第7話 忘却とは忘れ去ることであるなり 「恋と健忘症」
「あれ?」
デートのためにアパートを出た俺だが、何か忘れた気がする。そうだ、スマホを置いてきてしまった。家を出るとき、下駄箱の上にいったん置いたのだ。 交差点の信号待ちでスマホを見ようとして気がついた。
「まあ、いい。待ち合わせに遅れないのならばスマホは要らないだろう」
俺はそんなものの依存症ではないのだ。スマホがないため、腕時計で時間の確認をしようとした。
「何ということだ。腕時計も忘れた」
…気にしないことにした。何故なら腕時計は付けないときも多い。とにかく待ち合わせ時間に遅れないことが肝心だ。あまりに俺が「忘れた忘れた」と独り言を大声で言うため、街ゆく人々がチラチラと俺を見る。失礼なことに俺を大きく避けて、すれ違うものもいる。
「寒くなってきた」
そのはずだ。ジャケットを羽織ってくるのを忘れた。
「はっ、すると…」
当然だが財布を忘れた。いつもジャケットの内ポケットに財布を入れるのだ。スマホも財布もなければ、電車に乗ることができない。
「仕方ない。いったんアパートに戻ろう」
俺は引き返すことにした。周囲の人々は俺の不審な行動に益々注目しているようだ。基本イケメンな俺は注目を浴びがちだが、ここまでジロジロ見られることは少ない。中にはマジマジと全身を凝視する者までいる。最近は失礼な人が多い。
「何だか足が痛いな…」
足の裏にチクチクと痛みを感じて俺は足下を確認し、驚愕した。
「何ということだ。俺は靴を履くのを忘れてきたのか」
裸足で外出するとはいくら何でも考えにくいが、初デートに舞い上がっていたのだから仕方ない。どうせアパートに戻るのだからよかろう。財布とスマホとジャケットと靴だ。それにしても忘れっぽい。
そうか。裸足だったのか。どうりで周囲の人々が俺をジロジロ見るわけだ。さっきの女子高生など俺を見て『キャッ』とか声を出していたものな。てっきり俺のファンなのかと思ってしまった。よく考えればそんなことがあるわけないが。
さらに俺の頭をある不安が横切る。
「待てよ。ジャケットを忘れてきたということは…アパートに鍵を掛けてくるのも忘れたのだろうか」
鍵もジャケットのポケットに入れることが多い俺は慌ててズボンのポケットに鍵がないか探る。
「あれ?あれれ?ポケットがない」
びっくりだ。ポケットどころか、ズボンがない。シャツも着ていない。げっ、下着さえ着けていない。つまり俺は全裸だ。そりゃ女子高生が悲鳴をあげるわけだわな。よく通報されずここまで来れたものだ。
全速力で走り、ようやくアパート前だ。
「いくら初デートで舞い上がっているとはいえ、これは酷すぎるな。とにかく早く支度をして、彼女に遅れる言い訳をしなければ…」
アパートの階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込む。思った通り下駄箱の上にスマホがあった。それを全裸のまま持って、考え込む。
「さて、彼女にはどんな言い訳をしたらいいか。まさかすべて忘れて全裸でデートに出かけたとは言えない。えーと…」
それから俺は思い出した。
昨夜は明日デートだったらいいなあ、モテたいなあと思って全裸でベッドに入ったのだった。俺には彼女などいなかった。忘れてた。
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