決壊

 泣き疲れて眠ってしまったひなを従者に任せて、幸太郎は七海を連れて外へ出た。

 幸太郎が胸のわだかまりを押し殺しながら歩いていると、不意に七海が立ち止まった。

「七海?」

 幸太郎の呼びかけに、七海は頷きもしない。ただ黙って、何かに耐えるように下を向いていた。

「何やってるんだ七海、行くぞ」

「……こうちゃん」

「……ん?

 訝る幸太郎に七海はようやく顔を上げた。

「もう、村を出よう」

「……は?」

 七海の言ったことが信じられなくて、幸太郎は我ながら間抜けな声を出してしまった。

「お前、何言ってるんだよ、急に」

「急でもなんでもいい……村の人にはごめんなさいすれば大丈夫だよ……それで、私たちの街に帰ろう?」

「ま、待てよ、七海意味わかんないって」

「意味わかんなくても……良いんだよ、ほら、行こ」

 やおら手を取って歩き出そうとする七海から、幸太郎は手を振り払った。

「何言ってんだ七海、お前、ここの人たちに受けた恩忘れたのか?」

「忘れてないよ、皆良い人たちだった」

「そうだ。だから、またここの人たちが困ってるんだったら助けてあげないと」

「そうだけど……でも」

「それに、ひなはどうするんだよ」

 頑なだった七海が、少しだけ揺れるのが分かった。

 そんな七海に対して、幸太郎は丁寧に説明するような口調で、

「剛毅さんは最後に俺に言ったんだ……ひなのことを頼むって……命を懸けて託してくれたその言葉を俺は裏切ることは出来ない」

「そうだけど……でも」

「でもじゃない!そうしなきゃいけないんだ」

「じゃあ」

「じゃあでもない!」

 七海はそれでも、止まらなかった。

「……じゃあ、こうちゃんはどうなるの?」

「え?」

 七海の声は震えていた。

「こうちゃん、すっごく辛そうな顔をしてる……色んな事があって、それでも立ち止まっちゃいけないって、気持ちを押し殺して……今のこうちゃんを見てるとさ……思うんだよ」

 七海は言葉の続きを言うのを躊躇った。まるでその言葉に棘がついていて、口にすると喉に傷がついてしまうのだという様に。そしてそれが相手を傷つけてしまうことも承知しているように。

 それでも七海はその言葉を口にした。

「また……こうちゃん、死んじゃいたそうな顔をしてる」

「……っ」

 その言葉は幸太郎の心に風穴を開けた。

 以前、くれはによって暴かれたその本心。

 この村にきて様々な人たちとの関りによって、克服することが出来た感情。

 それは再び掘り起こされてしまった。息を吹き返したその感情は、まるで別の生き物のように幸太郎の心を食い荒らし、様々な領域を侵食しようとしていた。

 その生き物に突き動かされるように、幸太郎は口を開いた。

「俺は死にたいなんて思ってない……この村の人たちには恩があるから、それを返さないと」

「でもすっごく辛そうだよ……さっきひなちゃんと会ってから、もうやめたいって思ってる」

「そんなことない」

「それに、ひなちゃんが元気になるなんて保証はないよ……ずっと、この村にいるつもりなの?」

「それは……」

「ねえ、こうちゃん」

「……なんだ?」

 七海が徐に幸太郎の左手を取った。

 暖かくて、馴染みある感触だった。

「もう、全部やめちゃおうよ」

「……は?」

「もう、こうちゃんが辛い思いする必要はないんだよ……もう、この村のことも……凜ちゃんのことも、他の誰かにお願いして……こうちゃんは楽になっていいんだよ」

 七海の言葉はただただ優しかった。

「だから……ね?全部忘れて、こうちゃんは好きなようにしようよ……もう、辛い思いをしないように、好きに生きよう?」

 七海が両手で幸太郎の手を握りしめた。左手から、そして感覚のないはずの右手から、七海の思いやりが熱となって直接幸太郎に入り込んでくるようだった。

 しかし。

「ふざけんなよ……」

「え?」

 七海の言葉に、幸太郎の中に生まれていた生物が、獰猛に暴れだした。

「お前……自分が何言ってるのかわかってるのか?」

 幸太郎は自分の体が、その生き物に完全に乗っ取られてしまったような気がした。

 既に幸太郎の心を食い尽くしてたっぷりと力を蓄えて、その邪悪な生命力を以て、幸太郎の体の主導権を握ってしまっていた。

「どの口がいってるんだよ……そうやって俺のことをなんでも分かってるみたいなこと言いやがって」

「……わかるよ、私、こうちゃんの事、わかってるもん」

 七海がなんとか自分を奮い立たせて、幸太郎の言葉を受け止めていた。

 その双眸は今にも溢れそうなくらいの涙が溜められているのが、七海の長い前髪越しにもはっきりと分かった。

 そんな幼馴染の顔を見ても、幸太郎の言葉は止まらなかった。

「なら、聞かせてくれよ……」

「……え?」

 ああ、言うな。

「お前は、どうして」 

 それを言ったらもう、取り返しがつかない。

「どうしてあの時、俺を死なせてくれなかったんだ?」

 口にした瞬間、幸太郎の心は決壊した。

「俺が腕を落とされた時、お前が助けさえしなければ、俺はあのまま死ぬことが出来たんだ」

 頭は真っ白なのに口が勝手に動く。

「俺を楽にしたいとか、辛い思いしなくていいとかいうけどさ、今俺が辛いのは、七海が俺のことを助けたせいだろうが」

 七海は必死に涙をこらえていた。それが、自分にできる唯一のことだという様に。

「いつもいつも蚊帳の外から口出しばっかしやがって。結局お前は高みの見物をしてるだけだろうが、俺のことを心配してるみたいに言ってても、そんなの結局は他人事なんだよ」

「……っ」

「俺の事全部分かってるみたいなこと言ってるけどよ、俺が今苦しいのも、辛いのも、死にたいと思ってるのも、全部お前のせいなんだよ!お前があの時俺を助けたせいなんだよ、お前が俺を死なせてくれなかったせいなんだよ!」

 言い終えて、幸太郎は急激に自分の中の熱が消えていくのが分かった。あれだけ怒り狂っていた自分の中の生き物が、まるで始めからいなかったかようだった。

 全て食い尽くされて、後には何も残らない。

 それは無だ。

 今まで自分のしていたことが全て無に帰した。

 幸太郎はすべて失ったのだ。心と一緒に。死んでしまった剛毅。壊れてしまったひな。行方知れずの凛。

 そして、目の前の少女も。

「……ごめん、なさい」

 風の音にすらかき消されそうな、か細い声で七海はそう口にした。

 幸太郎の口はもう、動かなかった。

 心も動かなかった。

 そして、体も動かなかった。

 だから、顔を覆って走り去る幼馴染の背中を追うことも、出来なかった。 

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