9 人の声いまは絶え 一
「でね、こっからが面白いのよ。月のメイン商品って、元々なんだったと思う?」
「元々って、大昔ですか?」
「そうそう!」
「やっぱり、お餅とか」
「と思うでしょ! 違うのよ。でっかいチーズ見たことある? このハンドルくらいの大きさの」
「うーん、テレビでなら」
「それだったんだって! でもね、むかし日本列島のあたりに住んでた人たちの胃にチーズが絶望的に合わなくて、開発してまもない新商品だったお餅に路線変更したんだって。その味が忘れらんなくて、味が似てる! って気づいた人がお米の栽培を始めたって」
「面白いですね」
「でしょ! どう考えても眉唾だけど、毎回妙に信憑性あるのよね。なにせ、全部見てきましたけどみたいな言い方するもんだから、あの所長。一体何歳だって話よ」
狐崎さんの笑い声が響く車内に、ナトリウムランプの橙色が走っては消えていく。わたしたちは長いトンネルを抜けた先にある隣街のスーパーに行くところだった。
「やっぱり夜のお出掛けってワクワクするわよねえ」
「ですね」
車がトンネルを抜けた。わたしたちは口を噤んだ。
アスファルトを遠い街明かりまでみちびいてゆく常夜灯が、なだらかな丘の群れを這うように、なんども途切れながら続いていた。その細く二列に連なったガードレールの境目の外には、無数の艶やかな表面が月明かりに
「信じられる? ほんの昔まで、これ全部街だったのよ」
「はい」
「でも綺麗よね。哀しいぐらい」
「ほんとうに」
この景色を切りとってだれかにみせたなら、信じるなんて不可能だろう。澄みきった空気が空までみちたこの何もない場所に、かつて無数の生活があったなどと。
「――丹羽ちゃんって、クールよねえ」
わたしは窓から視線を外し、狐崎さんをみた。狐崎さんはドアに肘をつき、笑みを浮かべてわたしをみていた。濃い陰影に包まれたその表情からは、上手く意味を読みとることができない。
わたしは返答を間違えただろうか?
「本心のつもりだったのですが」
「あっ。違うの、責めてるわけじゃなくて」
狐崎さんは唸りながら、ハンドルにかけた指をなんどか叩いた。そして細く息をはき、「笑わないでよ」そう前置きをつけ、話しはじめた。
「久々の後輩だったからさ。カッコつけたくてクールぶってたのに、すぐ化けの皮剥がれちゃった」
連日、狐崎さんは例のシステムエラー対応に奔走していた。それがきょう、ひと段落ついたのだった。
「要するに、かわいい後輩にカッコ悪いとこ見せちゃって、落ち込んでるってわけ」
狐崎さんはおどけたようにそう言って、深く息を吸った。
「ありがと。笑わずに聞いてくれて」
「いえ」
「話したら楽になったわ。さ、明日も頑張ろ」
微笑む横顔の向こうの窓にはわずかに欠けた月が掛かっている。わたしは狐崎さんの纏う空気に密やかな後悔をみつけた気がした。わたしは視線を前に戻し、すこし考えた。
「たしかに、クールだったかといわれると難しいところです」
狐崎さんは黙ったままだ。
「でも、こんなに早く復旧が完了したのは、バイジーさんと、彼女やマシン部を辛抱強く説得しつづけた狐崎さんの功績ではないでしょうか。少なくとも、格好悪いとはぜんぜん思いませんでした。ずっと見てましたけど」
狐崎さんがやけに静かになったので、隣を見た。すると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になっていた。
「――罪な女ね」
「はい?」
「ありがとう。運転中じゃなかったら抱きついてた」
「はい」
「うん。でもねえ」
すん、と狐崎さんは鼻をすすった。そして、ヒーターの風量を上げながら言った。
「あーあ! 慣れないことはするもんじゃないわね! キャラ変えようとするといつも失敗するの。何が起きても動じない、みたいな人って、ほんとかっこいいなって——うん。それだけ」
狐崎さんが横顔で微笑っている。でもその声だけは、どこか感傷的に響いたような気がした。
🌙
立体駐車場に社用車を停める。そこは映画館なども併設された小ぶりな複合施設だった。夜のスーパーに商品はまばらで、それでも狐崎さんは手慣れた手つきで目ぼしいものをカートのカゴに入れていった。「また高くなったわね——あ、丹羽ちゃん映画とか観る?」「たまになら」「じゃまた今度来よっか。ここわりと音響良いのよ」その後ろでわたしは何度か振り向いた。その先にあった適当な商品を手に取る。「これ要りますか?」「片栗粉?多分まだあったんじゃないかしら」
精算したあとスーパーを出た。レジ袋の持ち手がひえた指に食いこんだ。「ひゃー、寒いねえ」狐崎さんはつめたい風に声をあげ、足早に車へと急いだ。わたしは同意しながら、時間を確認するふりをして端末の内側カメラで背後を確認した。わたしは狐崎さんの横に並んだ。
「気づいた?」
狐崎さんがそう言った。横目で見ると穏やかな表情をしている。
狐崎さんはおもむろに知らない車のドアをあけ、わたしの左腕を強く掴んで車内に引き込んだ。そのときつんのめったわたしの頭を孤崎さんの手が覆い、その上をなにか重いものが通り過ぎた。後部座席に乱雑な音が立ちドアが閉まる。狐崎さんは左ハンドルを握るやいなやアクセルをつよく踏んだ——すでにエンジンはかかっていた——タイヤが強烈に摩擦する高い音が立った瞬間全身に重力がかかる。
バックミラーに人影は無かった。
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