Ⅸ
そして、大学生最後の年。比較的早く内定が出た僕は、付き合って一年ほどの彼女とカラオケを訪れていた。僕の方は歌があまり得意ではなかったが、歌唱力の高い彼女から言わせれば、味がある、などというごまかしが多そうな言でゴリ押しされて連れて行かれることが多かった。それはこの日も例外ではなく、彼女の方の内定が決まった祝いという名目で連れてこられたのだった。
「今日も一発、ぶちかましてよ!」
備えつけのマラカスをシャカシャカ振り回しながら煽ってくる彼女の声に、いつもながら、なぜ、こんなに期待されているんだろう、と戸惑いつつも、いっちょやったるか、と覚悟を決めて叫び狂いはじめた。
最初こそ、一曲ずつ交代していたが、次第にデュエットが多くなり、段々と曲と曲の間に休みを挟む時間が多くなった。付き合いはじめてから数ヶ月ほどの時から、せかせかと曲を入れなくなったのは、時間換算対費用という点で考えればもったいない、と言わざるをえなかったが、このゆったりとした贅沢な空間が僕は嫌いではなかった。
とはいえ、それなりの回数歌ったあとに、のんびりとはいえ喋っていれば、必然的に喉が渇くというものだ。最初の方は、マイクを握っていない方が取りにいっていたが、今度は離れている時間がもったいなく感じられて、二人で連れだって、ドリンクバーに足を運ぶようになっていた。
そして、僕は目の前に黒いスーツを着たサラリーマンがいるのを見て足を止めた。どうやら、メロンソーダを入れているらしい。シュワシュワとした音が耳に心地良かった。
「ねぇ」
不意に怪訝そうに尋ねかけてくる彼女の声に、なに、と聞き返す。
「なんで、前に行かないの」
「なんでって、人いるじゃん」
僕の答えに、彼女が眉を顰めた。
「なに言ってんの? 空いてるよ」
疲れてんじゃないの。心配そうに付け加えた彼女の声音に一瞬状況が飲み込めなかった。そして、男がドリンクサーバーの前から離れて歩き出したところで、ようやく自体を飲みこむ。
まさか。まさか、そうなのか。
数年越しに訪れた機会に、僕は気持ちが高校の頃に戻っていくのを感じた。
「ごめん、用事を思い出した」
「はぁ。なにそれ? 今日空いてるって」
わけがわからない、という風に目を剥く彼女に、手を合わせて頭を下げたあと、この埋め合わせは今度するから、とポケットに入れていた今日の分の代金を渡す。そして、答えを聞かないうちに、走り出す。
後ろから罵声が響き渡るのを耳にして、悪いことをした、だとか、仲直りできるだろうか、という不安が頭の中に欠片ほどチラついたが、一階まで下りたところで、店の外に出て行く男を見て、自らの決断は正しかったのだ、と確信するにいたった。
すぐさま僕はカウンターに居座る若い男性店員に、支払いは、部屋番号と、支払いはパートナーがしてくれる、という旨を伝えたあと、扉の外に出た。すぐ傍には、メロンソーダのコップを手にして歩く男がいた。ついにここまで来た、と僕は男の背を追いかけはじめる。もう、ゴールは目前だった。
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