生まれてはじめて自分の足で踏みしめた大地は、敵国の小さな島だった。


 水平線に、夕陽が沈む。

 夕映えの光が島の椰子林を金色に染め、押し寄せる波頭がまばゆくきらめく。神秘的なまでに美しい海。昼間は深く深い紺碧をたたえているが、時間が変わればこんなにも表情が違う。

 潮風の吹き抜ける砂浜で、ジーナはひとり佇んでいた。

 高くざらつく波の音が、何度も耳に響いてくる。見渡すかぎり広がる大自然に、体ごと吸い込まれてしまいそうだ。

 あれから数週間。しばらく療養に専念していたが、最近では外へ出る機会も増えてきた。といっても、行動範囲はマリスの家の周りだけ。とくに制限されているわけではないが、体力的な問題もあり、今はまだ遠出を控えている。

 体調を崩しているあいだは、そのほとんどをマリスとともに過ごした。意外にも料理上手で甲斐甲斐しい彼は、付ききりで看病をしてくれた。

 もちろん、留守にするときもあるけれど。

「こらこら! そんな薄着じゃ風邪引くよ! これから気温下がるんだから!」

「ルテアさん」

「ほらこれ。さっき畑で採ったアヌム芋。これ持って早く家に帰りな」

「え、こんなにたくさん……」

「いいよ、遠慮しないで。マリスに言って、食べたいものなんでも作ってもらいな。スープにしてもおいしいよ。……あっ、ガレットもいいかも! まだあるから、なくなったらいつでも言って」

 こんなふうに、島民たちが、交代で世話を焼いてくれるのだ。

 中でも、このルテアという中年女性は、島一番の世話焼き。食堂を営んでいるという彼女は、新鮮な青果や魚肉、それから日用品に至るまで、こうしてわざわざ届けてくれる。おかげで、ジーナは歩けるまでに回復した。

 頭を下げて申し訳ない旨を伝えれば、彼女は、「なに言ってるんだい、家族じゃないか」と、豪快に笑った。

 風が冷たい。

 もうすぐ、島に夜が訪れる。

 じゃあね、と手を振り帰路につくルテアに、ジーナも手を振り見送った。島民性なのだろうか。サクラの人々は、とにかく明朗快活だ。そして、距離が近い。

 最初は戸惑ってばかりだったが、できるかぎり彼らと同じように振る舞うことで、なんとかコミュニケーションがとれるようになってきた。笑いかけてくれれば笑い返せばいいし、手を振ってくれれば振り返せばいい。そんな当たり前のことさえも、塔の中では気づけなかったけれど。

 ……ふと思う。今まで自分が置かれていた境遇は、いったいなんだったのだろうかと。

 マリスは言った。ここには〝自由〟があるのだと。ここでは〝自由〟にしていいのだと。

 言われたときは意味がわからなかったが、島での暮らしを経験した今なら、はっきりとわかる。

 血の繋がった父に奪われたもの。

「いつまでそこにいるんだ?」

 敵だと思っていた彼が、与えてくれたもの。

「あ……おかえり、なさい」

 マリスの姿を視認し、はにかみながらジーナが言った。ともに暮らすようになり、何度も口にしてきた言葉なのに、まだまだ慣れない。

 彼がこちらに歩いてくる。彼のほうへと歩いていく。手には、赤いストールが握られていた。

「家にいなかったから探した」

「すみません。今、戻ろうとしていたところです」

 ジーナの小さな肩に、大きなストールが掛けられる。この夕空にも劣らない、鮮やかな真紅。珊瑚で染め上げたというこれも、サクラの伝統工芸らしい。

「その芋……ルテアか」

「はい。さっき、わざわざ届けてくださって」

 ジーナの腕から、芋の入った篭を無言でひょいと取り上げ、マリスはくるりと踵を返した。その後ろを、ジーナがついて歩く。

 波打ち際に伸びる、ふたりの影。

 砂の上に残る、ふたりの足跡。

 態度や物言いにぶっきらぼうなところはあるが、マリスから悪意を感じたことは一度もない。同様に、島民たちからも。

 ずっと悪意にさらされつづけてきたゆえ、ジーナは悪意に対して敏感だった。唯一信頼できたのは、亡き母ひとりだけ。立場上、怪我を負わされるようなことはなかったけれど、恭しく振る舞って見せる臣下たちのその心裡に、幼心に傷ついたりもした。

 存在を隠されていた。意図的に。

 マリスの〝嫁〟宣言があったとはいえ、帝国の皇女である自分など、本来ならば死罪でもおかしくはないはずだ。にもかかわらず、島民たちは、そんな自分の存在を認め、あまつさえ長であるこの人の嫁として迎えてくれた。

 どうして優しくしてくれるのだろう。どうして受けいれてくれたのだろう。どうして——。

「……あ、の」

「ん?」

「どうして、わたしなのですか? 島にとって、連邦にとって、重要な立場にあるあなたが、どうして、わたしのような人間を……?」

 本当に自分でいいのか。そう、ジーナは訊きたかった。

 敵国の人間であることに加えて、まだ17歳。おまけに特異な環境で育ったために、〝嫁〟どころか、結婚のなんたるかさえわかっていない。読み物だけは潤沢に与えられていたので、知識としては備わっているけれど、それだけでは不十分なこともまた知っている。

 ざりっと、少し先を歩いていたマリスが足を止めた。つられて、ジーナも足を止める。

 普段のあどけなさから一転。振り向いたマリスは、雄壮な、されど落ち着いた表情でこう言った。

「オレはただ、自分の気持ちに正直に動いただけだ」

 夕焼けに染まった銀髪が、潮風になびく。

 穏やかな笑みをたたえた両の目には、驚き息を呑むジーナが映っていた。

「オマエのことを嫁にしたいと思った。それ以外に理由はない」

 マリスの言葉が、ジーナの琴線に触れる。飾り気のない、混じり気のない、真っ直ぐな言葉。

 ずっとずっと孤独だった。母が亡くなって以来ずっと。

 それでも、悲しいと思ったことはない。何もかも諦めていたから。

 こんな自分が、居場所を求めてもいいのだろうか。この世界にとって〝災い〟となりうる自分が。

「わたしは、ここにいても、いいのでしょうか。……ここで——」


 生きても、いいのだろうか。


 芽吹いた感情に惑い、口をつぐむ。なんだか怖くて、無性に悲しくて、最後まで言い切ることができなかった。

 そんなジーナのもとに、マリスが近寄る。震える小さな手を取り、ふたたび家路を辿る。

「あのとき、オマエは食べることを選んだ。……それが、オマエが自分で出した答えだろ」

 彼方には、強くまたたく一番星。

 滲んだマリスの背中は、大きくて、しなやかで、とても眩しかった。

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