Ⅱ
冴えないサラリーマンの男。それが僕の怪人に対する第一印象だった。彼はドリンクサーバーのボタンに人差し指をかけ、飲み物を注いでいた。たぶん、色的にコーラかアイスコーヒーだったんじゃないだろうか。とは言っても、この時点での男は、よくいるスーツを着た中肉中背のサラリーマン以外の何者でもなかったからよく覚えていない。僕自身の感心もドリンクサーバーとそこから出てくるジュースにしか向けられていなくてさっさとどいてくれないかなという気持ちばかりが先立っていたと思う。
程なくして男はジュースを注ぎ終えると、店の中で置いてあった黄色いトレイの上にコップを乗せてから僕に場所を譲った。ようやくかと思って、足早にコップをジュースの出てくる口の下に置いてから、ボタンを押した。たしかメロンソーダだった。さほど時間をかけずに、緑色の液体を容器の八割くらいまで注いでから、ふと後ろを振り返った。普段であれば、炭酸の泡が弾けて減っていくさまを観察していたはずだから、まさに気まぐれとしか言いようがない。そこで信じられないものを目撃することとなった。先程の男が黄色いトレイにジュースを乗せたまま店を出ていこうとしているのを。
最初は何が起こっているのかよくわからなかった。やっと頭が動いた時には、食い逃げを疑った。というのも、このファミレスは後払い制だったし、男はレジの横を何も言わずにちょうど通り過ぎている最中だったから。もう少し落ち着きがあれば、彼だけが先払いをさせてもらったかもしれないくらいの想像をしたかもしれないが、当時の僕の頭は食い逃げという言葉で一杯になってしまっていた。
とっさに駆け出した。食い逃げはダメでしょ。そんな思いからだろうが、とにもかくにも先んじて店を出てしまった男に追いつこうと、自動扉を潜り抜けようとした……ところで若い女の店員さんに取り押さえられた。
お客様、困ります。あの時の優しく諭すような声は、今でも生々しく耳の奥に残っている。
ちゃんとお金は払ってもらわないと。概ねそんなようなことを言われた。つまるところ、僕が男を追いかけたのと、ほぼほぼ同じ動機だった。
あの人はいいんですか、あの人もお金払ってないですよね。店外に出たばかりの男の背中を指差して訴えた。僕をすぐさま取り押さえたこの人だったら、真の食い逃げ犯を許すはずがないと。
しかし、予想に反して女性の顔に浮かんだのは困惑だった。
あの人って誰ですか。自分が捕まりたくないからって、噓はダメですよ。
店員の言葉に耳を疑った。なにせ、男の背中はまだまだ見えるところにある。
あの人ですよ、あの人。
だから、見えていないんだと思って指差してみた。だが、店員さんは眉間に皺を寄せて胡乱げな顔をするばかりだった。
誰もいないじゃないですか。ごまかすのもいい加減にしてください。
あの人ですよあの人。黒いスーツを着た男の人がいるでしょ。ほら、あそこですあそこ。
ますます、事態がわからず、遠くなる男性の背中を指差してみせるが、女の店員さんは不快げに溜め息を吐いてみせるばかりだった。
噓吐きは泥棒のはじまりって言いますけど、まさにその通りなんですね。君は泥棒そのものなんだね。
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