10 人の声いまは絶え 二
「ちょっと後ろ見てもらえる?」
わたしは後ろを向いて、訊いた。
「追手ですか、座席ですか」
「座席」
「悲惨ですね」
「あちゃー。タマゴ?」
「はい」
「ぐえ、落ちるかな」
後部座席には浜辺に打ち上げられたかのようにレジ袋の中身が散乱していた。シートは所々てらてらと妖しい輝きを放っている。わたしは前に向き直った。ひと気ない夜の街はずれを走る車内に充たされた沈黙に、ウインカーのかわいた連続音だけが響いた。そして、曲がりきると同時に狐崎さんは唐突にこう言った。
「ごめんね」
「何がですか」
「さっきの……というより、事前に言わなかったことが、かな。言えなかったというのが正しいんだけど、言い訳よね」
狐崎さんはらしからぬ要領を得ない返答をし、ふたたびウインカーをだして右に曲がった。左ハンドル車の運転には慣れているようだったが、車は最短距離とはいえないルートを走っていた。よく見るとかすかに手が震えている。
「っていうか、よく気づけたわよね」
「いえ、気づいたというか……誰かいるなっていう程度で」
「そう。わたし、結構長い間気づかなかった。それでも問題なかったけどね、裏で所が動いてくれてたから。だから、危険はない……ほとんどの場合はね」
わたしは狐崎さんのいつになくシリアスな声色に驚いている自分をみつけた。
「こういうことはよくあるんですか」
「日常茶飯事、というほどでもない。少なくともここ数ヶ月は無かった。でも、わたしたちの行動範囲内には、ダミーの運転手を使って、いつでもスペアの車が数台配置されることになってる。他にも色々やってるから帰ったら説明するわ。業務時間外に申し訳ないけど」
「そうまでして、なぜ外出を? 必要なものは用意してもらうこともできるのでは」
「誰しも気晴らしは必要よ。とくに、異常で、閉鎖的な環境下ではね。ずっと施設の中にいると、こう……分かるでしょう。あとは意地」
そして狐崎さんはフロントガラスの向こうの、見覚えのある黒い点を見るよう促した。
「さっき出てきたあのトンネルは特殊な力場になっていて、登録された生体しか行き来できないの。だからわたしたちが必要みたい……あ、これまる覚え情報ね。メカニズムとかは全っ然分からないから」
そういって狐崎さんは笑い、「まあ」真面目な顔でこう言った。「諸々、早いうちに知ってもらえて良かったかな」
狐崎さんはスイッチを押し、ハンドルから手を離した。車が加速しはじめる。
「所で働くっていうのは、こういうことなの。重要なことも段階的にしか教えてもらえない。いろんな人間がいろんな思惑で近づいてくる。まいにち理不尽なことばかり。なにより、守ってもらえるとはいえ、絶対的に安全とは限らない。ここはあくまで、地球だから」
そしてわたしの方を向いた。
「危ない目に遭わせてしまったこと、あなたを採用した上司として謝ります。本当にごめんなさい」
狐崎さんは頭を下げた。
そしてわたしは、ゆっくりと上げられる影の中の表情——彼女の目を、さっきとは逆方向からみつめかえした。その瞳には、さまざまな景色が内向きで映っているかのように、分からないさまざまな感情がかわるがわるひらめいているように見えた。そのとき、まるでスポットライトに一瞬だけ照らされたかのように、常夜灯の白が狐崎さんの目元をさっと通りすぎた。その右の
狐崎さんの瞳が揺れ、視線を外した。わたしも前を向いた。
「わたしなら、きっと許せない。それでも月港施設は必要なの。こんな時代だからこそね。人間、食べてさえいれば、生きていけるもの」
「そうですね」
「続けるか、それとも辞めるか、よく考えて……」
「わたしは辞めません」
狐崎さんがわたしの方を見た気配がした。「わたしにとっても、ここは必要なんです」
「……そう」
「それと、かっこよかったです。さっきの狐崎さん」
「えっ。そ、そう?」
「とても」
暫く動きを止めていた狐崎さんは、静かにカーステレオをつけた。車内に昔のバンドの曲が流れだす。自動運転を切り、ハンドルを握った狐崎さんの鼻歌とともに、心なしかスピードを上げた車は月光になびく草原を駆け抜ける。
「いつの日か、輝くだろう、こよいの月のように……」
わたしはあえて、狐崎さんの顔を見なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます