち上げてキッチンへと向かおうとして、中に入れてあった洋菓子店の小さな紙袋を見つけた。
「あら、もしかして、マカロン?」
「あ、ああ。通り道だったからね。懐かしくて買ってきたよ」
「ふふ。ありがと」
魅力的な微笑みを浮かべた妻は、エコバッグから紙袋を大切そうに取り出して声を弾ませる。
「あの店のだよ」
妻は可愛らしくゆっくりと頷いた。
「知ってる。よく覚えてたわね。私の誕生日すら忘れていたのに」
「あれは…すまなかった」
2週間前が妻の誕生日だった。
数日前に妻の定期薬を処方しようとして、3ヶ月ほど血液検査をしていないことに気がつきオーダーを入れた。前回までの結果を眺めながら、落ち着いてきた数値に安心して名前の下にある誕生日が見たとたん絶望した。固まったままの私を見てコンビを組んで長い年配の看護師が心配して声をかけてくれたが、事情を話すと「私なら殺しますね」とお言葉を賜った。話した相手が恐妻なのでそうなるのかも知れないが、妻に謝った翌日から3日間ほど昼飯が小遣い購入のコンビニ弁当に変わり、夜はビールの配給が止められたのだった。
夕食を共にして、妻はテレビを見ながら、私は学会誌を読み、アメリカの友人たちとのメールのやりとりを終えた頃には、寝る時間が迫っていた。歯磨きを済ませてベッドに横になると、いつものように妻も隣にくる。その頃にはいつもの妻に戻っていた。
「今日は大変だったわ」
電気を消した暗い室内で妻がそう呟いた。
「確かに不思議な一日だったね」
「そうね、本当に不思議な一日だったわ。でも、発見したこともあるの」
妻に背を向けて横を向いていた私の背中に温かい手の温もりが触れる。
「発見?」
「ええ、私、愛されてるんだなって、どんな姿でも、貴方はいつも通りだし、若返った私を見て率直に書いてくれた、さっき抱きしめられた時は少しは若くなったから、欲望に流されるのかと怖かったのだけど、変わらないあなただった」
「まあ、ねぇ、長い付き合いだからね」
「そうね、何十年だものね、さ、明日もあるのだし、ゆっくり休んでね」
妻が背中に当てた手を撫でるように上下に優しく動かし始める。それをされると私は弱いのだ。あっという間に眠りへと落ちてしまう。
「アッコと一緒にいれることはありがたいことだと思ってるよ」
「ありがと、ようくん」
私は下がってきた瞼を閉じてゆっくりと眠りに落ちていく。隣の温かさがありがたい。
多少の変化はあるけれどもが…。
ずっと大切な女性であることに変わりはないのだから。
多少の変化はあるけれどもが… 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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