猫と私と彼と花火と

Planet_Rana

★猫と私と彼と花火と


「はあ、隣町で花火大会があるって?」


 電話越しに聞こえた溜め息混じりの返答に、私は一人目を閉じる。ああ、どうやらまた駄目らしい。第一声で「駄目そう」だと明らかに分かっているならスマートフォンを手放してしまえばいいのだけど、残念ながらできなかった。膝の上で丸くなった猫が欠伸をする。常に奔放な彼らですらうつらうつらとさせてしまうこの雨は、恐らく今夜中に止まないだろうなと思った。


「なんでまた急に」


 一言二言、小言の応酬をした後に電話越しに彼は言う。急も何も、そろそろ夏祭りの季節じゃないか。じとじとと湿っぽい六月が過ぎてやって来る七月。そして遅れて現れる台風。夏休みが始まれば町行く人は増え、騒々しい毎日がやって来る。子ども心にかえって言うならば、年に一度のパラダイスだ。青春の内にこれを逃すと、かなり後悔するのだと。仲の良い大人たちからは聞いている。


「隣町って言ったって、この雨じゃあやらないだろう」


 その通り。小雨ならともかく土砂降りなのだから、花火大会の開催は絶望的だろう。打ちつける雨がアスファルトの上に小川を作って流れている。人が傘をさして歩く横を、減速無しに水たまりを踏みつけたゴムタイヤが泥水を跳ね上げた。意図しない跳ね水に見舞われたスーツの人は諦めて傘を閉じ、大事そうに荷物を抱え走り去っていった。猫が鳴く。


「何か言った?」


 いいや、何も。握り締めていたスマートフォンにまで音が入ってしまったか。膝の上でごろにゃんと寝返りをうつ天使は、こちらの様子など気にしていない。人間が道行くハトを気にかけないのと同じく、猫という上位生物にとって人の営みは日々を流れゆく景色のような些事なのだろう。どっかんごろごろ、と背後から雷の音がして飛び上がる辺りは、どうやら同じらしいけど。


「なんか、近くに落ちたみたいだな」


 スピーカー越しに相手の耳に轟音が入ってしまったようだ。きっと耳がきーんとしてしまって通話をし続けることすら億劫になっているに違いない。そうやって普段から大きな音と喧噪が嫌いな彼のことだから、きっと祭りへの誘いは断られるだろうと思っていたのだ。特に花火は音が大きい。この間の映画だって断られたのだから、それはそうだ。私は話題を逸らすことにした。


「声がとぎれとぎれで聞こえ辛いんだけど」


 仕方がないだろう、雷は苦手なんだ。猫が鳴く。駄目駄目。雨がまだ止んでいない。腕の中から液体のようにすり抜けた猫を抱え直す為に、一度スマホを置く。スピーカーモードに切り替えた途端、向こう側から分かりやすい悲鳴が上がった。雨音に加えて私の声と砂利を踏む音、時折雷の音が入るのだから、仕方がないのかもしれないが。


「いや、どうしてスピーカーにした?」


 何となくだよ。ほれ、可愛い声だろう。「にゃあ」と鳴く声をマイクに近づけると、向こう側でどんがらがっしゃんとものが倒れる音がした。今のは椅子から転げ落ちたのか、ベッドから落ちたのか、それとも階段か何処かで足を滑らせたのか。幼い頃より猫が苦手な彼のことだから、今の音声はクリティカルヒットしたことだろう。慌てふためき喚き散らし始める様子が目に浮かぶようである。


「……それで。花火大会が何だって……」


 おおう。彼はどうやら記憶を後退させることで意識を保つ選択をしたらしい。あっぱれと言いそうになる口を押さえ、私は深呼吸した。これは流石に猫にも聞かれたくないので、スピーカーモードを解除したスマホを耳に当て、甘酸っぱい青春らしい一頁を刻むべく、口を開く。開くと同時に雷が落ちた。光と音がほぼ同時に降りかかる。思わず猫と手を繋いだせいで、スマホが砂利混じりのセメントに落っこちた。角から着地したので派手に割れた。


「なんだ今の音、窓でも割れたのか!?」


 ま。まさかぁ。窓が割れてたりなんかしたらもっと大騒ぎするに決まってるだろう。スマホの画面だよ、画面。本当に済まないね? と。自分でも何を言っているか分からない口調でまくしたてて、何一つ話を進めないまま「じゃあね」と言って通話を切った。唖然と引き留める声すら聞こえなかった。膝の上で、撫でろと催促する猫が額を手にこすりつける。


 そもそも電話をかける予定など無かったのだ。物心ついた頃から一緒にいて、久々に遊びたいと思ったから連絡を取った。まあ思い返せば彼と私の関係は友達と言うには仲が良くないし、事実付きまとっていたのは私の方だったのかもしれないが。人が青春と呼ぶ期間をあと半年残したところで、就職が決まった。


 大学にはとても行けない。それでも私は恵まれた方で、最終学歴は高卒になる予定だ。勉強は人よりできたし、人に好かれる顔をするのも上手かった。それでいて素の私を知ってくれているのは後にも先にも彼一人である。私はこれから先、「私」を踏みつけて生きていく。社会に適応するために編み上げた新しい私を肯定する為に、今の私を捨てるのだ。


 膝の上で猫が鳴く。最後に子どもらしく、夜更かしして、深夜テンションで公園に遊びに来て、誰もいない砂場で棒倒しをして、ブランコを揺らし、ジャングルジムをよじ登り、謎のドームをねぐらにしている野良猫をさわって終わりにしようと思っていたのに。どうして雨が降るのだろう。しかもこんなに土砂降りでは帰るに帰れないではないか。おまけに雷雨と来た。この世界は私を大層嫌っているらしい。


 隣町の花火大会は今日が開催日で、青少年条例に考慮して夕方の五時までしかやっていなかった。日が落ちて後に誘える祭りでは無かったのだ。しかしそれにしても、花火大会って明るい時間にやるものだっただろうか。昔、夏の蒸し暑さに汗を流しながら夜中に火をつけた手持ち花火は、もっとこう、キラキラとしていたというのに。


 ざり。と、足音がした。犬か猫か、それとも居場所を探す人間か。ぴかりと照らされた遊具内でまぶしさに目を細めた私は、猫を膝から下ろして鞄を拾う。寝起きのシャツにジャージというだらしない服装。猫の毛並みすら見て取れない薄暗さを照らしたのがスマホのライトだと気づくのに数秒。相手が合羽を被った幼なじみだと理解するのに数秒。かかった。


「ここに居たのか」


 彼はそういうと、私の横にいる猫を一瞥して嘆息する。猫は尻尾と後ろ足に怪我をしていた。雨は強くなるばかりだが、幸運なことに風はそこまで酷くない。彼は濡れた合羽をそのままに遊具内へ乗り込むと背負っていた鞄を下ろし、中からバスタオルを取り出して私に投げた。頭の天辺から靴の中までびしょぬれだということが何故ばれたのか、不思議だった。


「あんたの家、猫は飼ってなかったろ」


 どうして場所が分かったのかと問えば、そんな風にぶっきらぼうな返答が飛んできた。割れる窓がないことも、落とした携帯が割れるような場所に居るということも、雷や雨の音が近いことも。何もかもがお見通しだったらしい。なんだ、隠す以前にばれていたのかと、身体の水分を拭き取ったタオルで猫を包んだ私は息を零した。


「おじさんたち、心配してたぞ」


 その言葉に、久々になる相槌はぎこちなくなってしまった。もうすぐ成年と呼ばれる年齢だというのに、社会へ出る直前になって駄々をこねる馬鹿な娘だと思っていることだろう。怪我をした猫に気を取られて天気の変化にも気が付かず、右往左往とおろおろしている内にこうなのだから。全く、踏んだり蹴ったりもいいところである。


「猫、好きなのか?」


 少しの沈黙の後、彼は言った。猫が寝息を立て始めたからかもしれない。大きな音が嫌いなところも、雨が嫌いなところも。黄色い合羽に身を包んでスマホを弄る彼に、どことなく似ていると思った。大方あちらも同じ考えで、自由奔放で人の気持ちを考えないところが私と猫の共通点だとか、まくしたてるように言われるだろうと予想して肯定の意を示す。猫が嫌いだと明言している彼に、猫が好きだと本音を零す。


「……そう」


 目を瞬かせた。案外あっさりした反応である。彼はスマホの画面を弄り終えて、液晶を消した。明るかった遊具内に闇が訪れる。暗順応に耐えられない私の瞳孔が開く前に彼は一言呟いた。「僕も」と。それは初耳だった。何かの隠喩なのか比喩なのか、それとも本心から猫が好きだといっているのかは分からなかったが、口にした。


 いかに私が彼と会話をしてこなかったのか。それがよく分かるやり取りだった。公園の方へ車のヘッドライトらしきものが差し込むのが見えた。彼は私に畳まれた合羽を手渡して、代わりに猫を腕に抱える。どうやらこのまま動物病院に連れて行こうとしているらしい。だがそれは、その猫を永らえさせるということがどういうことなのか。真面目で敏い彼なら分かっている筈のことだった。


「後先考えず衝動的に行動する方法は、ずっと昔から教わってる。全部終わった後でゆっくり考えればいい。そうだろ」


 彼は猫を抱えて、合羽を被った私の腕をとる。恐る恐る猫の毛並みを撫でて、ふと目元を緩ませた。雨の音は酷いし時折煌めく稲妻に肩をすくめ、そんな私をあきれ顔で引っ張る。


 そうだ。人混みは嫌だから祭りには行かないけど、手持ち花火なら付き合ってやる。


 彼はそう言って、後部座席の扉を閉めた。


 ああそうか。私にとっての青春は、空を見上げるような前向きなものじゃなくても良かったのだ。線香花火がチリチリと短い命を燃やし、砂の地面に落ちた。水を張ったバケツに燃えカスを沈めて、彼が手渡してくれた新しい花火に火を灯す。


 庭が見える場所に寝転がっていた猫が、首に鈴をつけて「にゃぁ」と鳴いた。




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