悔恨②

 七海と一旦分かれて、幸太郎は再び自室に戻った。

 瞑目し、静寂の中で思案した。

 瞼の裏には最後に見た凜の顔が、耳の奥では最後に聞いた彼女の声が蘇った。

 それらは哀しみと後悔に支配されていた。

 自身の過ちを受け止めきれず、押しつぶされてしまいそうな妹の姿に、幸太郎は自身のしたことが正しいのかわからなくなってしまった。

「……っ」

 幸太郎は目の奥に熱いものがこみあげてくるのを感じた。

 しかしそれを溢れさせるわけにはいかなかった。

 誰も助けていない人間に、涙を流す資格なんてない。

 何もできないのなら、せめてそれを堪えなければいけないと思った。

 不意に、部屋の扉を誰かがノックした。

「はい?」

『幸太郎君』

「……どうぞ」

 ドアが開かれると、そこには義之が立っていた。

 幸太郎の姿を見ると同時に、その柔和な面立ちを安堵で歪ませた。

「幸太郎君……良く……無事だったね」

「……いえ、そんな」

 謙遜する幸太郎に構わず、義之部屋に入り幸太郎の目の前まで来た。

 そして、感極まった表情で言った。

「ありがとう、凜ちゃんを救ってくれてありがとう」

 それは心の底からの言葉だった。

 嘘偽りのない感謝の言葉。

 人にとって最も喜びを感じるものの一つのはずだった。

 しかし、それは今の幸太郎にとっては最も辛い言葉だった。

「本当は僕がやるといったはずのことなのに……君に背負わせてしまっていた」

「そんな……」

「僕は君に感謝してもしきれないよ……改めてお礼を言うよ」

 恩師の真摯な瞳に幸太郎は射すくめられた。

 そんな視線に、幸太郎はとうとう堪え切れず、

「義之さん」

「ん?」

「俺……本当にいろんな人に迷惑をかけたんです」

 また目の奥が熱くなってきた。

「色んな人が、俺のせいで辛い思いをしたり、怪我をしたり……死んでしまったり。そこまでしてようやく凜を助けられたと思ったら……あいつは……」

 言葉と共に、その熱が外にはい出そうとしてきたが、幸太郎は必死にこらえた。

「俺は……俺のやってたことって結局……誰一人幸せにするどころか、不幸にしてばっかで……俺は誰も救うことが出来ていないんです……だから、俺は義之さんに感謝されることなんて、ひとつも……」

 幸太郎は言い切ることが出来ずに、遂には言葉が切れてしまった。

 そんな自分が、情けなくて、恥ずかしくて、惨めだった。

 しかし、それでも涙だけは堪えた。

 それだけが救いだった。

 義之がしばらく幸太郎の顔を見つめていたが、やがて義之が思い出したかのように言った。

「そうだ、幸太郎君、君にお客さんだよ」

「……え?」

 思いもよらない展開に、先ほどの感傷も忘れて呆けてしまった幸太郎を他所に、気安い口調で義之がドアのほうへ呼びかけた。

「ほら、入ってきていいよ」

 ドアが開くと、そこから小さな少年が、おずおずと顔を覗かせた。

 その顔について幸太郎は記憶を探ってみるが、出てこなかった。

 まだ小学校に上がっていないくらいのあどけない少年だった。そして、その少年の胸元には、小さな犬が抱きかかえられていた。雪のような白い体毛の美しい子犬で、どこか嬉しそうに鼻を鳴らしながら幸太郎を見つめていた。

「この子は最近ケガレモノに襲われて、その時のショックで失語症を患わってたんだけど、最近になって回復したらしくてね。襲われた時の事を調べて、それでうちの道場を尋ねてきてくれたんだよ」

 義之の説明を聞いて、幸太郎の記憶の中に、ようやく答えを見つけた。

「君……もしかして」

 それは、くれはと初めて会った日、彼女と会う前に偶然助けた少年だった。

 少年はぺこりと礼儀正しく幸太郎に向けてお辞儀をした。

「あの時、助けてくれてありがとうございます……もし、お兄さんが来てくれなかったら、僕もころ丸も今頃は……」

 少年に同意するように、子犬がワンと鳴いた。

「本当に、あの本当に、ありがとうございました」

 目の前の出来事に幸太郎は頭の中がついていかずに、何といえばいいかわからないままだった。

 義之が再び微笑んだ。

 それは包み込むような笑顔で、幸太郎の大好きな笑顔だった。

「幸太郎君は、さっき誰一人救ってないって言ったけど……そんなことはないんだ。誰かの行いは、人知れず誰かを傷つけることがある。それと同時に、必ず誰かを救っているんだ……それは一括りに語ることは出来ないのかもしれないけど」

 真っすぐな瞳と、真っすぐな声音が幸太郎に届いた。

「少なくとも、君はこの少年と、子犬の命を救ったんだ……それは間違いないことなんだよ」

 幸太郎はいつの間にか自分の目から熱いものが流れ落ちていることに気付いた。

 それはいつまでも枯れることなく、幸太郎の頬を濡らし続けていた。

 


 

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