12 大上くんに花束を 一
月港施設の正面玄関前にはささやかな庭園があって、梅の花がぽつりぽつりと顔をのぞかせはじめている。わたしは春の訪れを目に受けとりながら、途方に暮れるような気持ちで敷地内を歩いていた。
大上さんが風邪を引いたと聞いたのは、今朝、執務室に出勤してすぐのことだった。いつもの速足で近づいてきた狐崎さんは、自分の部屋の椅子にかけてある紙袋を大上くんに届けてほしい、と言い残し、ぴゅうとどこかへ走り去ってしまった。大上さんは寮ではなく、ふもとの街に住んでいるらしい。わたしは大上さんの住所を確認するべく、マシン部へと足を向けたのだった。
「なんやこの忙しいときに!」
「かくかくしかじかで、住所か地図を……」
「ほんまあいつらは親子揃って…… 若いくせに、這ってでも来いっちゅうねん!」
そう言って、志村さんはぷんすかの形相でわたしの手帳に殴り書きし、走り去ってしまった。目を落とすと、地図のメモ書きはなんとなく理解できた。しかし、書かれた文字はお世辞にも綺麗とは言えなかったし、それを抜きにしても、明らかにわたしの知っているどの文字とも異なっていた。わたしは端末のカメラで写真を撮った。
これでは辿りつけそうもないので、わたしは藁をもすがる思いで文字の上手な星ウサギに翻訳を頼むことを思いついたが、結局、喧噪の飛び交うマシン部のどこを探しまわっても、彼を見つけることはできなかった。
こうして、わたしは仕方なく建物を出て、敷地内にある女子寮へと歩き始めたのだった。
「お困りのようだねえ」
後ろから知った声がかかって、わたしは振り向いた。
「所長」
「おお、かわゆく咲いたねえ。もう春か。はやいなあ」
「綺麗ですね」
「うんうん。しかし、はあ。丹羽くんも水臭い子だなあ。私に相談してくれれば一発だったのに」
「それは思いつきませんでした」
「傷つくなあ。まあとりあえず、お見舞いの品を回収しようじゃないか」
🌙
わたしは一度、狐崎さんの部屋に行ったことがある。二週間前、あの買い出しから帰った夜のことだ。わたしは狐崎さんに強く勧められて、低アルコールの缶チューハイや秘蔵のお酒を少しだけもらったのだった。
「部屋をかざろぉ〜う、こぉひぃを飲もぉう、ふたりでえぇ〜」
そして、その間ずっと目についたのは、見たことのないラベルのお酒でも、その首根っこをひっつかみマイクにして歌いはじめた狐崎さんでもなく、部屋そのものの方だった。
「相変わらず、なんにもないねえ」
「前にも来たことが?」
「うん。彼女が来たばかりのころにね。あんまりさみしい部屋だから、テーブルとチェアをセットでプレゼントしたんだ」
「お優しいんですね」
「えっへん。……そいじゃ、狐崎くん。お邪魔するよ」
わたしは所長の首根っこをひっつかみ、ドアの外につきだした。所長は空中でだらんと脱力している。
「どうして」
「月にデリカシーをお忘れでは?」
「う~ん。さいきんの君、言いぐさが宇留賀くんに似てきたねえ」
わたしは手を放し所長を落とした。所長はウサギみたいに床に降り立って、閉じるドアの隙間に「ぐすん」と言った。
「失礼します」わたしは靴を脱ぎ、キッチンに向かった。そこには所長がプレゼントしたという、白いテーブルと白いイスが置かれている。しかし、紙袋はどこにも見当たらない。わたしは部屋を見渡した。すると、ベッドの傍、広い窓辺にイスが移動してあって、その肩にえんじ色の紙袋がかかってあるのがみえた。わたしは歩み寄り、紙袋の持ち手の輪をはずした。
すると、午前の透明な光のなかに、やわらかな木目のイスが突然あらわれたかのように感じた。それは薄められて伸びる影とともに、綺麗な脚をひろげ、座面のまんなかを掌のようにまるくくぼませ、幾筋もの細い軸で背もたれをすっくと立たせている。その軸の両端はほかのものより太く、すこし長くなっていて、それら二本の内側に接するように取り付けられた板がたわみながら他の軸先をうけとっている。包みこむような繊細さと、ある種の激しさが、森林のように確固とした揺らめきとなって窓辺にたたずんでいて、まるで美しい動物のようだ、とわたしは思った。
そして、自分がなぜこんなにもじっと見ているのか判らないまま、わたしはこのイスとベッドだけがあったときの狐崎さんの部屋を、無意識に想像していた。
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