「この葉っぱは?」

「食べられます」

「じゃあ、このキノコは?」

「え、と……大丈夫です。乾燥させると、栄養価が高くなって、旨味成分も増すって、本で読んだことがあります」

 ジーナのひとことひとことに、ルテアはいたく感心した。

 テーブルに所狭しと並べられた山菜やキノコ。ルテアみずから山で採取してきたというそれらを、ふたりでてきぱきと選別していく。目的はもちろん食堂ここで使用するため……なのだが、実はここに並べてあるものすべて、ルテアは一度も使用したことがなかった。

 理由は単純で、食べられるか否かの判別ができなかったから。

 山菜やキノコは、一歩間違えば命取りになる。有毒種と無毒種で外見が似通っているものも多数あるため、確実な知識が必要だ。

 その確実な知識を、なんとジーナは持っていた。

「見ただけでわかるなんてすごいじゃないか! 本に書いてあったこと全部覚えてるのかい?」

「い、いえっ、たまたまです……!」

 体の前で、ぶんぶんと大きく両の手を振る。ルテアには「謙遜しないの!」と肩をバシンッと叩かれたが、本当のことなので仕方がない。

 そう。たまたま読んでいただけなのだ。『薬草と毒草の見分け方』を。21回も。

 小説や史書なども興味深く読んではいたものの、図鑑や医学書といった自然科学系の書物がジーナのお気に入りだった。とくに図鑑は、あの細緻で写実的な絵のひとつひとつを何度も何度も見返した。

 世界には、無数の動植物が存在すると知った。いまだ発見されていない種も、無数に存在するらしい。

 塔の外を飛ぶ鳥が、図鑑に載っていた鳥だとわかると、ひとり静かに感動を噛みしめたりもした。

「助かったよ。本当にありがとう」

「いえ。……よかったです。お役に立てて」

「じゃあ、せっかくだからこのキノコ干そうかな。手伝ってくれるかい?」

「もちろんです」

 ルテアの食堂で手伝いを開始してから、およそひと月が経過した。

 何か自分にできることはないかとマリスに相談したところ、彼はすぐさまルテアにかけ合ってくれた。ルテアも、ちょうど人手が欲しかったとのことで、ふたつ返事で承諾してくれた。

 夢にも思わなかった。目的もなく、ただ蓄えただけの知識が、誰かの役に立つなんて。

 自分が、誰かの役に立てるなんて。

「あまり根詰めないようにね。適度に日陰で休むんだよ」

 この日も、外は汗ばむほどの陽気だった。肌を焦がす島の太陽は、今日も容赦ない。

 日光に慣れていないジーナは、長時間浴びつづけると体調を崩してしまうため、外での作業は注意が必要だ。マリスからも、それはそれは強く釘を刺されているので、意識して休息を取りつつ作業に励んだ。

 何も教えてもらっていない。ゆえに、最初はできることが極端に少なかったジーナだが、マリスやルテア、島民たちのおかげで、生活に必要なスキルはひととおり備わった。

 料理や洗濯、手芸に園芸。今では、これらをひとりでこなせるまでに上達した。

「よし、こんなもんかな。香りもいいし、食べられるのが楽しみだね」

「はい」

 作業を終えると、ルテアがフルーツジュースを振る舞ってくれた。濃厚な甘みと爽やかな酸味。常夏のこの島にぴったりのそれは、ジーナの疲労感を一気に回復してくれた。

 ルテアは本当に器用だ。そのうえ手際がいい。

 島の中心的存在として島民からの信頼も厚い彼女だが、最初から恵まれた生活を送っていたというわけではなかった。

 彼女には、かつて奴隷として分配会議にかけられ、当時の島の首長——マリスの父——によってサクラに連れてこられたという過去がある。いったいどんなひどい仕打ちが待っているのか……絶望に打ちひしがれた彼女を待っていたものは、ジーナと同じ〝自由〟だった。

「あー、いい風」

 そよ風の吹く、のどかな昼下がり。

 突き抜けるような蒼天を仰ぎ見れば、真白い雲が太陽を隠して光を遮った。地上から影が消える。またすぐ現れる。

 と、数回くり返したところで、ジーナの足もとに、ぬっとふたつの大きな影が伸びてきた。

「うわっ、すげー! めちゃくちゃうまそう!」

「取るなよ。このままじゃ食べられないぞ」

「取るわけねーだろ! さすがにそれくらい知ってるわ馬鹿!」

 突如始まった青年ふたりの寸劇に、ジーナの赤い目がぱちくりとしばたいた。

 兄のセオと弟のテオ。一卵性双生児のふたりは、あの夜、マリスと一緒にジーナのもとへ押し入った、島の若き戦士だ。

「はい、ルテア。これ、さっき海で捕ってきた魚」

「えっ、こんなにたくさん! もらっていいの?」

「もちろん。食堂で使って」

「デカいヤツはほとんど俺が捕った」

「はいはい。そういうことにしといてやるから」

「なっ……ほんとのことだろっ!」

「ありがとう、ふたりとも。さっそく今夜使わせてもらうわね」

 ふたたび寸劇が始まりそうな雲行きだったが、ルテアの謝意で事なきを得たようだ。

 見れば見るほどそっくりなふたり。あの夜は、アイガードで顔がよくわからなかったが、まさか双子だったとは。

 性格は、兄のセオのほうが、弟のテオよりもおおらかで人当たりもいい。だが、戦士としての気概は、あの夜見たとおりである。

 燦々と降り注ぐ陽光の中。

 せっかくの鮮度を損なわせないようにと、ルテアは三人を残して食堂へと戻っていった。処理を施した後に保冷するのだろう。今夜の食堂には、魚をふんだんに取り入れた献立が並びそうだ。

「……」

 気まずさに、体がすくむ。

 嫌い、というわけではないが、ジーナは双子のことが少々苦手だった。マリスと仲がいいことは承知している。だからこそ、自分のことをよく思っていないのではないかと、穿った見方をしてしまう。

 沈黙が垂れこめる。

 これを先に打ち破ったのは、兄のセオだった。

「島の暮らしには、もう慣れた?」

「……え? あっ、はい。少しずつ、ですけど。みなさんがいろいろ教えてくださるおかげで、できることも、増えてきました」

 唐突なセオからの質問に、うろたえながらもジーナは答えた。

 今自分が実際に感じていることを、拙いながらも自分の言葉に変換する。マリスには、島民には、心の底から感謝している。

 それを聞いたセオは、口もとを綻ばせ、よりいっそう柔和な笑みを浮かべた。

「できること、ね。たしかにそうかもしんねーけど、お前、マリスの嫁としてここにいるんだろ? そんななまちろい体で、あいつのこと支えられんのかよ」

 だが、一方のテオは、兄とは正反対の態度でこう言い放った。眉を顰め、訝しげな表情でジーナを見やる。

「おい、テオ」

「い、いえっ、大丈夫です。ご指摘は、ごもっともなので」

 弟を戒める兄の一声。これに対し、ジーナはかぶりを振って弟の苦言を甘受した。

 今の自分に反論なんてできない。できるはずない。

 テオが指摘しているのは、おそらくこの痩せ細った体のことだけではない。お前は心身ともにマリスを支える存在になれるのか——そう、ただしているのだ。

 現状、マリスに甘えてばかりなのは否めない。まだまだできることが少ないのも事実だ。

「……過去は、変えられません。……でも」

 それでも。

「未来は変えられるって、変えたいって、思うから……彼のおかげで、そう、思えるように、なったから」

 彼の優しさに、報いたい。

 はじまりは歪だし、夫婦というものの形はまだ見えないけれど。

「努力します。精いっぱい。……彼のことを、支えられるように」

 マリスへの真っ直ぐな想いを、たどたどしくも懸命に伝える。

 もはや愛情と言っても過言ではないジーナの想い。これに対し、テオは言葉を詰まらせ、俯いた。肩が、手が、全身が、わなわなと震えている。

 そして。

「あーっ、もう!! なんっでそんな性格いいんだよ!! あいつが選んだ時点でなんも言えねーけど、性格さえ悪けりゃワンチャン追い出す口実になるかもって思ったのにっ!!」

 爆発した。

 非難されるのを覚悟で話したゆえ、意想外の反応に、ジーナは瞠目したまま固まってしまった。

 思考と感情が追いつかない。てっきり、自分はマリスには相応しくないと、はっきりそう通告されると思っていたのに。

 無言の苦悶と驚愕が入り混じる。

 この状況を打破したのは、またもやセオだった。軽く咳払いをし、半笑いで口を開く。

「ごめん。こいつ、なんていうか、マリス馬鹿っていうか……。マリスのことが可愛くて、仕方ないんだ」

「うるせー! お前もだろっ!」

 やっぱり始まってしまった寸劇。

 どうやら双子にとってマリスは、幼馴染みであると同時に実の弟のような存在であるらしい。なるほど、だから自分は値踏みされていたのかと、ジーナは納得した。

 戻ってきたルテアに「相変わらず仲良しさんだね!」と丸く収められ、いかにも不本意そうな面持ちの双子。家路を行く背中は、見事にずっと言い合いをしていた。

 帰り際、ふたりは確かにジーナに言った。「マリスをよろしく」と。

 まるで嵐のように濃密なひととき。彼らと過ごすそんな時間が、和やかで、あたたかくて、楽しくて。

 ジーナは、すっかり失念していた。

「今日はありがとう、ジーナ。これ、さっきあの子たちが持ってきてくれた魚。マリスと一緒に食べな」

「そ、そんなっ。いただけません。これは、食堂で……」

「ううん。今日のお礼。はい、持って帰って」

 そう言うと、ルテアはなかば無理やりジーナに押しつけた。立派な海魚を、まるごと一尾。

 申し訳ないと思いつつも、彼女の厚意を無碍にはできなかったジーナは、ありがたく頂戴することに。

 その過程のことだった。

「……っ!」

 ジーナの左中指に走った、細い痛み。思わず右手でぎゅっと握る。

 おそらく、受け取る際に背鰭の棘に引っかけたのだろう。それほど大した痛みではなかったが、心臓は千切れんばかりに早鐘を打っていた。

 全身から血の気が引いていく。荒い呼吸が耳にこだまする。

 恐怖が、押し寄せる。

「大丈夫かい? あっ、もしかしてヒレが刺さった?」

「……あっ、だ、だいじょうぶ、です」

 怖い。

「見せてごらん? 血は出てる?」

 こわい。

「……ジーナ?」

 コワイ——。

「……っ、ごめんなさい……!!」

「えっ、ちょっとジーナ!!」

 ルテアの呼びかけに応じることなく、ジーナはその場から立ち去った。逃げるように走り去った。

 指は押さえたまま。刺さった箇所は、怖くて確認できなかった。

 どうか出血していませんように。

 出血していたらどうしよう。

 出血したら何が起こるのだろう。

 そもそも、あれは〝〟といえるだろうか——。

 走って、走って、海岸を目指した。

 失速し、足がもつれて、砂浜に膝から崩れ落ちた。

「……っ——」

 声にならない声がこぼれる。

 閉じた瞼の裏側。冷たい暗闇に浮かび上がったのは、愛しい彼の姿だった。

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