6 街への扉
『食品開発部は四階にあります。場所は毎日ランダムに変わりますので、とにかく、一度行ってみてください。それと、薄手のもので構いません、上着を忘れないように』
わたしは上司Aさんにそう言われ、シャツの上にカーディガンを羽織り、エレベーターで四階に向かった。そのフロアは異様に暗くて肌寒く、壁には異なった種類のドアが並んでいた。色も形も素材も様々で、引き戸やシャッター、なかには壁が四角く切り取られ、そこに
わたしがある暖簾の前を通り過ぎようとすると、その中からとても良い匂いがした。わたしは立ち止まり、少しかがんで中を覗きこんだ。
「らっしゃい」
カウンターの向こうでもうもうと立ちのぼる白い煙の中から、所長とはまた違った趣きの渋い声が聞こえてきた。わたしはその姿を捉えようと目を細めたが、うまく見えなかった。
「入らねえのかい」
「あ、すみません」
わたしは手ですこし布を避けて中に入った。そこには八月の夜のような熱気と、嫌みのない出汁の香りが充ちていて、わたしは、いま自分は夜の路上で屋台の暖簾をくぐったのではないか、と存在しない体験を錯覚した。冷えた腕に暖かな空気が染みわたり、じわり、と心地よい鳥肌がたった。そして、わたしの錯覚の背を押すように、どこかで自転車のベルがちりんと鳴った。続いて、どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。
わたしは、そこが紛れもなく屋外であるらしいということに気づきはじめた。目を落とすと、そこには確かにアスファルトがある。振り向くと、ただ暖簾の向こうだけが切り取られた不自然な長方形で元いた場所に繋がっていて、その縁の外には、知らない夜の街が延々とひろがっている。
「ここは……」
「座んな」
「はい」
わたしは席についた。目の前にはおでん用の、区切られた四角い鍋がくたくたと煮立っている。わたしは突然に言いようのない強い食欲に襲われた。
「何にする」
大将は煙の向こうでそう言った。煙からは長い箸だけが突きでていて、まるで箸が喋っているかのようだった。
「
「おう」
「食品開発部を探しに来たんです」
「そうか。まずは食え」
「はい」
「竹輪麩、お待ち」
煙から、平たいお皿がにゅっと出てきた。その動きにあわせて、まるで生きているかのように煙も膨らんだ。わたしは束になった割り箸から一膳引抜いて二つに割った。逸る気持ちを抑え、手を合わせる。
「いただきます」
竹輪麩は箸の先でくずれそうな角度でたわみながら黄金の雫を少しずつ零している。わたしはふるえる箸先を口へと運ぶ。
「……はふ」
まずじゅわりと優しい出汁が口の中いっぱいに広がる。すり身が徐々にほどけるとともに、白身魚の香りと、かすかな焦げ目の香ばしさが混ざりあってゆく。そこへ出汁が緩やかな二面性をもってふたたび返り咲く。甘く澄みわたっていた奥に感じる、ほんのわずかに揺れる苦い風味。次が欲しくなる。
「……美味しい」
「当然よ」
それからわたしは竹輪麩を1つ、大根2つ、蒟蒻2つ、煮卵2つ、牛すじ2本、しらたき3つに餅巾着1つ、そして裏メニューのウインナー2本を平らげた。
「ご馳走様でした。お勘定……じゃなくてですね」
「おう」
「食品開発部を探しに来たんです」
「そうか」
大将は鍋の火を止めた。すると煙がすーっと溶けてゆき、朧げではない大将の姿が現れた。
「ここがそれだ。事業企画部の新顔だな、お嬢ちゃん」
案の定と言うべきか、大将はウサギだった。いわゆるネザーランドドワーフ、という種類に見える。そして鉢巻を締めている。
「名前は丹羽っていうんだとよ」
わたしは右を向いた。そこには、緑がかったグレーのウサギが一升瓶を傾けていた。
「いつからいらっしゃいました?」
「ずっとだよ。美味そうに食うなあ、おめえ。はんぺん食ったか?」
「いえ」
「あんだよ、はんぺんが一番美味えんだよこの店はよ」
「あんまり飲み過ぎるなよ、ミヤちゃん」
「か〜、あんたまでしょっぺえこと言うんじゃねえよ、大将!」
わたしは2羽のウサギに挟まれながら、まだ入るだろうかとお腹をさすった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます