10.イージス帝国の国王

 翌日は快晴だった。

 一睡もできないまま朝を迎えたぼくは、顔を洗おうとして頭から川に突っ込んでいきそうになった。止めてくれたのはミストだった。


 寝不足で頭がよく働かないせいか、朝の受難はこれだけではなかった。

 濡れた髪や顔をタオルで拭いていたら、通りがかりのシルフに笑われた。それは、まあいいんだけど。

 シルフが無邪気に笑いながら、続けざまに勢いのある風を起こされて、タオルが遥か彼方へと飛ばされてしまった。

 昨日のレジャーシートといい、人のものを風でさらっていくのは勘弁してよ。ほんとに。


「ふふっ、それは大変だったね。でもそれは、精霊達がユークを愛している証拠だよ」


 今朝の一連の出来事を話すと、シルには笑われた。けど、そんなシルの周りにもシルフ達は集まってくる。


「そうですか? 精霊に深く愛される魂を持ったひとは詠唱なしで魔法が使えたりしますけど、ぼくはそういうタイプじゃないですし」

「でもユークは精霊と相性いいと思うよ。魔法の発動を失敗した経験って、あまりないんじゃないかな」

「それは、まあ……そうですけど」


 知識として精霊の本質については知っている。彼らが基本的に人を愛する性質を持っていて、純粋な強い願いに反応することも。


 でもぼくは、信じていなかった。だから、嫌われても仕方ないって思ってた。

 精霊だけじゃない。人のことさえも、ぼくは信じて頼ろうともしなかった。

 ヴェルクも、ミストも、レイシェルも。そして、出会ったばかりのシルもぼくに寄り添ってくれたから、手をつかむことができたんだ。

 なのに、どうしてぼくはシェダルが近づいてきた時に、背を向けてしまったのだろう。


 ……たぶん。

 最初から決めつけていたんだ。ぼくを助けてくれる人なんて、どこにもいないって。

 一緒に来れるわけがない。ひとりで行く、ってぼくが国を出て行ったあの夜。置いていかれたシェダルは、どんな気持ちだったのかな。


「ユーク」


 シェダルの呼ぶ声がした。

 ……もうちょっと、思考の海に沈んでいたかったんだけどな。


「みんなで打ち合わせをするぞ。心配するな、今日中に水竜の洞窟へ着けるさ」


 寝不足だし、考え事をしていたせいか変に気を使われてしまったみたい。

 違うんだってば。キミのこと考えていたんですよ、ぼくは。


 ――なんて、今のぼくがそんなことを言う資格さえないのかもしれない。




 ☆ ★ ☆ ★ ☆




 一夜を過ごした洞窟から水竜の洞窟へはそう遠くはなかった。

 竜の巣穴の入り口は基本的にひとつだ。複数の抜け道を作る竜もいるみたいだけど、水竜はそんなタイプではないとシルが教えてくれた。

 水竜の洞窟にぼくたちがたどり着いたのは、太陽が真上に昇った頃だった。

 シェダルが持ってきた情報通り、入り口には帝国の国王シャウラ様が立っていた。


「待ちくたびれたぞ」


 絹のシャツと黒のベスト、スラックスという比較的軽装に近い出で立ちで、鎧やマントは身につけていないようだった。

 いつも肩に流している長い薄青の髪をひとつに結んでいて、しっかりと帯剣している。陛下は普段からしっかりと鍛えているから程よく筋肉もついているし、背も高くて体格がいい。

 ぼくたちを見ると組んでいた腕を解いて、陛下は酷薄な笑みを浮かべた。


「シェダルはそちら側についたか。まあよい。まとめて相手をしてやろうではないか」


 厳かに告げ、陛下は剣を抜いた。刀身が太陽の光を弾いて、鈍く光る。

 瑠璃色の目をすがめて、陛下はぼくたちを見据えた。魔力の込めたその目を向けられるだけで、ぼくは背筋が凍った。

 その時。


「今そういうのいいですから、陛下」


 背後から現れた誰かが、獣の尻尾みたいな薄青の髪をぐいっと遠慮なく引っ張る。勢いよく、陛下は見事に後ろへのけぞった。


「何をする、ロー!」

「それはこちらの台詞ですよ。半泣き顔の伝令役が城に駆け込んで来て、何事かと思って参上してみれば。宮廷魔術師長の代理と騎士団長と近衛隊長すべてを敵方へ投入する、という鹿作戦を取られているとは」


 現れたのは、僕にとってよく知っている男性だった。

 ため息をつき、わざとらしく肩を落として頭を左右に振る彼は、陛下の隣に立つ。

 肩まで伸ばした青い髪。陛下より頭ひとつ分くらい低い身長の魔族ジェマ。宮廷魔術師の証とされる白地に紺色のラインが入ったローブを着ている。

 その彼の名を、ぼくは思わず口にする。


「ローウェル……?」

「ユーク殿、お久しぶりです。私としても貴女あなたに言いたいことは色々ありますが、今は陛下をお諌めしなければなりませんので」


 五年ぶりに会ったかつての部下は、ダイアナとは違い、ちらりとぼくを一瞥しただけというあっさりとした態度だった。すぐに陛下に向き直り、切れ長の群青色の目を和ませる。

 対する陛下は、抜き身の剣を手にしたまま怒り心頭といった様子だ。


「馬鹿な作戦とは随分な物言いだな、ロー。戦力を鑑みれば、こやつらの相手など私一人で十分であろう。何が不満なのだ、お前は」

「不満に決まっているでしょう。陛下、あなたは誰ですか?」


 尋ねられて、陛下は誇らしげに胸をそらした。その手にはいまだに抜き身の剣が握られている。なんか危ない。


「何を言い出すかと思えば。お前は人を喰ってもいないくせに、気でも狂ったのか? シャウラ=ランズベリー=ダリア。世界最大の国土を誇るイージス帝国の、ただ一人の王である」

「はい、よくできました。貴方あなたは我らにとって代わりがいない、ただ一人の大切な国王陛下です。軽率な行動は控えていただきませんと、我々としても命がいくらあっても足りません。私だって仕事を中断して、ここに来たんですよ?」

「今日に限っては、仕事は免除してやると布令を出したであろう!? なぜ仕事などしているのだ。どうせ、またお前の好きな数字で遊んでいたのだろうがッ」

「……何度も言っているから耳タコだと思いますけど、私がやっているのは数字遊びなどではなく商売です。趣味だから仕事じゃありません。だから問題はないですよ」

「問題大アリだ! 何のために仕事を免除にしたと思っている。一日くらい我慢しろ。死にはせん」

「いや、死にますよ。売上的な意味で」


 穏やかに堂々と言い返すローウェルに対して、言い合う陛下は怒った表情をしていた。けれど、いつも感じる心が萎縮してしまうような威圧感がいくらか緩和されているような気がする。


「レイシェル、大丈夫ですか?」


 ふと心配になって、そばにいるレイシェルに声をかける。彼を見ると、顔色はいつもと変わらない。いつの間にかヴェルクが背中に庇っていたみたいだ。


「うん、大丈夫だよ。……思っていたより、帝国の王サマって怖くないね。あの青い髪のヒトが出てきてから雰囲気が柔らかくなったカンジがする」


 そういえば。

 城ではいつも陛下は彼――ローウェルと夜遅くまで話し込んでいたっけ。

 臣下の中でもローウェルは陛下にはっきりと言い返すから、最初の頃はぼくもハラハラしていたものだけど。陛下は無遠慮な言動でローウェルを罰したことは、一度だってない。


「とにかく」


 まるで父親が子どもに言い諭すかのように、ローウェルは腕を組んで陛下に告げた。


「血なまぐさい行為は駄目です。話し合いで解決してください。せっかく水の恵みが戻りつつある国土を、血で汚すこともないでしょう」

「むぅ、お前がそこまで言うのなら仕方あるまい。だが、向こうが話し合いに応じなかった場合はどうする気だ。責任は取れるのであろうな、ロー」

「ええ、もちろんです。話し合いが円滑に進むよう、私も手を貸しましょう」


 ローウェルが木製の杖を取り上げて微笑むと、周りのシルフ達が一斉に騒ぎ立ち始めた。


 ――まずい、かも。


 ミストやヴェルクやシェダルはともかく、精霊を見ることのできるレイシェルやシルは気付いたみたい。目を丸くして、ぼくの顔を見る。


「ユーク、彼はもしかして」


 うん。分かってる、シル。キミの言いたいことは。

 頷いて、ぼくはローウェルを見つめる。


「はい。ローウェルは精霊に深く愛される魂を持った、天才型の精霊使いエレメンタルマスターなんです」


 ただそこにいるだけで、ローウェルの周りにはどんどんシルフ達が集まってくる。それこそ、魔術師や精霊使いでなくても見えるくらいに、濃く。


「はは……っ。さすがにこれは、想定外だ」


 隣でシェダル乾いた笑いが聞こえた。見ると、顔を引きつらせて陛下とローウェルを見ていた。

 顔色が悪い。

 やっぱり、シェダルにも見えているんだ。ローウェルの周りに集まる、シルフ達が。


「ローは風属性の精霊使いエレメンタルマスターだ。さぞや、風の聖地の精霊と相性がいいだろうよ」


 狼狽していても、ぼくもシェダルもローウェルから視線を外さない。

 ゆったりと歩きながら、ローウェルはそっと陛下の手から剣を取り上げた。


「とりあえず、これは没収です。話し合いには場所が必要です。場所を移しましょう。陛下も異論はありませんね?」


 うかがうように、ローウェルは陛下を見上げた。

 ぼくたちも黙って、陛下の言葉を待つ。

 少しの静寂の後。陛下はローウェルを見下ろして、言った。


「いや、異論ならある」

「……もう、何ですか。面倒くさい」


 あからさまにため息をつくローウェルを目の前にしても、陛下は態度を変えなかった。ニヤリと笑む。あ、これは陛下が良いことを思いついたって時の顔だ。


「シェダルは私と剣を交えたいようだ。だから、一度シェダルとやり合ってから、話し合いの場を設けることにする」

「何を言っているんですか。無意味でしょう、そんなの。それに私は陛下に御身を大事にするよう言ったと思いますが。ちゃんと聞いていました?」

「まあ、そう言うなロー。私とて騎士の端くれ。それに、私とシェダルは一度ケジメをつけておく必要があるのだ。魔法使いであるお前には分からんだろうがな」


 陛下はローウェルに向けて手を差し出した。剣を返せということらしい。

 群青色の目で陛下を軽く睨んでいたローウェルも、すぐに陛下の態度を見て折れたらしい。ため息付きで、剣を返した。


「……そうですね。確かに、シェダルと陛下の間では決着というものをつけなければならないでしょう。そういう点で考えれば、無意味などではありませんでしたね」


 意味深にローウェルは瞑目し、微笑した。そして、すぐ目を開けてぼくを見た。

 え、何。どうしてぼくを見るの、ローウェル!?


「幸い私もいますし、向こうもユーク殿もいらっしゃいますから治癒魔法には事欠きません。ですが、くれぐれも命に関わるような怪我にはご注意ください」

「分かっている。お前は他の者が手出しをしないように見張っていろ」

「お任せください。さすがに私より魔力の高いユーク殿の魔法を封じるのは難しいですが」


 陛下から視線を外したまま、ローウェルはさらに笑みを深めた。その途端に、彼の感情に反応したのかシルフ達がさらに増えて、騒ぎ立つ。


「邪魔ができないようにすることはできます。精霊達は私の味方ですから」

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