悪夢

 幸太郎は目の前で走る小さな背中を追いかけていた。

「あはは、……ちゃん、捕まえ……です」

 幸太郎はその人物と追いかけっこをしていた。

 その人物ははなかなかすばしっこく、追いすがる幸太郎を躱していく。

「ほ……ほら、こっちですよー」

「く、くっそ」

 煽られながらも、幸太郎は何とか声の主を追いつめた。

 いつの間にか現われた木の影にその人物の背中が見えていて、千載一遇のチャンスに幸太郎は手を伸ばした。

「捕まえた!……て、あれ?」

 そこに人の姿はなく幸太郎の腕が空を切る。

 予想外の展開に幸太郎が辺りを見回していると、背中から暖かい衝撃を感じた。

「お兄ちゃん、隙ありです!」

 頬ずりをされる感触を覚えて、幸太郎は苦笑した。

 それがその人物の昔からの癖だった。

 人懐っこく、周囲の人気者だった。

「鬼なのに捕まえられちゃったんですね」

 幸太郎自身もその人物を心の底から愛していた。

 自分にとって最も大切な家族。

 その最愛の妹の名前を幸太郎は呼びかけた。

「凜には、敵わないな」

 幸太郎の呼びかけに、背中から嬉しそうな声が返ってくる。

「えへへ、お兄ちゃんは楽勝なんです」

「わかったわかった、俺の負けだよ」

「わーい」

 妹が離れるのを感じて、幸太郎がそちらの方を振り向くと――

「……ひっ!」

 そこには変わり果てた妹の姿があった。

 可愛らしかったはずの顔立ちは熱したろうのように爛れ、くぼんだ眼孔の奥から血走った目玉が零れ落ちていた。

 肢体はあらぬ方向に折れ曲がっていて、まるで天井から吊るされた糸に無理やり動かされているような不自然な体制で幸太郎を見上げていた。

 絶句する幸太郎に、凛がまるで黒板を爪で引いたような耳障りな声で言った。

「お兄ちゃん、私を見捨てて、自分だけ逃げちゃうんですか?」

「ち、違う、そんなつもりじゃ……俺は、お前を助けるって決めたんだ」

 愛する肉親に対して向ける声にはふさわしくない酷く上ずった声で、幸太郎は必死に言い訳を並び立てた。

「七海だって協力してくれてるんだ!さっきだってお前を探して……」

「でも見つけてくれなかったですよね」

「そ、そうだけど……でも、俺は諦めるつもりなんてないから」

「……ふーん?」

「だから、待っててくれよ!いつか、必ず俺はお前を」

 不意に、凛が笑った。

 酷く歪な笑顔であったが、それでも幸太郎は最愛の妹が笑った事実が、嬉しくてたまらなかった。

 だから、気づくことが出来なかった。

 それが嘲笑であったということに。

「でも、お兄ちゃん」

「な、なんだ?」

「死にたいって、思ってるんですよね?」

「そんなこと……っ!?」

 不意に、幸太郎は首に冷たい感触を感じた。

 目線でそれを辿ると、いつの間にか刃が突きつけられ、その切っ先が幸太郎の首筋に食い込んでいた。

 目の前にあの時の女剣士がいた。

 全てを見透かした目線を向けながら、淡々とした口調で言った。

「君は死にたいんだろう?」

「……このお姉さんはこう言ってますよ?」

「ち、違うって」

「何を言っている。君は立ち去ろうとする私に縋ったじゃないか」

「そ……それは」

 果たして弱弱しい反論はいとも簡単に論破された。

「あ、あれは、そういう意味じゃないんだ」

「じゃあ、どういう意味ですか?お兄ちゃん」

「ああ、私にも聞かせてくれ」

「う……あ」

 もはや言葉もなくなってしまい狼狽えることしかできなくなった幸太郎に、凜が容赦なくまくしたてた。

「死ねるって思って、救われたって思ったんですよね!」

「ち、違……」

「私を助けることなんて諦めたんでしょ!」

「や、やめて……」

「死んで楽になりたいって思ってるんでしょ!」

「やめてくれええええええ!」

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