聖夜レッドレンズ

Lika

第1話

 西宮にしのみや朝子あさこの癖は眼鏡のレンズを触りながら位置を直す事。眼鏡をしている人間からしてみれば、死ねばいいのに、とも思える愚行だ。しかし彼女にとっては悲しい過去の産物。

 彼女は所謂殺し屋を生業にしていた。と言っても派手に銃でヤクザの事務所にカチコミをかけたり、細い針で首筋の急所を刺して華麗に始末する……なんてことはしない。彼女の殺し方は事故に見せかける事。しかしここでも彼女の拘りがあり、車に轢かせたり駅のホームに突き落としたりはしない。実はアレ、かなりの額の損害賠償が遺族に請求される。それはちょっと……と思った彼女は、自身を餌にして高所から落下させるという、シンプルかつ、ここまで語っておいてそんな手口かと、ガッカリされた方も多いだろう。


 だがその根本は奥深く、彼女の眼鏡のレンズに触れながら位置を直すという癖に深く関わってくる。彼女がその手口を主に使うのは、花の女子高生時代の記憶がきっかけ。




 ※




 現在三十二歳の西宮朝子にも、当然ながら高校生時代はあった。ミッション・スクールと言えば大体の人がカトリック系の学校を思い浮かべるだろう。そう、ミッションとは、ポッシブルなミッションのミッションではない。ミッション、福音宣教という意味だ。

 全寮制の女子高で、その頃の西宮朝子は長い髪にスレンダーな立ち姿で、教会の修道服をイメージしたワンピースの制服が実に似合っていた。しかしながら女子高ゆえに男の目は二人の男性教諭と事務員のみ。ここが共学だったならば、彼女はさぞかし蝶よ花よと愛でられたであろう。

 だが何を勘違いしている? 男だけが女を愛でる事を許されたみたいな物言いは止めて頂こう。彼女はモテていた。全寮制の女子高で、毎日のように女子から告白されていた。実際にお付き合いした事もある。入学直後の可愛い新入生の頃から、卒業間際までギッチギチにすし詰め状態にモテていた。


 途中まで彼女は自分のその状態に酔いしれていた。自分の容姿が優れている事に気付いていないわけもないが、実際にモテると嬉しい。それが例え同姓であったとしても、好きだと言われて嬉しくない人類など居ない。特にこの時期の少女達は恋に愛に飢えた狼の如く、その手の話に群がる。彼女は学園中に広まる自分のモテ・エピソードに鼻高々だった。

 だがそれも、ある時期まで。ある時期とは、具体的には二年生の冬。十二月の二十五日、つまりはクリスマス。ここでもう一度思い出してもらおう、彼女の癖を。その眼鏡を直す時にレンズを触るという、その癖が産まれたのは何故か、という問題提起を。




 ※




 西宮朝子、十七歳。今宵はクリスマス。日本でクリスマスといえば、サンタクロースが子供にプレゼントを配る特別な日。一度は皆様も耳にした事はあると思うが、実は海外では一年の節目として祝う国も多い。

 それはこの学校でも同じで、どこぞのパリピのように騒いだりはしない。正月に実家で過ごす、あのテンションを思い出してほしい。朝から夕方までに日本酒やらビールやらでお節料理を食い散らかしたオッサン共が潰れ、ようやく子供を風呂に入れて家事も熟して一息つける、そんな時間帯を想像して貰えば分かりやすいだろう。上京して一時帰宅した娘から、近況報告を落ち着いて聞ける時間。娘の愚痴っぽい話も楽しくて仕方ない。彼氏の話が出たりしたらテンション爆上がり、ちょっと心配。そして正月が終われば娘は再び都会へと帰ってしまう。それを思い出して少し切なくなる時間。


 西宮朝子はまさにそんな気分だった。学校の行事をそつなく熟し、ベッドで眠る相部屋の同級生の寝息に耳を傾けつつ、窓の外の雪景色を肴にゆっくりホットコーヒー飲む時間。朝子にとって、この時間が一番クリスマスを実感できる物だった。コーヒーの湯気で曇ってしまう眼鏡を拭きながら、しかしその作業すらも心地いい。耳が痛むほどに無音で静かな夜。窓の外でしんしんと降る雪を眺めるのが好きだった。永遠に眺めていられる、この夜が終わらなければいい、そう思いながらホットコーヒーを一口。最高である。


 だが突如、雪以外の物が降ってきた。窓の外を突然横切る何か。一瞬だったが確かに朝子は見た。凍り切った女子の顔を。自分が前の前の前にお付き合いしていた女子の顔を。


「……え?」


 そして同時に聞こえる鈍い音。雪の上に何かが落ちる音の前に、確かに聞こえた。みずみずしい果物をハンマーで砕いたような音が。

 嫌な予感がした。嫌な予感しかしなかった。ベッドにもぐりこんで目を瞑りたい意志に逆らって、朝子は部屋を飛び出て寮の階段を駆け下りる。寮は五階建て。朝子が居るのは三階。一気に駆け下り、途中でシスターに呼び止められ注意されると、朝子は出鱈目に言葉を羅列して状況を説明した。朝子の出鱈目な日本語でも、シスターは事態を把握したようで、急いで共に外へと飛び出る。そして朝子は、その現場へと駆けつけた。


「……ぁ」


 たまたま、分厚い雲の隙間から月明かりが出る。その月明かりはそれを照らし続けた。朝子よりも足の遅いシスターが遅れて駆け付けた時、叫び声をあげながら、それに掛けよる。それとは赤く染まった雪の塊。すでに小さな体には雪が積もり始めていた。しかし赤い液体は雪を溶かしながら、ゆっくりと朝子の方へと向かってくる。


 まるで意思を持っているかのようだった。まるで朝子を求めているかのようだった。花壇の角に頭を潰されたのか、顔が判別できない。しかし朝子は鮮明に思い出す事が出来た。笑顔が可愛い、パンジーのような少女。自分はもうすでに沢山思い出を貰った、だから次の子に先輩を譲ると、身を引いた後輩。


 ワンピースの制服は濃青色。軽い色盲を患っていた朝子は、薄暗い中では真っ黒にしか見えない。しかし雪の上の濃い赤色は、はっきりと赤と認識する事が出来た。


 朝子はゆっくりと近づき、泣き喚く血塗れのシスターの横で、白魚のような少女の指を優しく包む。潰れた顔を必死に抱きしめながら泣き喚くシスター。脳梁が飛び散り、夥しい血液のせいか暖かさを感じた。そして朝子を求めるように流れてくる赤い液体へと、朝子は手を伸ばした。そのまま温度を感じようと雪ごとすくいあげ、顔に近づける。眼鏡に血が付着した。


 シスターの叫び声に気付いた他の生徒や、教員が駆けつけてきて、朝子は剥がされるように退去させられる。しばらくしてパトカーのサイレンが聞こえてくる頃には、朝子はシスターと共に職員室のストーブの前へと連行されていた。


 拭っても拭っても、眼鏡に付着した赤色は取れなかった。

 たとえ水で、洗剤で、綺麗に赤を落そうとしても、落しても、そこには赤が残り続けた。

 色盲の朝子にとって、血液の濃い赤は黒にしかみえない。だが何故か朝子はその色だけは赤色だと判別出来た。ピカピカに磨いた眼鏡のレンズを装着しても、赤色はいつまでも朝子の眼鏡に宿り続ける。そしてそれに触れた時、かすかに暖かみを感じた。眼鏡を手を近づけると、つい……触ってしまう。


 



 ※





 わざわざ眼鏡のレンズに触れて位置を直し、指紋で汚れたそこを拭いて綺麗にする。そんな無駄すぎる所作を行う三十二歳の女の元へと、顔にナナメの傷が入った、誰が見ても明らかなその筋の方は怪訝な顔をした。


 東京の世田谷、高級住宅地の外れのボロアパートが朝子の住処。風呂トイレなし。近くに更にボロい銭湯があるからそこに行け、という条件で家賃八万円。探せばもっとまともな物件はあるだろうに、と男は朝子の部屋で煙草をふかしながら思いを馳せていた。隙間風も凄い。


「……何か?」


 レンズをピッカピカにした朝子は眼鏡をかけ直した。男は「別に」とだけ零し、サイフの中から一枚の写真を抜き取って朝子の前に。


「いつもの頼む」


「……まだ若い男じゃないですか。未来は明るいですよ、千沢せんざわさん」


「その男の未来は明るくとも、関わった女の未来はお先真っ暗だ。その辺で遊んでるだけなら俺達も関与しねえが、若頭の店の女に手出しやがった」


「あらー」


「報酬は五百万、一か月以内にすましてくれたら七百万上乗せする。その金でもう少しマシな所に住め」


 朝子は写真を手に取り、よくよく観察。見た目は大学生かそこらの若い男だ。友人と共にゲームセンターから出てきた所を隠し撮りされたのか、体格も見て取れた。何かスポーツをやっていたのかもしれない。中々にいい体をしている。


「格闘技経験は?」


「大学では遊んでばっかだ。高校の頃は空手やってたらしい」


「私には荷が重くないですか? 抵抗されたら勝てません」


「プロレスラーぶっ殺しといて良く言う……」


「あれは条件が良かったからですよ。私にベタ惚れだったし。婚約指輪も買ってもらいました。捨てましたけど」


「もったいねえなぁ……」


 朝子の脳裏に蘇る記憶。プロレスラー、相羽兼彦は家庭内暴力の常習犯で、愛人はとっかえひっかえ。終いには組関係者の妻に手を出した。死因は高所からの転落。直前に新たな愛人と居酒屋で飲んでいた事から、酔って転落したのだろうという事で事故死。ちなみに新たな愛人は誰か分かっていない。警察とて暇ではないのだ、とっかえひっかえの愛人などいちいち調べない。


「凄い音しましたよ、あの時。ゴミ捨て場に生ごみを捨てるよりも爽快な音でした」


「これだから快楽殺人者は……」


「失敬な。ビジネスです。その前のサラリーマンはあんまり気持ちい音はしませんでしたね」


「…………」


 朝子の脳裏に蘇る記憶、その二。某IT企業の社畜。ストレス発散のためにと会社帰りに通りすがりの女性に乱暴。その際、動画を撮影し、警察に言えばSNSに投稿すると脅していた。だが、通りすがりの女性の中に、組長の隠し子が混ざっていた事が判明。


「今思ったんですが、あのサラリーマン、なんで私が始末したんですか? 拉致して生きたまま腸綱引きすればよかったのに」


「それをやりたくなかったからだよ。親父に知られる前に事故死してもらったんだ。マジでお前には感謝してる」


「あのヒトも私に本気で恋してましたね、一緒に死んでって言ったら飛んでくれました」


「つまらねえ最後だなぁ、おい」


「つまらないと言えば……パパ活の男は一番退屈でしたね」


 朝子の脳裏に蘇る記憶、その三。パパ活の男。多くの女子大生のパパとして活躍。しかし金が尽き、組の高利貸しを利用。しかし返済できるわけもなく、保険金の受取人に生涯で最も愛した女性を指名し自殺。


「事故に見せかける工作だけして終わりました」


「平和的でいいじゃねえか。あっちも好きな女に金が行って満足だろうよ。これがウィンウィンって奴だな」


「ちょっと死語になりかけてますから、気を付けて下さい。ウィンウィン」


 こんな感じで朝子は日々労働に勤しんでいる。そして主な仕事の紹介口は成川組の千沢。千沢は朝子の事を、女癖の悪い男を殺す事で快楽を得る人間だと思っていた。だが朝子の殺し屋としての教義は若干複雑である。

 そして朝子の新たな仕事は、不運にも若頭の店の女の子に手を出してしまった大学生の男。朝子はどう攻めようかと思考する。


 この時間が堪らなく好きだ。もはや窓の外に振る雪を眺める朝子の面影は、そこには無い。




 ※




 泰道たいどう剛士たけし。都内の大学に通う二年生。時は十二月。最近、彼の周りで不幸な事故が連続して起きていた。しかも妙な共通点が。全員が高所からの転落死。そして直前に「女が出来た」というメッセージを残している。犠牲者ぎせいしゃは既に五人。警察は事故死として処理しているが、泰道は確信していた。これは何者かの陰謀だと。


 自然と泰道は大学でも、街を歩く時も、風呂でもトイレでも気を張ってしまう。次は自分の番かもしれない。だが警察が事故死として処理しているのだ、ただの偶然という線も捨てきれない。いや、きっと偶然だ、そうに違いない、そう泰道が思い始めた頃……彼のアパートの部屋に封筒が投函された。


 大学からの帰り、仲間内で飲んだ後帰宅した彼は、その封筒を開け愕然とする。中には五枚の写真。そのどれもが、見覚えのある服装のまま血塗れになっている写真。そしてそのすぐ傍に、明るい笑顔でピースする老婆が写っている。


「よ、妖怪……妖怪の仕業だったのか?!」


 この老婆だ、このピースする老婆が妖怪に違いない。そして血塗れの男達の遺体は、皆頭が潰れ地面に血だまりが出来ていた。月明かりなのか、淡く照らされる血液。その一名に、カメラ目線で手をこちらに手を伸ばしている友人も写っていた。血塗れの中で必死に助けを求めるように。


 その血がカメラの方へ向かってきている、ように見えた。泰道は震えあがり、思わず叫んでしまう。叫びながら布団へと潜り込んだ。


「違う、違う、俺は何もしてない、何もしてない、大丈夫だ、妖怪に狙われるような事はしてない。祠とか壊してない、ガキの頃に背の高い女に付きまとわれたりもしてない……」


 意味不明の恐怖が彼を襲う。その時、インターホンが鳴り響いた。泰道はビクっと震えあがりながら、恐る恐る玄関へと向かい、のぞき穴を確認。そこには最近隣の部屋に引っ越してきた未亡人の姿。


「あのー……なんか叫び声が……大丈夫ですか?」


 眼鏡が印象的な、肌の白い、髪を編みこんだ未亡人。泰道は自分より歳が離れてそうな未亡人に興味は無かった。だからこそ、心なしか安心してしまう。この人は絶対に無い、、五人の仲間達は絶対に言わないだろう。


 泰道は一度深呼吸をし、ゆっくり玄関を開け放つ。


「……すみません、ちょっとゴキブリが……」


「あらあら、男の子なのに。可愛い所あるんですね? 泰道君は」


「……すんませんッス……」


「謝る事無いわ。でもそれだと……私の部屋にゴキブリ出たら誰に頼もうかしら……」


 不安そうなその姿に、泰道は頼もしくガッツボーズを決めながら


「俺が何とかしますよ、任せて下さい」


「今叫んでたのに?」


 未亡人は笑いながら、泰道は照れながらしばし談笑する。そして夜も冷えてきたと部屋に戻る未亡人の細い背中を泰道は見守り、心の中に暖かい物が生まれるのを感じた。さっきまで悩んでいた事を、綺麗さっぱり忘れる程に。


「いけねえいけねえ……妖怪なんかに怯えてどうすんだ、俺」


 己に喝を入れる泰道。妖怪などに怯えていては男がすたる。もし自分の番が来たとしても、得意の空手で撃退してやると気合を入れた。




 ※




 未亡人の名前は子。なんて切ない名前なんだと泰道はいつしか夜子の事しか考えられなくなっていた。あれから作り過ぎたからと肉じゃがをお裾分けしてもらえたり、ゴキブリ撃退グッツを分けて貰ったりした。時にはベランダに下着が飛んでしまった、取りに行くから目を瞑って部屋の鍵を開けろと連絡を貰う事も。泰道は夜子が時折見せる、少女のような振舞、そして大人びた所作に惹かれていた。

 確かに年齢は十歳程離れている。泰道は恐る恐る、失礼ながら……と夜子に年齢を聞いたのだ。泰道は今年で二十一歳。それに対し夜子は三十二歳と答えた。


『なーに、おばさんだって言いたいの?」


 そう頬を膨らませる夜子は凄まじく可愛かった。眼鏡のレンズに触れながら位置を直すのも、もはや一周回って可愛い。泰道は自身の変化に驚いていた。まさか自分がこんなに年上が、それも未亡人好きだったとは。もはや泰道は夜子に恋をしていたのだ。それも今まで抱いた事のない、本物の恋……だと信じていた。


「これからは真面目に生きよう……」


 泰道は心を入れ替えたように大学へと通い、髪を整え、帰りに何処にも寄らずまっすぐ夜子の居るアパートへと帰るようになった。早く帰れば、隣の部屋から美味しそうな料理の匂いが漂ってくる。そして泰道が居ると分かると、夜子は決まってお裾分けを持ってきてくれたのだ。泰道はそれが楽しみで仕方無くなっていた。


 だがある日、いつもの時間になってもなかなかお裾分けを持ってきてくれない。首を傾げた泰道は、玄関へと歩み寄り、夜子を待ちわびた。すると男女が言い争う声が。


「探したぞ、朝……いや、夜子!」


「かえって……! 夫の借金は返した筈でしょ!」


「そんなもん関係ねえ! 俺個人の問題だ! さあ、俺のところに来るんだ? あさ……よるこ!」


 若干棒読みな演技臭い、顔にナナメの傷が入った男と、夜子が言い争っていた。泰道は玄関を開け放ち、様子を伺いながら、夜子の泣きそうな声を聴き深呼吸を二つ。

 そして勇敢にも、見るからにその筋の男と夜子の間へと割って入った。


「ま、まって下さい! よ、夜子さんが何したっていうんですか!」


「ッチ……やっときたか……クソガキ! お前には関係ねえ! すっこんでろぉ!」


「ひぃ!」


「や、やめて! この子は関係無いわ! 早く帰って! これで……ほら、帰って!」


 夜子はサイフから一万円札を何枚か雑に取り出すと、傷の入った男へと押し付けた。男は「また来るからな」と言い残し去っていく。そして男の足音が遠ざかるのを確認して、泰道は紐が切れた人形のように崩れた。


「大丈夫? 泰道君……ごめんね、巻きこんじゃって……」


「い、いえ、今の……ヤクザ……」


「私の夫の義理の兄の弟の友人よ。可哀想に……こんなに震えて……ほら、入って入って、シチュー作ってるから……お風呂も入っちゃって。どうせいつもシャワーで過ごしてるんでしょ?」


「え? いや、あの……」


「いいから、ほら……助けてくれたお礼、させて?」


 泰道に断るという選択肢は残っていなかった。そのまま誘われるがままに夜子の部屋で一夜を過ごす泰道。怖いヤクザからの、暖かいシチュー。まさに地獄から天国へ。泰道の心は、完全に夜子の物になっていた。この人は俺が守る、泰道はそう心に誓う。そして予想以上に白く、若々しい夜子の肌に、泰道の心は成す術もなく溶かされていった。





 ※





 泰道と夜子が同棲しだして数日、あのヤクザから電話がかかってきた。その電話をうける夜子の声は暗い。そしてその表情は今まで見た中で……最も悲し気だと泰道は感じた。


「また、ここに来るって……。どうしよう、剛士君」


「……大丈夫です、俺がまた追い払って……」


「ねえ、逃げよう? 今すぐ」


「え、いや、追い払って……」


「準備して、ほら、いくよ」


 半ば強引に外へと連れされた泰道。外は寒く吐く息は当然ながら白い。コートを着込んだ二人は、寄り添うように、ひと気のない道を歩く。


「私の……死んだ夫ね、酷い家庭内暴力男で……」


「そう、だったんですか」


「しかも、愛人も居たの。最低でしょ……」


「そう……ですね」


「パパ活とかやってたんだよ」


「マジっすか?!」


 時刻は午後七時を過ぎたあたり。ここは東京の渋谷。しかし二人が居るのは、ゴーストタウンのような静けさを放っていた。時折すれ違う人間は酔っ払いか、その筋の方々。二人は腕を組み歩きながら、とあるビルの中へ。


「ね、屋上いこう。星が見えるかも」


「はは、そうっすね……街が明るすぎて微妙だと思いますけど……」


「またそういう事いう」


 頬を膨らませる夜子に笑顔を見せながら、ゆっくり階段を昇っていく泰道。これが自身が昇る最後の階段になろうとは、思いもしない。




 ※




 屋上へとたどり着いた二人。空を見上げても、やはり星など見えない。少し先の渋谷の明るい街並みが目に飛び込んでくる。


「私ね、死ぬために引っ越してきたんだ」


「……え」


 泰道にとって衝撃的な言葉。しかし夜子の声は明るい。空を見上げ、見えない星を掴もうとする夜子。そのまま歩き、屋上の隅、その低い柵の方へ。


「ちょ、夜子さん、危ないですよ」


「……剛士君、ありがとね、最後……とっても楽しかったよ」


「何、言ってるんですか?」


 泰道は悟った。夜子が妙に親切だったのは、誰でもいい、最後を共有してくれる人が欲しかっただけなのだと。


「……俺は、夜子さんの事、す、好きです……!」


 驚いたように振り返る夜子。そして優しく微笑みながら「ありがとう」といいつつ、低い柵を乗り越える。


「夜子さん! 何してんですか! 駄目、絶対駄目です!」


 しかし夜子は、そのまま手を広げ、体重を後ろへと傾ける。泰道は走った。生涯で最も愛した女性の元へと。決して死なせないと、夜子を掴もうと低い柵を余裕で飛び越え……手を伸ばし……


「え」


 だが夜子はある程度、傾いただけで、その状態を維持していた。まるでマイケルジャクソンのように。

 飛び込んだ泰道が見たのは、夜子のベルトから伸びるワイヤー。それが柵に繋がっている。


 そして泰道のコートの袖を掴む夜子。そのまま引き付けるようにしながら、柔道の投げ技のように体を捻る。泰道が飛び込んで来た動きを利用して、そのまま見事に宙へと放り投げた。


「え」


 再びの「え」を夜子は確かに聞いた。そしてニッコリ笑いながら。


「えー、きいてないよー」


 まるで泰道の胸の内を代弁するように、若干馬鹿にしながら。

 その言葉を果たして泰道が聞き取れたのかは不明だが、夜子……いや、朝子はワイヤーで斜めの状態を維持したまま、その音を聞き取る。果物が硬い物で砕かれたような、その音を。


「……違うなぁ」


 それだけ感想を残し、再び柵の向こう側へと戻る朝子。そしてビルの表まで戻ると、老婆が佇んでいた。


「今日も写真とるのかえ?」


「ううん、今日はいいや。前と同じように証言しといて。ぁ、これで暖かい物食べてね」


「どうも、おおきに。今日の子は叫ばんかったなぁ」


 朝子は泰道の遺体を見て、その潰れた頭を見て「やっぱり違う」と呟いた。レンズに触れながら眼鏡を直し、真っ黒にしか見えない血液を眺める。血だまりの中で泰道の潰れた顔を自分と置き換えながら。


 すると雪が降ってきた。いつかのように血へと雪が解けていく。しかし色は相変わらずの真っ黒。潰れた頭から流れる脳梁と血が、だんだんと広がり泰道のコートへと沁み込んでいく。転がった眼球だけが、こちらを眺めていた。朝子は最後にその眼球へと軽く手を振りながら、背中を向ける。



 雪が冷たい。


 朝子は再び眼鏡のレンズへと触れた。

 赤い、その血液だけが、朝子にとって唯一のぬくもり。




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